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神谷 悠季 | 木村 優子 | 佐藤 裕平 | ジョン スミ | 末永 幸歩 | 高野 希美 | 瀧田 梨可 |
竹内 舞 | 棚田 絵理子 | 谷口 匠 | 當眞 未季 | 中田 莉央 | パク ジュン | 日吉 ちひろ |
藤原 瞳太 | 馬淵 彩 | 森下 賛良 | 師田 有希 |
「横浜トリエンナーレ」に行ってから「現代アート」というものが分からなくなった。そこで参考になればと一冊の本を借りた。その本は発行されたのが1994年であるため、今回は参考にならないかとも思った。しかし、そこには現代アートとのつきあい方、なぜあんなにも会場で歩かされたのかを教えてくれるヒントがあった。トリエンナーレの批評の前にその本に書かれていたことを紹介したい。
その本には、アートを難解で分からないものではなく、私たちの身近に必要不可欠なものとしてアートを取り戻すこと、アートを私たち一人一人の手元に奪還するという考え方が記されていた。そして、何よりもまず作品を所有することから始めることが目標達成の第一段階であるという。「所有する」という意識を持つことで周囲の意見に振り回されないこと、自分の判断を下していくことが大事なのだ。
またアートを奪還し所有するための「作品」の外界への開放も必要だという。そしてアートにより広く、深く接したいと思うならば歩かなければいけないというのだ。社会や文化の変化を、都市の表徴の境界線を制度的な価値観から自由である「遊歩」によってみるのだ。そうすることでアートにより広く、深く接することができるのである。実際に「歩く」ことをコンセプトに含めた試み、92年の国際現代美術展「ドクメンタ」と94年の「人間の条件」展の二つが紹介されていた。
この二つの考え方を当てはめて今回の横浜トリエンナーレのことを考えてみた。
まず、作品を所有したいという観点から今回の横浜トリエンナーレの作品を選ぶなら、間違いなく私はペーター・フィッシュリとダヴィッド・ヴァイスの作品「ねずみとくまのフィルムの一部」を挙げる。もちろんかわいい寝息をたてているぬいぐるみも含める。デフォルメし過ぎず、少しとぼけた表情のくまとねずみ。作りも精巧というよりは手作り感が勝っている。そのことによって親しみが生まれている。自分の小さな部屋にあの二匹がいて、暗がりであの映像を見られたらと考えるだけで生活に潤いが生じる。
しかしこの作品に惹かれたのは、かわいさだけではなかった。映像を思い出すと自分の昔の経験とどこかシンクロする部分があった。きらびやかな空間でありながら殺風景な印象を持つ。登場人物はひどく少ない。いつだったか自分はこんな夢を見ていたのではないか。情景ではなく感覚的な部分でひどく類似した、うなされるような夢を見たことがある気がするのだ。そう考え始めた途端、この作品が自分にとって重要なものであると感じた。
次に歩いて作品を鑑賞するというものだが、今回のトリエンナーレではまさにその手法が用いられている。メインの展示会場が三ヵ所、他にも四ヵ所に分かれて展示されている。それに加え、イベントなどもあった。三渓園を除けば、ほぼすべての展示会場が歩いてまわることのできる距離にある。これはどう考えても歩いて展示会場をまわることが意図されている。実際に見に行った時には、そのようなことを考えもせず作品を見ることだけに集中していた。配布された地図では、土地勘のない私はなかなか展示会場が見つけられなかった。特にランドマークプラザに展示されていた《落っこちたら受けとめて》は建物の中を探し回った。しかし見つけた時の達成感は、マニュアル化された現代ではなかなか味わえない感覚だった。この体験こそトリエンナーレの醍醐味だったのではないかと思う。いつもは異物が入り込む余地を与えないような風景に「トリエンナーレ」が介在することで、一見すると不釣合いとも思えるものがその風景に溶け込んでゆく。そもそも社会的なメッセージが強い作品やメインテーマの「タイムクレヴァス」を意識した作品ならば公共の場に飾ってこそ作品の価値は上がるはずだ。しかし赤レンガ倉庫での映像を集めた空間はあまり感心しない。一つの部屋で同時にいくつもの映像作品を流されてしまうと、その場から動けなくなる。実際に「歩くこと」をコンセプトに含めているならば、あそこは改善されるべきだろう。その点が残念だった。
正直、行ってすぐのトリエンナーレへの印象はあまり良くなかった。しかし今までの自分にはなかった考えを持つきっかけになっただけでも有意義な催しだと気がついた。そして今ではいい経験ができたと強く感じている。街の中を歩き、アートを楽しむことが日本でも浸透し、都市の展示会場が増えることを願う。なぜなら、あの達成感を多くの人に味わってもらいたいからだ。
注)『現代アートの遊歩術』倉林靖 洋泉社 (1994)
(森下賛良)