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biennale & triennale 横浜トリエンナーレ2008 評論コンペ









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作品展示空間の重要性

 横浜トリエンナーレは2001年に始まり、今展の「横浜トリエンナーレ2008」はその3回目となる。テーマは「タイムクレヴァス(ときの裂け目)」。世界25カ国・地域から73名のアーティストが参加した、日本最大級の現代アートの国際展である。
 メイン会場となるのは、メイン会場の中で一番広い新港ピア、日本郵船海岸通倉庫、横浜赤レンガ倉庫に加え、東京ドーム4個分の広さを誇る日本庭園である三溪園、大さん橋国際客船ターミナル、ランドマークプラザ、運河パークの、合わせて7ヵ所がある。
 中でも、日本的な風景の中、インスタレーションの展示を行っているのが三溪園であり、今回私はそこを中心として観賞を行った。インスタレーションとは、誰もがふだん見慣れている日常の空間を切り取って、異空間として見せてくれる現代アートの表現技法をいう。
 京都や鎌倉から集められた古建築が17棟からなり日本情緒を満喫できる三溪園は、生糸貿易により財を成した実業家 原 三溪によって、1906年に公開された。
 175000平方メートルに及ぶ園内には京都や鎌倉などから移築された歴史的に価値の高い建造物が巧みに配置されていて、現在内10棟が重要文化財、3棟が横浜市指定有形文化財に指定されている。また、かつては新進芸術家の育成と支援の場ともなり、前田青邨の「御輿振り」、横山大観の「柳蔭」、下村観山の「弱法師」など近代日本画を代表する多くの作品が園内で生まれている。
 つまり、トリエンナーレの存在を抜きにしても、三渓園はそれ自体にも価値がある。つまり、作品を展示する空間自体が存在感を放ち、自立しているということだ。その空間を一体どのように駆使して、空間の存在を壊さず、しかし飲み込まれずに形にしていくのかということに興味を抱いた。

中谷芙二子《雨月物語─懸崖の滝》
 能が表現する美的性質として広く知られた概念に「幽玄」がある。能を大成した世阿弥の著述においても「幽玄」が意味するところは必ずしも一定していないが、例えば『花鏡』においては、同時代(室町初期)の公家の挙措やたたずまいのように「ただ美しく柔和なる体」を「幽玄」としている。また、広辞苑によると「幽玄」には下記の意味がある。

  1. 物事の趣が奥深くはかりしれないこと。また、そのさま。「―の美」「―な(の)世界」
  2. 中世の文学・芸能における美的理念の一。
    歌論などで、優艶を基調として、奥深い静寂な余情、象徴的な情調のあること。
    能楽論で、優雅で柔和な美しさ。美女・美少年などの優美さや、また、寂びた優美さをいう。

 これは人工的に霧を発生させるという環境作品で、人工の霧や光によって、三溪園に配されている滝や小川、竹やぶのといった周囲の風景の変化していく。あっという間に霧が一面を覆うと同時に私たちは一瞬にして別世界に立たされる。
 三渓園という歴史のある空間を最大限に生かし、日本の趣を備えたこの作品のなかに包まれたとき、「幽玄に世界」に置かれている感覚に襲われた。昔から日本人の美的感覚の微細なニュアンスが外国人に理解されにくいという。それほどに繊細で、独特の感覚は、うわべだけをまねたような生半可表現によってでは、決して表現しきれるものではなかっただろう。

ティノ・セーガル《Kiss》
 大きな古民家内の広間で行われる男女が睦み合う静かなダンスを観覧者は縁側ながめるという、実に前衛的な作品である。このダンスは始まりも終わりもなく続けられる。
 「Kiss」は、過去にベルリンやナント、シカゴ等の都市でも発表されているシリーズのひとつであり、アジア地域では初めての発表となる。英・ガーディアン紙で、この作品は下記のように評されている。

"ティノ・セーガルの作品「Kiss」は、腕や脚、舌、呼吸、眼差しの、床を這うような緩やかな振付が付けられた接吻する一組のカップルから構成される。この永遠に続くかのような親密な関係は、あたかも別のキスーロダンやムンク、ジェフ・クーンズと前妻のチチョリーナを想起させ、それらのキスを試みているかのようだ"

「Kiss」がこれまで世界各地で発表されていることから、この評論は、それが演じられる空間との関わりなしにして書かれているかもしれない。
しかしこの作品そのものが持つ意味は、日本の、三渓園の、この民家でおこなわれることによって、新しい意味が付加されるのだ。
この民家は、飛騨から移築されたもので、そこは現在の岐阜県北部に当たり、かつて『大家族制』が採られた地域でもあった。男女の関係からは、快楽と、産めよ増やせよという村落の形態、それに大家族共同体の衆人環視との絡み合い、じめじめとした、しかし生命力に溢れた日本の農村の姿が浮かび上がってくる。
しかしこれは決して観る者に直接的な官能的印象や、まして不快感などは与えない。それはごく自然に、しかし計算された優雅で静かな芸術的表現によって始終おこなわれている。
作者であるティノ・セーガルが、どの程度まで日本の村落に対する知識を持っているのか、それを意識した作品を望んだのかはわからない。しかし、作者の意図がたとえどうあろうとも、この場所を作品に取り入れた瞬間から程度の差こそあれ付加価値的の意味付けがなされるのではないか。

内藤礼《無題(母型)》
横笛庵という草庵風の茶亭に展示された内藤礼の「無題(母型)」は、天井から吊るしたか細いビニール製の糸が二つの電熱器に暖められ揺らぐという作品だ。電熱器で温められた空気の上昇気流を、目に見えるようにした作品である。
しんと静まり返った室内でただ紐だけがゆらゆらと上下左右、不規則に動いている。とてもシンプルでありながら、横笛庵の趣ある空間を活かして、観る者を静かに魅了していた。
時のはかなさと、些細ながらも生命の鼓動を感じさせる作品は、まさに、言葉での表現が難しい日本の美的感覚を目に見える形でうまく表現していると思った。
目を凝らして、耳を澄まして、五感を研ぎ澄ましていなければただつれづれに過ぎて行ってしまう時の無常さ、はかなさを観る者に思い起こさせてくれる。

作品と場所との関係は、作家が意図して取り込めば作品により深い奥行きをあたえ、より多様な意味付けを可能にするだろう。作品は空間におかれて初めて一つの完成された作品として存在し、鑑賞され得るからである。
作品制作とはある意味では一種の自己表現であるともいえるから、三渓園のように場所の、場所としての存在が強いと、それらを完全に調和させるのはなかなか難しいものであろう。
しかし今展で取り上げた作品群のように場所も作品も生き生きと生命感を持った作品を目にしたとき、展示空間と作品との関係は決して、おろそかにはできないことだと再認識させられる。

(末永幸歩)