阿部 葉子 | 朝羽 由紀 | 上原 正久 | 大内 雄馬 | 大森 沙樹子 | 躍場 裕佳子 | 柿田 真吾 |
神谷 悠季 | 木村 優子 | 佐藤 裕平 | ジョン スミ | 末永 幸歩 | 高野 希美 | 瀧田 梨可 |
竹内 舞 | 棚田 絵理子 | 谷口 匠 | 當眞 未季 | 中田 莉央 | パク ジュン | 日吉 ちひろ |
藤原 瞳太 | 馬淵 彩 | 森下 賛良 | 師田 有希 |
現代アートの祭典―今年の横浜トリエンナーレのキャッチコピーである。確かに、あれほどまでに世界各国から芸術家が集まり作品を発表する機会はなかなかないだろう。祭典というのもよく分かる。トリエンナーレに行った多くの友人が「よくわからなかった」「やっぱり現代アートって難しい」と言う中で、私はこのトリエンナーレを楽しんだ人間だ。確かに作者の意図が全く分からないものや、何のために創られたものなのか分からない作品もいくつかあった。だが、多くの作品は私の感性や五感を刺激し、作品に触れることで日常生活から逸脱したような気分にさせてくれた。
新港ピアにケリス・ウィン・エヴァンスとスロッビング・グリッスルの「あ=ら=わ=れ」という作品がある。この作品は鏡で作られた円盤のスピーカーが、モビール作品のようにいくつも吊り下げられている作品だ。それらのスピーカーは常に機械的な音を発している。そっと作品に近付き、どのスピーカーから音が鳴っているのか探ってみるものの、なかなか見つからない。見つけたと思ったら音が止まってしまう。そしてまた他のスピーカーに耳を近づける…まるで宝探しのようだ。私は童心に帰ったかのようにしばらくその作品の前で「はしゃいで」いた。
灰野敬二の映像作品は衝撃的であった。灰野はまるでそれまで彼を縛り付けていた理性から解き放たれたかのように、狂ったように頭を振り、全身を使って楽器を鳴らし続けている。鑑賞者は激しい彼の動きと楽器の音を、視覚と聴覚を通して感じる。そうするうちに鑑賞者は灰野の作品に恐怖さえ覚えてくる。まるで鑑賞者までも彼の理性から解き放たれた世界に引きずり込んでいってしまうかのような感覚にさえ覚え、ますます怖くなってくるからだ。だが同時に理性という名のストッパーから解き放たれた時、人間はこれほどまでに自己を表現しようとし、またこれほどまでに表現に富んだ生き物なのかもしれない、と思うと興味がわき、灰野の姿から目が離せず彼の動きに見入ってしまう。
三渓園に展示された作品は、どれも魅力的であり、かつ現代アートの最先端をいく作品ばかりであったのではないかと感じる。特に内藤礼の作品は日本人の美意識がつまった、大変面白い作品であると感じた。茶室の中に蚊取り線香と、その蚊取り線香の上に糸が吊るされた作品なのだが、蚊取り線香の熱によって吊るされた糸が微妙かつ繊細に揺れ動いている作品である。そのような糸の流れを見ていると、まるで風と共に揺れ動き音を鳴らす風鈴を思い起こさせる。その繊細な動きはかつて自然と共存していた日本人の暮らしと美意識を思わせる。静かな茶室で流れる内藤の作品はそのような自然と一体化しているかのようであり、鑑賞者は視覚や聴覚など五感を研ぎ澄まし、そこから受けるインスピレーションは鑑賞者の感性を静かに刺激する。そして内藤の作品は同時に現代の人々から忘れ去れてしまいがちなかつての日本人の思想を再確認させてくれるかのようでもある。
五感を通して私たちを日常からの逸脱に導く。私が横浜トリエンナーレを通して感じたことである。アートを五感で感じるということは、現代アートならではの特徴であるといえる。
しかし、現代アートとは一体何なのだろうか。横浜トリエンナーレに足を運んだ人の幾人かは抱いた疑問であろう。現代アートは定義も難しいし表現も多様化している。また作者の思想や概念が重要視される為、作品を見ただけではなかなかその思想や概念が伝わらないものも多い。そのため「現代アートは難しい」と多くの人が言う。しかし作者の意図や作品の意味を理解することだけがアートや芸術のすべてではないはずだ。確かに、芸術の歴史の中には作品の意味や作品の中の物語を読み解かないと意味を成さないものもあった。それは文字の読めない人々にも宗教の教えを説こうとしたことがきっかけではあるが、現代においてそのようなものは求められていないだろう。それでも私たちは芸術作品と対面する際、その作品の意味や歴史、作者の意図などを必死になって理解しようとする傾向がある。確かにそれらのことを知っているのと知らないのとでは作品鑑賞の楽しみ方も変わり、知らないで鑑賞する以上に楽しむことができることもあるだろう。だからそれらを必死になって理解しようとする姿勢に対して、私はなにも否定することはできない。だが、「芸術鑑賞=作品理解」という定義に対しては異論を唱えたい。私は作品と対面する際、何よりも大切なことはその作品から受けるインスピレーションであると考える。いくら素晴らしい意味や作者の意図が組み込まれた作品であっても、鑑賞者に感動や感銘を与えられなければそれは「作品」ではなくただの「置物」だ。芸術家の作った作品がアートであるというには、鑑賞者の心や感覚に何か訴えかけるものが必然なのである。
その点において横浜トリエンナーレの出品作品は鑑賞者の感性や五感を刺激し、日常生活では味わえないような感覚を抱かせてくれた。「現代アートは難しい」。確かに現代アートは作者の主張したいことなどがわかりにくいかもしれない。ただ、あまり作品の意味に込められた作者の意図ばかり探るのではなく、まず始めにその作品から受けたインスピレーションを大事にした上で作品を鑑賞してもいいのではないだろうか。また表現方法も多様であり作者の意図が明確に映らない現代アート作品だからこそ様々なインスピレーションを受けられるということが、現代アートの魅力ともいえるのではないだろうか。
アートと対面する際の姿勢。私は現代アートの魅力をこの横浜トリエンナーレを通して再認識することができた。今年で三回目を迎えた横浜トリエンナーレ。会場の分かりにくさや案内の乏しさなど、歴史が浅い分まだまだ課題の多い展覧会ではあるが、今後のますますのこの祭典の発展とともに現代アートの発展にも期待したい。
(阿部葉子)