阿部 葉子 | 朝羽 由紀 | 上原 正久 | 大内 雄馬 | 大森 沙樹子 | 躍場 裕佳子 | 柿田 真吾 |
神谷 悠季 | 木村 優子 | 佐藤 裕平 | ジョン スミ | 末永 幸歩 | 高野 希美 | 瀧田 梨可 |
竹内 舞 | 棚田 絵理子 | 谷口 匠 | 當眞 未季 | 中田 莉央 | パク ジュン | 日吉 ちひろ |
藤原 瞳太 | 馬淵 彩 | 森下 賛良 | 師田 有希 |
銀杏と潮風のにおいです横浜
私はこれまで現代美術と称されるものに一度も触れた経験がなかった。よって周りの者が口々に言う「抵抗感」「苦手意識」などは、私にはまったく与り知らぬところであった。しかし今回の課題により初めて生の現代美術に触れる。それもトリエンナーレという大きなくくりである。どういう心持ちで、どんな下準備をしておけば良いのかも分からない。結局何の予備知識もなく、なにか現代美術初心者なりの穿った見方が出来れば幸いだなと思いながら横浜の地を踏むこととなった。
私はウラ・フォン・ブランデンブルグの作品に深く関心を寄せた。彼女の作品は十六ミリフィルムをストールのように薄い布地に投影している映像作品であった。今回のトリエンナーレでは多くの作家が映像作品を手がけていたが、その中でも、この作品は一風変わっていた。一見すると、一台のカメラがゆっくりと室内を回って撮っていくという何の変哲もない映像である。しかし奇妙な事に視線(カメラワーク)以外は何もかもが停止している。物も人間も皆、微動たりともしていないのだ。シンプルではあるがいささか不思議な景観である。まるでモノクロームの写真の中に入りこんでしまったような、あるいは永遠に止まった世界の中を一生彷徨い続けているような、観ているうちに私たち観覧者を映像の中に引きずり込み、神秘的な酩酊に陥らせてしまう。また、先ほど記したようにこの作品のスクリーンの役目を担っている薄い布地、これは通行人が裏を通るたびに微風でそよそよと揺れ、その揺曳も映像の神秘性を高めるのに一役買っている。私はその事に気づいた時、これは単なる映像作品なのではなくこの空間一体が彼女の作品なのだ、と改めてブース全体を見渡し甚く感心した。もうひとつ、なにか不思議な感覚となり私に強い印象を残したものとして、ポール・マッカーシーとヘルマン・ニッチェの両者の作品を挙げる。彼らの作品に共通するものを端的に言えば過激、卑猥、猥雑である。マッカーシーは広い一室一杯にエロティックでグロテスクな映像を同時に何本か流す。コミカルな風体をした男達が画面の中でこれでもかというくらい暴力的に動き回っている。ニッチェの作品では男達が動物(豚)を解体しその肉片などを縛られた女性に塗り込む。限りなくおぞましい光景なのだが、どこか儀式的で厳粛な緊張感がただよってくる。どちらともこのトリエンナーレに出品されている作品の中で1、2を争う過激さである。この両者の作品が私に抱かせた感覚は実に妙なものだった。その二つの作品はその場にあってはならないもののように思えたからだ。これらは本当にこの場に展示してあってよいものなのだろうか、と私は漠然とした不安に襲われたのだ。それはトリエンナーレがあの土地、あの会場で行われていたからかもしれない。ゴミも雑草もなく、きれいに整地されており明るく陽気でおしゃれな雰囲気の街並み、そこには楽しそうな顔をした家族連れ、カップルや若者で賑わっている。そのような半分アミューズメントパークと化したような場所に、やはり彼らの生臭い表現はどうもあてはまらない気がしたのだ。しかしよく考えてみるとそこに作者たちのひとつの狙いがあったのかもしれない。何もかもが人工的である現実世界にあえて血や臓物の臭気に満ちたものを置いてみる。そうする事によってそれを観る私たちは否応もなく現実との差異を感じざるを得なくなる。だとすると私は作者たちの意図にすっかり乗せられてしまった事になる。
愉快そうに食事をしている親子、楽しそうにしゃべっているおばさんたち、人口芝生の上に気持ち良さそうに寝転んでいる子供、ベンチで寄り添い合うカップル、行き交う人々を見ていると横浜トリエンナーレはとても開放的で心地の良い催しとなっているのは間違いないようだった。先ほどそのことも含めてアミューズメントパークと表現した。もしかするとそのある種気抜けした催しは展覧会としては評価できないかもしれない。しかし人と人との関係を養っていくというのもひとつの芸術の役割である。そして確かにあの会場には笑顔があふれていた。
(柿田真吾)