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ケリス・ウィン・エヴァンスとスロッビング・グリッスル あ=ら=わ=れ 2008年 Cerith Wyn Evans with Throbbing Gristle A=p=p=a=r=i=t=i=o=n
ケリス・ウィン・エヴァンス、この1958年生まれの英国の作家は
数々のカルト作品を生みエイズにより死亡した映画監督デレク・ジャーマンのアシスタントを努めた後、映像作家となり、作家としての人生をスタートした。
90年代からは映像のみならず言葉や知覚をテーマにインスタレーション、彫刻、写真などに
表現手段を広げた。今回の横浜トリエンナーレのガイドブックでは彼について
「コンセプチュアルな彼の仕事には一種の意味と知覚の触媒として観客の多義的な解釈と認識を可能にする。」と記述しているが
実際、今回出展された彼の作品にもその特徴は刻まれていて
その「あ=ら=わ=れ」という作品名からして多義的な解釈を可能とする何かが秘められている。
なにがあらわれるのか?
その「あらわれ」は既に作品内にあらわれてしまっていて
我々はあらわれたもの、固定化されたものをただ鑑賞する主体に過ぎないのか。
それとも、その「あらわれ」は作品を見ている我々の目の前で生起し、現前してくるものなのか?
そもそも一語一語の間に刻まれた「=」はなんなのか?といったように。
それは作品を見ればはっきりするだろう。
その作品は鉄骨が剥き出しになった天井に強度の耐性がありそうなケーブルがくくりつけられ
ケーブルの下方、我々の目線からいうと3m程度の高さの位置に固定された白い横長の棒状のフレームからいくつかの、サイズの異なる丸鏡がぶら下がる。
中央部分だけ、幾人か入れそうなスペースを残して、そのような丸鏡群が鑑賞者を
取り囲む構造になっている。
それらは天井付近から発せられる持続的な送風によって常に不安定な揺れ動き、うごめきを見せ
一定方向への持続的な揺れは生じることなく鏡はそれぞれが多様に揺れ動き、反射し合い
鑑賞者の視点、鏡に映る姿を常に揺れ動かせ、また他者の「場」に対しての介入などにもより
イメージを固定させない。


また、それだけではなく揺れ動く鏡群に取り囲まれた鑑賞者は作品設置スペースの奥に固定された小型スピーカーから発せられる音響にも取り囲まれることとなる。
その音響は地鳴りのような低音を基調としており、そこに増歪された音色のギターと
エレキギターのミニマルなバッキング、粒のようなレベルまで裁断された電子音とが加わる。
それらの音響は始まり、終わり、ピーク、クライマックスなどといったような言葉を無化するかのように
ランダムに生起しては消え、一定の流れというものを生じさせない変化で
鑑賞者の音への安易な同一化といったものを阻害する。
そうしたあらわれては変化し、消え、「あらわれ」という言葉自体を細分化するといってもいい
この作品における分節化の表現は「あ=ら=わ=れ」という作品名における「=」の表記の意味を明らかにする。

この作品における装置をある種の言葉で表現するなら
(あらわれたもの)には統合されない、部分的な欲動、感情の絶え間ない生起を
表現する機能をもった実験装置と言うことができるだろう。
ただ、この作品の表現としての水準の高さ、インパクトは認めつつも
こうした表現が今という時代において、どれだけ表現として意義を持つのかというと
疑問を感じざる得ない部分もある。
この作品は想像的領域、肉体的領域のヒエラルキーが際限なく拡大し
映像媒体においてはCGなど、観る側、体感する側の感応領域への浸透技術が発展のピークを迎え
活用されつくし、ある種の表現の閉塞感を生じさせてしまっている現代の
限界点のようなものをアートという形式で提示した作品に思える。
つまり、ここ暫く続く時代のスタイルを非常に上手く、先鋭的に表現してはいるが
批判性、発展性といった部分で次の何かに繋げるものは特に感じられない。
ただ、抽象的、ポップ、表層的なインパクトありきの意味を読み取ることが困難な
もしくは解釈されることそれ自体を拒絶するかのような作りで
見る側を呆然とさせるような現代の作品が多い中
一人の人間にこういった様々な感情、考えを喚起させる作品というのは
それでも新しい何か、可能性を秘めている作品なのではないか、とも思えるのだった。
(上原正久)