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神谷 悠季 | 木村 優子 | 佐藤 裕平 | ジョン スミ | 末永 幸歩 | 高野 希美 | 瀧田 梨可 |
竹内 舞 | 棚田 絵理子 | 谷口 匠 | 當眞 未季 | 中田 莉央 | パク ジュン | 日吉 ちひろ |
藤原 瞳太 | 馬淵 彩 | 森下 賛良 | 師田 有希 |
「亀裂」を覗け!!
「亀裂」はどこにでも存在する。時間の境界線、日常の境界線、芸術と、そうでないものの境界線…。しかしそれは普段、意識せずとも容易に見えるものではない。
開催中に人々が感じたものは大きいだろう、良かれ悪しかれ、だ。そこから新鮮な考えを取り込んだ者もいれば、憤慨して帰っていった者もいる。大事なのは、会場で起こったこと、感じたことが持つ意味について深く掘り下げ考えるという行為。それがトリエンナーレの意義であり、ひいては現代美術そのものの目的にも繋がるだろう。今回のテーマは「タイム・クレヴァス(時の裂け目)」。そこで、会場で私が体験してきた様々な「亀裂」について、いくつか考察したい。
一つは身体性や実体とイメージの間の「亀裂」。日本郵船海岸通倉庫で展示されていた、クロード・ワンプラー「無題の彫刻(大きくしなやかでセクシーな自分を喰らう裸のヴァンパイア)」。何も置かれていない展示台、そしてそれを熱心に写し取ろうとする絵描き、仰々しく警備をする係員。良く見ると展示台から影だけが大きく伸びている(絵描きの絵から推測して、股間を食い散らす女の頭らしきもの)。童話「裸の王様」よろしく滑稽な場面だが、果たして私たちには本当にそれが「見えない」のだろうか?私たちが日ごろ何気なく「好きなタイプ」として恋愛対象を思い浮かべる行為。心理学者、ユングは自分自身の内部に存在するそうした異性の理想像としてのイメージを、「アニマ」「アニムス」と名付けた。「自分を喰らう裸のヴァンパイア」とは、エロティックな欲望の対象としての「影」、映し出された大きな影そのものであろう。己の中のエロスの姿を私たちは見逃していないだろうか。作者が切り取ろうとした、見えない欲望の実体。それは「何もそこにはない」と決め込んで通り過ぎる人間には分かってもらえない。
二つ目は三渓園にて、日常性と非日常性、秘め事と公との「亀裂」を扱った、ティノ・セーガルのライブ作品である「Kiss」。日本家屋の畳の上でダンサーの男女が愛し合うという突発的なパフォーマンス。私は最初、座敷に上がっていきなり、彼らが二人で抱き合っていることに気が付いてぎょっとした。キスや愛撫は普通、人前で行うものではない。だから、秘められた行為が外にさらけ出されるとき、人々は当惑する。それは、二人の領域に踏み込んでしまったことへの衝撃か、それともその関係に割り込めない疎外感に対する苛立ちなのか。だが私は見ているうちに、男女の営みと畳の感触に不思議な安息感を感じ始めていた。良く見るとそこには何か「幸福感」のようなものが満ち溢れている。それは無遠慮にそこに踏み入ったときとは違う、二人の愛の世界を垣間見ているかのような恍惚であった。
だが、ここでお偉いさん風の恰幅の良い男性が現れ、「暇人が暇なことをやっているぞ」と言っていたのには失笑してしまった。三渓園にはトリエンナーレをやっていることを知らない人も入園している。それが作品と分かって見ている人と、それをアートだと言われずに見た人との違い。これもある意味「亀裂」だ。なぜこのようなズレが生じたのか、それはおそらく展示場所の問題と作品解説の不足にある。「現代美術の展覧会を、横浜の一部を半ばジャックする形で行う」ということ。そもそもこれ自体かなり難しい計画だ。大きなイベントを見に来る客の中には、前衛的な芸術に関する知識がない人も多い。もし大々的なイベントとして一般的な客層にも呼びかけるとしたら、現代美術とは何なのかということをもっと分かりやすい形で提示する必要があったはずだ(せめてアーティストについての解説をその場に付けるべきだった)。考えるという手段を教えられていない、もしくは考えても分かりそうにない、それでは人々が嘲笑しても当然である。
こうした問題点も浮上してしまったトリエンナーレだったが、私の1番のお気に入りは、横浜赤レンガ倉庫、3Fにあるテレンス・コーの少年人形。横にいたカップルの女の子の方が「可愛い!」と写真を撮っていた。彼の作品は同性愛や少年愛、ユースカルチャーに影響を受けている。(トリエンナーレでのパフォーマンスも、裸の美青年たちをはべらせたパレードを繰り広げ、ドラァグクイーンのVIVIENNE SATO氏らがテレビ収録していた)しかし写真を撮っている女の子はそのことを多分、知らない。「時の裂け目」というタイトルに、同じく時の流れから切り出されてきたかのような「少年」という性。人形は歳をとらない、大人にならない。ずっと止められた時間の中で息をしている。また、彼らは非常に不安定だ。完全な男でもないし、もちろん女でもない。すべての中間にいる彼はまさしく「タイム・クレヴァス」の住人である。大人と子供との間の「亀裂」。私は時間が止められたかのような不思議な気分を味わいながら、嬉々としてその少年にカメラを向けていた。
見えるものと見えないもの、私的なものと公的なもの、幼いものと成熟したもの…作家たちは展覧会を通じて、社会、国家、性、世代、人種、宗教といった様々なテーマにおける「亀裂」を私たちに見せてくれた。しかし作品群はあくまで相手に思考させるための単なる装置。そこに隠されたテーマに気付かなければ、ただ倉庫に置かれたガラクタに過ぎない。客を感動させるだけでも駄目、怒らせるだけでも駄目なのだ。なぜここに置いたのか、なぜこんな作品なのか、それを一般客に訴えるには、説明や情報が足りなすぎた。今回はテーマをより鮮明化させるためにパフォーマンスイベントに力を入れたというが、果たしてそれもどれだけ伝わったのか。その点で非常に勿体無く残念である。次回はぜひ、こういった問題を解決していただくことを願う。
(中田莉央)