阿部 葉子 | 朝羽 由紀 | 上原 正久 | 大内 雄馬 | 大森 沙樹子 | 躍場 裕佳子 | 柿田 真吾 |
神谷 悠季 | 木村 優子 | 佐藤 裕平 | ジョン スミ | 末永 幸歩 | 高野 希美 | 瀧田 梨可 |
竹内 舞 | 棚田 絵理子 | 谷口 匠 | 當眞 未季 | 中田 莉央 | パク ジュン | 日吉 ちひろ |
藤原 瞳太 | 馬淵 彩 | 森下 賛良 | 師田 有希 |
雨のち晴れ、トリエンナーレ
「本日はあいにくの雨になるでしょう。午後からは北風も吹いてきます。」と、お天気おじさんが言った。
「あ、トリエンナーレに行こう。」と、私は思った。
なぜ、わざわざ天気の悪い日に行こうと思ったのか。それは、晴れた日に気持ちのよい青空を仰ぎながらトリエンナーレを楽しむよりも、寒くて秋雨がしとしとと降っている中で、不思議な気持ちになったほうが、なんとなく面白いのではないかと考えたからだ。
私はトリエンナーレ初参戦だ。どんな衝撃が私を迎えてくれるのかドキドキしていた。建物に入り、意外な衝撃が私を迎えた。
新港ピア。この空間作りは一体何なのだろうか。演出なのか、とりあえずの作業なのか。木の板があまりにもあからさまだ。床から天井までをぐるりと見渡したとき、「おい!」と思わずつっこんでしまいそうになった。そして、見てまわる際に非常に不便である。まるで迷路ではないか。芸術作品とそれをとりまく空間は上手に調和していなければならないと思う。照明や空気感はもちろん、見る人の目と体が作品と結びつき一体感が生まれるのだろう。こんなことを考える私には、どうしても納得のいかない展示方法だった。
それとは対照的に、日本郵船海岸通倉庫はしっとりとした室内の空気と匂い、落ち着いた展示が素晴らしかった。屋外に少し異様な雰囲気を醸し出す小さな建物がある。そっと足を踏み込んで、流れている映像を目にした。舞踏家、田中泯氏のスペースだった。昨年、彼のドキュメンタリー映画が上映されていたが、見逃してしまった私は今回初めて彼の踊りを見た。生きている。このじいさんは皺だらけの浅黒い皮膚の下に、密かに隠している生き生きとした筋肉と、脈々と流れる真っ赤な血液を思わせる。生命力というものか。
会場一階のヘルマン・ニッチュ氏の作品は肉の塊をダイレクトに映している。赤い内蔵、滴る血液、田中氏の作品が「生」なら、こちらは「死」である。そして少しうるさい描写のような気がする。私は改めて、グロテスクなものに「芸術」をあてはめることに疑問を感じた。「人間」が「動物」に退化してしまうボーダーラインがそこにある気がするのだ。
二階の小杉武久氏の光の作品には異世界を感じた。赤、青、水色、緑、白、これらの色が薄暗い室内に光っている。優しかったり、力強かったり、まるで思春期の心模様のように変化をとげながら光っている。そこから発せられる電気の音が心地よい。唸るように断続的に聞こえる。「このまま誰もこの空間に入ってこなければ良いのに」、そんな気持ちが芽生えた。音に魅せられたのか、色に魅せられたのか。それとも不安定な空気に魅せられたのか。結果はわかっている。この空間を作り出した作者自身に魅せられたのだ。
全て見終わり、倉庫を出たときに、私はこの建物自体が気に入ったと思った。2階から3階へ上る最中に、薄暗い階段に差し込む淡い光を感じた。ガラス窓から差し込む太陽の光である。ふと上を見上げれば時間の流れを感じさせる天井が見える。そこには光があたらないせいで、影がたまっている。冷たいが綺麗な黒である。2階から3階、わずかな空間だが、ここにもしっかりと美しいものがあるではないか。展示作品がない場所にも思いがけない「美」が存在していた。
横浜トリエンナーレ、あまり好きではない。私にはムサビの「芸祭」の方がよっぽど魅せる作品が多かったと思う。作者の自己満足で終わるか、現代アートといって何でもアリにしてしまうか、考え尽くした上で制作するか、ただ楽しむか、さまざまな考えがあるだろう。トリエンナーレに行ったことにより、これらのことを真剣に考える機会がおとずれた。それは良かったと思う。
秋のにおいがする。帰り道に歩きながらそう思った。子供の頃からわたしはこのにおいが大好きである。海外からの影響を大きく受けた横浜ならではの建物はとても素敵で、どんな高層ビルよりもカッコイイ。カッコイイ彼らと、少し哀愁漂う秋のにおいはよく似合うとしみじみ感じた。気づいたら雨も、北風もどこかえへいってしまっていた。傾いたおひさまと、気持ちの良い青空が広がっていたのだった。
(高野希美)