Cultre Power
biennale & triennale 横浜トリエンナーレ2008 評論コンペ









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三渓園の魅力

 今回のトリエンナーレは、総合ディレクターやキュレーターチームによって祝祭化を免れ、現前的なパフォーマンスというテーマの設定による全体の統一感をもつものとなった。だからトリエンナーレが狭き門として感じられた部分もあるが、純然たるアートに向き合う時間・空間が与えられた。公式発表によればこの大規模なゲームのルールは、「パフォーマンスが一定の時間の経過の中に存在し、しかも何かしらの痕跡を残す」ことである。また美術評論家の松井みどりさんによるとパフォーマンスは大きく分けて二つあり、「ひとつは、アーティスト自身の進退を用いた表現の行為の表示。もうひとつは音や形(画像)や運動や空間の特殊性通して直接観客の知覚や体感覚に訴え、さまざまな現象学的考察や記憶を誘う装置の設置」であるそうだ。私はこの後者によるパフォーマンスに興味を持った。というのもそれは観客によって補完され、一定期間のあいだに進行し変化し続けて成立し、コミュニケーション時代を象徴する表現だからだ。そして作品の根本的基盤が観客の直覚を刺激する作品は、人々に共有されうる思索の時間を提供するのではないだろうか。
 展示の場所について本会場は(やむをえないことであるだろうが)作品がホワイトキューブに収まりすぎていたきらいがあるが、三渓園の外苑は会場として非常に素晴らしい場であった。この三渓園は、横浜市中区本牧三之谷にあり、実業家で茶人の原三渓によって作られた素朴な美しさを持つ日本庭園である。原三渓は生前画家の育成・援助をしたが、自らもまた書画をよくした。またこの会場は日本美術にゆかりある場であるばかりか、二重の非日常性を与えてくれた。一方はもちろんアートであり、他方は日本の様々な時代の建築物のアッサンブラージュである。ではここから外苑の風雅な池泉回遊式庭園を巡ろう。
 大池に注ぐ小川は、中谷芙二子によって霧を使って滝にみたてられた。≪雨月物語-懸崖の滝Fogfalls♯47670≫ センサーが凪を感知して霧を大量発生させる装置が水源の上に仕掛けられている。日本の境界が定かでない空間概念を発展させた作品ではないだろうか。アーティストの詩(言葉)は身体と霧、風景あるいは宇宙との同化と思索を促す。
 霧は旧東慶寺仏殿の外陣に侵入していた。そこではホルヘ・マキとエドガルド・ルドニツキーの胡弓ライヴが行われた。≪薄明≫ 内陣には右手奥の上方から左手手前の下方へと空間を大きく横切るようにワイヤーが張られ、ワイヤーの一番高い所に電球があり、その下には胡弓演奏者(安藤珠希)が座っている。小さな仏殿が閉め切られると、暗闇の中に電球が煌々と照り、旋律を伴わない胡弓演奏が始まる。電球は非常にゆっくりと下降しながら次第に光を弱め、それと同時に胡弓の音も反響だけが大きくなってゆく。終いには演奏者の音は止み不協和音のみが空間を覆い尽くして、電球の光は消える。これは筆舌に尽くしがたい体験だが、パフォーマンスの進行とともに、もはやだれがパフォーマーなのか定かではなくなり現実世界から精神が解離してゆく感覚を覚えた。
 その隣の旧矢篦原家住宅は大きな合掌造りの屋根が印象的な民家だが、外見通りかなり広い。だからパフォーマンスに出会うまでしばらく十八世紀の他人の家をさ迷うこととなるかもしれない。しかし突如として常ならぬ面に遭遇する。≪Kiss≫ 西洋人(あるいは日本人)の男女が、畳の上に寝転がって抱きあい、キスし続け、転がって少しずつ移動している。私が一瞬、それとわからずにぎょっとしたがダンスはそれ自体で魅力的だった。アーティストは公と私、アートと非アートの狭間であやうさに遊んでいるのだろうか。しかし反応は個々の観客に委ねられている。そしてその反応はあらかじまそのために準備されながらも、予期せぬうちにパフォーマンスの一環となる。一切の写真やテキスト情報を残さないので、その場に「居合わせること」以外に二次的な経験を許されない。
 旧矢篦原亭を出てすこし歩くと、横笛庵に内藤礼の≪無題(母型)≫がある。いおりを覗きこむと、畳の上の小さな二つの丸い電熱器に目がとまる。よくみるとその上にはか細く華奢な輪になった糸がつるされている。軽やかな糸は上昇する熱気によって絶えず踊り続け、二度と同じ姿を見せることはない。観客はこのささやかな事実を見つけた喜びを他人と共有し、その事実はまた他のイメージに結び付いていく。
 横笛庵から大池に向かう途中にある旧燈明寺本堂は中世密教寺院であり、キャメロン・ジェイミーが展示をしていた。残念ながら参加を取りやめてしまったが、とても印象的だったのであえて言及しよう。本堂は外部に対して閉ざされ、入れ替え制で中に入れるのは、ただ一人。ほの明かりほどの光しかないランタンを手渡され、なかにはいると暗闇に襲われる。現代において日常これほどの闇にとらわれることはない。右手の格子に沿って進んでいくが、格子の奥には恐ろしげな化け物の頭部が見える。右に曲がると壁際にはおどろおどろしい縦長の絵が立てかけられていて、一見抽象的だが部分的に切断された人体のパーツや内臓のようなものが紙に黒いインクで描かれている。さらに進んでゆくと化け物たちのいる場所へ入り込むことができる。
 長い木の棒に巨大な頭部が備え付けられているこの化け物は、漠と手造りであることがわかり、またユーモラスでもある。しかし見開かれは目やむき出しの歯、ぼさぼさの髪、長い角は悪魔や鬼、般若を思わせ、慄然とさせるものがある。まさにお化け屋敷である。楽しくもないのに、はっきりと恐ろしいと知りながら怖いもの見たさのゲームに参加する。この欲求は有り余る体力を消費したいが為に生まれてくるのだろうか。
 トリス・ヴォナ=ミシェルのインスタレーションは大池の中島の上にある東屋にある。≪無駄に灯るあかり≫ではこの函花亭の脇のスピーカーから拡張されたつぶやき声や擬音が聞こえてきて、観客は机に置いてあるアーティストのテキストを読み、音との関係性を考えながら時を過ごす。そしてこの非常に内観性の高い行為を通して、沈思黙考して詩的な世界を構築するのである。

(朝羽由紀)