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三渓園 〜TIME CREVASSE〜
私は初めから三渓園しか行く気はなかった。日本庭園の外苑に配された重要文化財指定の古建築に惹かれるのであって、正直、現代アートの展示やパフォーマンスなどどうでもよかった。
園内にある国の重要文化財建造物10件12棟は、全て京都などの他都市から移築した古建築であり、批判の声も多い。だが、単なる寄せ集めの庭園ではなく、再建、そして広大な敷地の起伏を生かした庭園となっている。かつて新芸術家の育成と支援の場としても知られる当園の内部や野外にて、トリエンナーレの展示やパフォーマンスは行われていた。
大きな茅葺屋根が印象的な合掌造が見えてきたと思うと、旧矢箆原家住宅が姿を現した。趣を感じつつ中へ入ると、急激に湿度が上がった。ティノ・セガールの≪Kiss≫だ。男女の抱擁とシンクロ。古建築に畳というシチュエーションで、この光景は想定できなかった。単なる抱擁の繰り返しではない。そこに同じ動作は存在しないのだから。リアルとフィクションの狭間を観客はそれぞれの反応で彷徨った。空間の歴史さえ彷彿させるパフォーマンスだったが、投げかけられた体験に全ての人が答えられていたとは思えない。だが、ティノ・セガールは記録として作品は残さず、記憶の中に残すことをやってのけた。この試みは、私の現代アートへの意識を突き動かした。
禅宗様の特色を色濃く残す旧東慶寺仏殿。遮断された空間にホルヘ・マキとエドガルド・ルドニツキーの≪薄明≫があった。20分間の光の凝視。光の角度、濃度、移動。まさに光との格闘だった。日常での一点の凝視などまず考えられるものではない。見えているようで見えていない、流れゆく視界に居場所を見つけてきた現代人にとって、凝視とはいったい何なのだろうか。退屈なのか。それとも辛いのか。また新鮮なのか。≪薄明≫にはその問題提起を感じる。が、答えは見つけられそうにない。またそれも現代というべきなのか。見ているというより、考えをめぐらす時間に大半を奪われた。
横笛庵の茶室に蜘蛛がいた。内藤礼の≪無題(母型)≫である。不思議だ。そこには確かに深淵を感じるのだ。二つの電熱器が起こす熱の対流で糸がゆらめく。だがそんなことはどうだっていい。その空間が深い淵を創る。素材の大きさではないことを初めて知った瞬間であった。私はそこに蜘蛛を見た。蜘蛛は時を取り込み、タイムクレヴァスを生む。なんだろう。私たちの日常はこんなにもつまらないものだったのか。深淵への入り口を前にして、自分がちっぽけになる。生きていることに無性に介入してくる。すると、生きていることの素晴らしさと偉大さに唖然とする。
案外、歴史的な建築に現代アートという試みは成功だったように思える。現代アートが嫌いな私にとって、三渓園での出来事は心を揺さぶるものだった。新/旧のパラダイムは、そこに根強くは存在していないのかもしれない。故に、今回のテーマである『TIME CREVASSE』は、妥当だともいえるのではないか。
私は、三渓園のみで今回のトリエンナーレの役割は十分果たせると感じた。歴史の力は、現代の力をはるかに凌ぐものであり、歴史を持った空気からは深淵のにおいがした。現代アートがこれからもっと先へ先へ行こうとするなら、私は次回足を運ぶかどうか、まだわからない。
(藤原瞳太)