Cultre Power
biennale & triennale 横浜トリエンナーレ2008 評論コンペ









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大巻伸嗣『Memorial Rebirth』について

「シャボン玉とんだ 屋根までとんだ…」野口情雨作詞のシャボン玉という唄だ。自分が幼い頃には、何も考えずに元気よく唄っていた記憶がある。けれど、年を重ね、様々な感情が分かるようになってくると何故だか切ない唄だと思うようになった。シャボン玉は空高くあがり結局は消えてしまう。とても儚い存在だ。

大巻伸嗣による『Memorial Rebirth』という作品は、屋外に設置された、いくつもの円柱状の椅子のようなものから無数のシャボン玉が発生する。シャボン玉は生まれては消え、また生まれては消えていく。
この作品は大巻伸嗣が横浜という地で忘れられかけている場所、歴史のクレヴァスをもう一度浮かび上がらせるために儚さの性質を強く持つシャボン玉を起用したものだ。彼はシャボン玉を方丈記に出てくるうたかたのように、私たちの存在を暗示しているものだと述べている。人が係わり長い時間とともに蓄積された歴史のある地で、光を受け虹色に輝くシャボン玉を見るのは、儚さというものを感じずにはいられない。一時の感動であり、その感動が大きいほど、より一層儚さを覚える。儚さを第一に考えると、この作品が単純にシャボン玉を発生させた作品でないことがわかる。横浜という歴史ある地、そこに集まる様々な人、空気、風、光、そして時間。何一つ同一条件なんてありえないその空間そのものが作品であり、一瞬一瞬の儚さをより強調させている。

 私がこの作品を見た時は日が暮れかかる頃だった。大勢の子どもたちがシャボン玉であふれた空間に興奮し、はしゃぎ、シャボン玉をつかもうと躍起になっていた。「この無邪気で儚さなど知らない子供たちに、この作品は一体何を残すのだろう。」そう考えたとき浮かんだのは“記憶”だ。記憶も儚いものだ。儚さなど知らない子供にとって残るのは大きな感動。それは時間の経過とともに記憶に変化する。記憶は自分がシャボン玉をつかもうとする子供からそれを眺める側の大人になるにつれて少しずつ薄れ、小さくなり、消えてゆく。ここにも儚さが存在する。

 私はこの作品は名作だと感じた。そして、けっして儚さだけがこの作品を名作だと語るものではないと私は言いたい。儚さとは逆に位置するものがこの作品の良さを生み出しているのだ。
 野口情雨の『シャボン玉』の歌詞はわずか7日で生まれたばかりの長女を亡くしたという彼の悲しい出来事がきっかけとなっている。短い詩の中に暗い影が見えるのはそのためだろう。その詩が中山晋平による明るいメロディーの上にのっかることで『シャボン玉』は後にも残る名曲となった。本当に悲しい名曲というものはメジャーキーである。『涙そうそう』(曲/BEGIN 詩/森山良子)や『さとうきび畑』(詩曲/寺島尚彦)はその代表曲だ。『シャボン玉』も同じことである。詩の暗さと曲の明るさとの対比が心に響くものを生み出している。
 大巻伸嗣による『Memorial Rebirth』という作品も詩と曲の対比のように、シャボン玉(そこから連想される命、記憶)が消えてゆく儚さと美しく輝くシャボン玉やそれを眺める人々の笑顔があふれる空間の対比。そこにこの作品の本当の良さがある。

 記憶は儚いものであるが、ふとした拍子に蘇ることがある。その時、過去の時間へReverseし、現在の思考や感情、他のさまざまな記憶と混ざり合い形を変え、Rebirthする。大巻伸嗣による『Memorial Rebirth』はそのタイトルの通りであり、すばらしい作品だった。

(大内雄馬)