Cultre Power
biennale & triennale 横浜トリエンナーレ2008 評論コンペ









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藤原 瞳太馬淵 彩森下 賛良師田 有希

 10月の肌寒い日、私は朝早く横浜行きの電車に乗った。4年に1度行われる大規模な国際展「トリエンナーレ2008」を見るためである。今回、私は国際展というものを初めて見たのだが、なんだかよく分からなかった…というのか正直なところだった。数か所に点在する会場を駆け巡ってテーマパークみたいだとひとりでわくわくしてみたり、音声ガイドがなければ理解できないような作品が多すぎて、自分が本当に美大生なのかどうか怪しんだり、生々しい血や生身を扱う作品を見て困惑したりしていくうちに、「美術とは一体なんなのだ?」と何がなんだかよく分からなくなったのである。また、一度に膨大な数の作品を見るのは非常に疲れた。「見る」ことは「視る」ことでもあり、体力も精神力もフル活動しなければならないからだ。しかし、そんな私にも、特別におもしろいと思い、深く考えさせられた作品があった。

チェルフィッシュ(岡田利規)「フリータイム」

 何かあるようで何も無くて、でも、何かあると信じたい…そんな現代の「だるい」けれども「淋しい」感じを描いている世界がそこにはあった。私は、それがなぜか愛おしく思えて、動かずにただじっと見つめていた。
 岡田利規が率いる演劇ユニット<チェルフィッチュ>による「フリータイム」は、「超リアル日本語」と称される、要領を得ず、だらしがない現代の若者言葉による台詞を用いて、ファミレスをめぐる男女6人の若者の日常を描いた演劇である。なあなあとした言葉でだらだらと語り、体は言葉とは関係のない動きをして、現代のなんとも言いようがない、先が見えない憂鬱な空気感を醸し出していた。ちなみに、チェルフィッチュ(chelfitsch)とは、自分本位という意味の英単語セルフィッシュ(selfish)が明晰に発語されぬまま幼児語化した造語であり、現代の日本、特に東京の社会と文化の特性を現したユニット名である。
 この演劇は、なんと残酷なのだろう。私たちが蓋をして見て見ぬふりをしてきた現実を、目の前に突きつけてきた。自分本位にふるまうくせに誰かにかまって欲しい。欲しいものがありすぎて、いつの間にか本当に欲しいものを見失って動けなくなる。ひとりでいても寂しいけれど、ふたりでいてもどこか寂しい…。気が付いていない振りをしていたけれど、私たちも劇中の彼らのように半分以上は余計なことをだらだらと話し、体にエネルギーを余らしたまま、虚無感と共に日常を送っていた。いや、日常をやり過ごしていた、という言い方の方が正しいのかもしれない。
 しかし、「フリータイム」は現実を突き付けるだけで終わっていない。虚無感に溢れた現代を描きながらも、人が生きているというささやかな温かみも同時に描いていた。それはきっと、岡田利規が世界を愛していて、優しい目で世界を見つめているからだろう。
 人は、その人だけの、小さいけれども大きな世界の中で、なんだかんだ言ってそれなりにきちんと生きている。例えそれが、傍から見て時代に流されているだけの滑稽で情けない姿だったとしても、そこには人が生きているささやかな温かみが確かに存在するのだ。
 この作品を通してささやかな温かみを感じ、虚無感を抱えながらもなんだかんだ言って生きている彼らの姿がとても愛おしくなった。もしかしたら、「だるい」けど「淋しい」この世界もそんなに悪くないのかも。そう思えた瞬間だった。

ミランダ・ジュライ「廊下」

 ミランダ・ジュライの「廊下」は、その名の通り、細長い廊下の壁に左右交互にボードが貼られていて、観者はそこに書いてある文章の一枚、一枚を読みながら、まるで文章に導かれるようにして廊下を進んでいくという作品である。「あなたはまず笑います。そもそもこれがいつの間に始まってしまったのかもわかりません」という聖書に似た暗示のような文章から始まり、いつの間にか自分自身への問いかけになっていく。そして最後に、「あなたはここから立ち去ります」「本当に立ち去ります」という文章で終わり、本当に観者は廊下から立ち去っていく。文章の言葉に自然と引っ張られるようにしてぐんぐん進んでしまう、不思議な力がある作品である。
 書かれている状況にあれこれ自分を置き換えてしまい、まるで人生の短縮版を通り過ぎたようだった。通り過ぎたときは妙にすがすがしく、作品を見る前と見た後では、明らかに自分の中の“何か”がプラスに変わっていた。今はまだそれが何なのかは分からない。しかし、とりあえず歩き続けている。「廊下」から立ち去ったように…。良くも悪くも、私たちは一か所に留まったり、一瞬の時間の中にずっと居続けたりすることはできないのである。今生きている時代の流れと共に、自分で考え、選択して、歩き続けるしかないのだ。そうして、ただ通過しただけの「廊下」が、いつの間にか見る側の人生の一部になっていく。それは、この場所に来て、自分の目で実際にミランダ・ジュライの言葉を見て、作品を体感したからというただそれだけのことなのだが、それこそが最も重要なことである。この空間に身を置くことに意味があったのだ。人は、一瞬でも自分が歩いているのだという確かな時間を感じることで、見えない大きな力に励まされて、一歩一歩噛み締めるようにして歩いていくことができる。映画を観た後に、明日からもっと母親に優しくしよう、環境のために車通勤をやめて自転車通勤にしようなどと思うのと似たようなことである。それを現代アートというものは、直球勝負で私たちに訴えてくる。今、あなたはここにいるのだと。
 と言っても、励まされたことは日常の生活を送っていくうちにだんだん薄れて、忘れていってしまう。そこに、トリエンナーレが1回限りで終わらず3年ごとに行われる意味が存在しているのだと思う。確かな時間をまた感じるために。忘れていく時間と、また出会うために。それが、「タイムクレヴァス」ということなのだろう。

(大森沙樹子)