Cultre Power
biennale & triennale 横浜トリエンナーレ2008 評論コンペ









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私と作品の間にあるもの

 今回の横浜トリエンナーレのテーマ「TIME CREVASSE」を、私はより理解するために、「時の亀裂」と日本語で置き換えた。この、「時の亀裂」とは一体どういう意味なのか。そしてそのテーマを、私たち鑑賞者はどのように解釈すればよいのか。
 私は、このテーマである「時の亀裂」を、作品と対峙する者、つまり「私」と「作品」との間で起こる現象だと解釈した。何故なら、時間という果てしなく再現のつかないと思われるものも、所詮は人間が物事を統制するために生み出した概念であり、人間なくしては作動しない装置だからである。つまり、「時の亀裂」とは、あたかも人知の及ばぬ森羅万象の最たるものであると思いきや、実は「私」という人間の内側で起こる現象ではないかと考えたのである。そのことを踏まえて、これから論を進めていく。
 すべての作品を鑑賞し終わった今、特に私の心に残った2つの作品がある。その作品たちと、私の間にある「時の亀裂」とはなんだろうか。そのことについて考察したい。
 まず、第一に、ケリス・ウィン・エヴァンスとスロッピング・グリッスルの「あ=ら=わ=れ」を挙げる。この作品はいくつもの円形の鏡を使って構成されたモビールであり、鑑賞者は作品のすぐ近くを歩き回って、作品の一部である鏡に映った自分の姿や、自分のいる環境を垣間見ることができる。
 私がまずこの作品を見て感動したところは、実にスマートで優雅なインタラクティブ・アートであるということである。私が見て回った限り、インタラクティブ・アートと呼べる作品があまりなかったように思えたために、とても新鮮に感じたこともある。しかし、もちろんこの作品の作者の2人が自分たちの作品を、インタラクティブ・アートであると宣言しているわけではない。むしろインタラクティブ・アートであるかどいうかというのは、作者よりも体験者である私たち自身が決めることではないかと私は考えているので、ここでは、私にとって、この作品はインタラクティブ・アートであったと考えている、ということにしておきたい。
 何故そう言えるのかと言えば、この作品が「鏡」をメインの素材にしている、というところに理由がある。「鏡」とは、何かを映し出すために生み出されたものである。いまこそ便利な道具であり様々なところで活用されているが、原始のころは、日本では「道鏡」を神の形代として呪術に用い、3種の神器のうちの1つとして崇めてきた。人間はそれを覗き込んで、自分の顔を知るようになった。「鏡」は神懸ったもので、人が自分の姿を知るために発明されたものである。つまり、自分が他人とは違うということを、明確に理解し、確証を得るためのツールなのだ。ならばそこには人間が映らなくてはならない。「鏡」は人間がいなくてはまったく無用の長物だからだ。
 つまり、この作品が完成するには、人間が作品に参加しなければならないのだ。むしろ、人間が作品の一部にならなければならない、という言い方のほうが正しいかもしれない。だから私は、この作品をインタラクティブ・アートであると考えている。
 もう1つ私が感銘を受けたことは、私がこの作品に参加した時、この作品の「時」と、私の「時」が重なり合って、同じ時間を共有しているように思えたことだ。つまり、私を唯一の主体として流れる私の「時」と、作品の持つこの世に生み出されてから完成するまでの歳月である「時」が混じり合って、私と作品の相互関係が築かれたように思えたのである。それは、おそらくこの作品が存在している限り、「完成し続けている」からだろう。前に既述したように、この作品は、人間が参加しなければ完成しない。物体的には完成しているが、存在意義としては未完成なのである。人と交わることによってこの作品はより完成していくし、人が去っていけばただの意味のない物体へと退化してしまう。だから、私がこの作品に参加した時、私の「時」とこの作品の「時」が交差し合って、まるで私の存在がこの作品の「時」、つまり歴史に刻まれたような気がしたのだ。その時、私と作品の間には「時の亀裂」は存在しなかった。
 第二に、ミケランジェロ・ピストレットの「17-1」をあげる。この作品は、展示室の3面に巨大な16枚の「鏡」を取り付け、予め決められた距離から鑑賞する。人二人分ほどの高さのある長方形の「鏡」には額縁がつけられ、まるで一枚の絵画のような完結さがあった。しかし、この完結さというのが一筋縄ではいかない。作品は、私が鑑賞する以前に、作者自身の手によって割られているのだ。パフォーマンスを兼ねて作品は最後の仕上げとばかりに壊され、破片が床に飛び散り、それを持って完成した。私が鑑賞した時も、割るのに使われたと思われるハンマーが無造作に床に投げ出されていた。まるで、力を振り絞って作品を完成した作者が、「ああ、疲れた疲れた」とばかりに、その辺に放り出したままのようなのである。
 私がこの作品に感銘を受けた点は、「不快感」だ。それは私がこの作品を鑑賞した際に抱いた率直な感情である。もっと言えば、この作品に映った私自身を見て喚起された心の動きである。私とこの作品との間には、10mくらいの距離があった。遠くから自分の姿を眺めるというのは、実に奇妙なものである。同じ「鏡」を使っていても、先に述べた作品とはだいぶ違うのだ。「あ=ら=わ=れ」はインタラクティブ・アートであり、自ら進んで自分の姿を鏡に映し、それを確認する。つまり、「鏡」に映る映像は故意的に私自身が望んだものであるのに対して、「17-1」では、作品の前を通るだけで、否応なく自分の姿が鏡に映し出され、それを視覚的に受け止めなければならない。いわば私にとって、それは予期せぬ出来事であり、望んでいない現象なのである。「あ=ら=わ=れ」がインタラクティブ・アートならば、「17-1」は、私にとって「コンパルソリー・インタラクティブ・アート」とでも言おうか。(コンパルソリーはcompulsory 強制的という意味である)なにより、強制的に映し出されたその映像が、私の「不快感」を煽るのである。
 パプリック・スペースにある「鏡」は共用のものだ。それが大きければ大きいほど、人がいればいるほど、自分だけを映すものではなくなる。私を映し、私のいる環境を映し、私以外の人間を映す。「あ=ら=わ=れ」のように、人1人の胸像を映すのに適切な大きさで、しかも近くに寄り自ら自分の姿を映し確認できるパーソナルな役割を果たすものとは違い、「17-1」は共有のものであり、それが映し出したものは、「大勢のうちの1人」である私だ。私以外にもたくさんの人が、私と同じようにこの作品を眺め、そこに映る自分の姿を眺めている。つまり、私が感じた「不快感」とは、ある意味「不安」でもある。「鏡」に映った大勢の人たちの中から、自分の姿を探さなければならない時、私はまるで、自分が何者であるのか思い出せないような錯覚に陥った。それはとても「不安」であり、そして自分の姿を見つけた時、自分が取るに足らない「大勢のうちの1人」であったことを知らしめられ、「不快感」を抱く。この「不快感」は、自己同一性が見失われることによって引き起こされたのだと、いま振り返ってみて分かった。
 この作品と私の間には、確かに「時の亀裂」が存在した。この作品は作者がハンマーを投げ出した時に完成し、「時」を止めた。そのくせ、私の進んでいく「時」を、その一瞬一瞬を無遠慮に映し出そうとする。「鏡」は人がいなければ意味のないもののはずなのに、私を拒絶して、私に事実だけを突き付ける。それが実に腹立たしい。この作品がもし、一枚も割れていない静謐のような完璧さを備えていたら、私も作者と同じように、その事実ばかりを映すつまらないものを、叩き割っていたかもしれない。この衝動こそ、この作品が破壊を持って完結された所以であると私は考える。
 私があげた2つの作品は、どちらも「鏡」というものをメッセージの媒体として使用している。たくさんあった作品の中で心を引かれたものが、もちろんこの2つだけというわけではない。しかし、横浜を去った今、私の心に強烈に焼き付いているのは、やはりこの2つの作品なのだ。同じ「鏡」という素材を使っているために、同類項の作品かと思いきや、実は全く正反対であったのも実に興味深い。自己同一性の確認と喪失、2つの作品が私に見せたものは、まさに両端に位置している。私たちはこの2つの作品に映る自分自身を眺めることで、自分がどんな姿をし、どこにいて、なにをしているのか、改めて視覚的な情報を得て知ることになる。「鏡」とはメッセージの媒体であり、そのメッセージとは、媒体である「鏡」に映った自分自身のことなのだ。
 そして、「時の亀裂」とは、「私と作品の距離」をそのまま表しているということが分かった。「あ=ら=わ=れ」では、私は自然と作品の一部になれたような気がするし、「17-1」では、作品に拒絶され、問い詰められたような気さえした。それらは私の内側で反響し、私の鈍った心への呼びかけでもあるのだ。私が「17-1」で感じた「不快感」がまさにそうである。どんな感情であっても心を揺さぶられるというのは、人間に進化をもたらすよい機会であるし、ぜひとも果敢に挑むべき事象であると私は考える。ただ、言っておきたいのが、「時の亀裂」という「私と作品の距離」があるからと言って、私が作品を理解できないということにはならない、ということだ。この距離を引き起こすものはおそらく、それぞれの作者の持つ、私たち鑑賞者という存在の捉え方なのではないかと私は考える。離れていたように感じたのならば、作者にとって鑑賞者はそのような存在であり、近くに感じたのならば、作者にとって鑑賞者というのは親しい友人のような存在なのではないだろうか。これはあくまで仮定ではあるが、作品は作者の分身であると言われている以上、あながち間違いではないだろう。同じメッセージを伝えるとしても、作者によって様々な表現方法があり、そこで鑑賞者のというものの概念に差ができるのは当然だろう。
 横浜トリエンナーレ全体を見ても、「時の亀裂」を感じた作品が多かったように思える。すべてを鑑賞者に丸投げしているような作品というのは、まさに現代アートの醍醐味であるが、一方で、「理解できない」という声も上がっている。もともと選民主義の香りのする芸術の中でも、現代アートは、狭き門かもしれない。しかしそこを逆手に取って、肩肘張らずに自由な見方で作品に触れることこそ、「時の亀裂」を無くす一番の手立てなのかもしれないと私は考える。

(木村優子)