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―ロドニー・グラハムの諸作品をめぐって―
ロドニー・グラハムは架空のアーティストをつくりあげた。それは、アーティストという存在そのものを対象として、つぶさに観察させることを意味する。一人の人間というより、一つの「あるアーティスト」”像”としてのみ彼は存在し、作品群を通してのみ存在を保証される。
ここで重要な点は、「あるアーティスト」がつねに自らの芸術を省みる動的な存在として仮構されていることにある。彼の芸術観は変化するのだ。あるときは抽象表現主義ふうの絵画を描き、あるときはミニマリズムに傾倒し、あるときはコンセプチュアルアート、あるときはパフォーマンスへと。たとえば彼の作品、『山積みのポテトでスタジオに入れない(1968)』、『銅鑼にポテトを投げ当てる(1969)』はそれぞれコンセプチュアルアート、パフォーマンスに相当する。作品名の(1968)、(1969)は架空の年号である。双方とも、本当の制作はキャプションの通り2006年に行われている。これらの作品をそれぞれ美術史との連関で読み解くのも誤りではない。だが、この作品群を(1968)、(1969)といった架空の時間軸において考察してみるとき、「あるアーティスト」が生きた半生そのものが浮かび上がる。
その半生は不断の芸術探求の試みである。芸術探求の試みはあくまで個々の作品として結実したものであり、ロドニー・グラハムが実際につくったのはこの部分である。それによってグラハムは事実上「『あるアーティスト』の半生」をつくりあげた。グラハムの創造したアーティストは現代美術のありふれた歴史を見せているかのごとく(抽象表現主義からパフォーマンスにいたる)一般的な芸術的変遷を辿る。
ロドニー・グラハムは何を成し遂げたのか。個々の作品を見ていけば、かつての模倣美術(シミュレーショニズム)のように、美術史という制度を嘲笑したものと考えられる。この嘲笑は自身が制度に依拠している以上、制度を崩すことは意図できない。グラハムがアーティストである以上、彼はアートの歴史に飲み込まれるのだ。制度を嘲笑する試みはつねに真理を突きつけるだけで終わる。美術史家は彼らの試みを美術に取り込み、その変容を踏まえた美術は制度に対する嘲笑をもはや前衛とは見做さない。二度目は通用しない。
それ以後、グラハムのような制度に批判的なアーティストはむしろ前衛と見做されないことそのものを狙っているとも考えられる。「模倣美術が前衛として力を持ちえた時代の作品」のさらなる模倣、模倣の力を揶揄したものとしても捉えられる。完全に相手の武器で闘うのである。これらは前衛と見做されないことを望みながら、美術史を模倣した作品である。
もちろん、この点で逆説的に新たな価値が生まれると考えることもできる。だがこの奇妙な構造は内実を伴わない。このような作品を美術史に取り込んだ以後、誰かが同じことをすれば更に価値転換が起こってしまう。評価のいたちごっこである。
だが事実として、一昔前のマイク・ビドロやジョージ・コンドの試みとグラハムの企みは酷似している。模倣として考えるとき、グラハムは圧倒的に出遅れているのだ。
じつは彼の企みは模倣美術の前衛性や美術史の制度性に対する揶揄というよりは、アーティストと評価そのものを異化するものとして捉えられなければならない。 どういうことか。
グラハムの作品群は語られることを拒絶している。なぜならそれを作ったのは架空のアーティストだからだ。グラハムの絵画はあからさまに物質的マチエールを抱きながら決してそれに言及されることを好まない。グラハム自身と「あるアーティスト」の作品群は表象においては無関係である。創作者としての階梯が異なるのだ。絵画の構図が安定せずとも、パフォーマンスでのポテトと銅鑼の組み合わせがナンセンスであっても、グラハムには非難される謂れがない。個々の作品は確かに過去の模倣美術の試みと酷似している。だがこれらの作品群は、自身の芸術観を時代とともに変化させてきた「あるアーティスト」なるものの存在を仮構するための装置にすぎない。タイトルの(1968)、(1969)といったその偽りの半生こそが「あるアーティスト」のリアリティを紡いでいるのだ。
加えてここでは「あるアーティスト」像についてさえも、語られることを許されていない。アーティストは語られ評価される人間である。対してグラハムの企みの場合、それが架空である以上、評価は浮遊してしまう。抽象表現主義ふうの絵画といい、『銅鑼にポテトを投げ当てる(1969)』といい、表象の評価はグラハムではなく、「あるアーティスト」に対するものとなる。けれど「あるアーティスト」が存在しない以上、これらの作品の評価は現実には意味をなさない。いくら「あるアーティスト」が芸術的変遷を遂げようとも、そこにあるのはただ空虚である。その芸術的変遷が「あるアーティスト」のリアリティをつくろうが、語りが届かないのである。偽の製作者としてのグラハム、真の製作者の「あるアーティスト」の虚構性といった二重の意味で語りや評価を拒絶したむき出しの美術作品が、ただ存在しているだけなのである。
語られないアーティスト、「評価」の不可能なアーティストは、もちろん美術史に入りこめない。グラハムはアーティストであり、制度からは脱出できないが、彼のパートナーたる「あるアーティスト」は、制度から優雅に離脱している。グラハムの行った手続きは現実のアーティストに不可能な試みを架空の存在に託したものである。価値を受け付けない、決して言説を持たない空っぽな芸術として、この作品群は存在する。言説を引き寄せる批判性をもちながらも、製作者が架空である以上、原理的にそれらを拒絶してしまうのだ。もちろん、このように語る筆者もグラハムの仕掛けた罠に嵌まっている。
(谷口匠)