Cultre Power
biennale & triennale 横浜トリエンナーレ2008 評論コンペ









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回帰のモーメント

 今まで美術館で作品を観る際、一度も音声ガイドというものを借りたことはなかった。自分のペースで作品を理解したいし、第三者からの注釈はいささかわずらわしいものに感じられたからだ。しかし新港ピアに足を踏み入れるとすぐに、私は人生で初めて音声ガイドを借りることを余儀なくされた。
 横浜トリエンナーレ2008は、大きな見世物小屋のような場所だった。どういう心持ちで現代アートを鑑賞していいのかがいまいちわからない私にとっては、展示されている作品すべてが物珍しくあり、そして非常に難解なものに見えた。タイムクレヴァスのテーマのもと、作家たちは何を思ってこの作品を作ったのか…。解説を何度も聞き長い時間考えたのだがそれでも消化できないものが多かった。そんな中突然耳に入ってきた台詞。
 「現代アートを作ろうと思い、この作品を作った」
 音声ガイド内のスティーブン・プリナ氏本人の言葉である。彼の作品「何を読んでも二番目に出てくるのはいつでもあなた」はゆったりとした雰囲気のインスタレーションだった。木材と薄いマットで作られた四つのソファの周りを音響が囲み、そこから彼が作った曲が流れている。壁の端には小さな写真があり、天井からは絵の具で模様が描かれた紙がぶら下がっている。鑑賞者はこの空間を自由に歩き回り、ソファで休むこともできる。
 彼の言葉を聞き作品を見ることによって、私は現代アートとは限りなく作為的に作られているのだということを初めて理解した。そしてそこにこそ現代アートの意図するものがあるのではないだろうか。作為を拾うというある種アンチテーゼな鑑賞法で、私はひたすらに斜めから作品を見てみることにした。面白いことにそうしてみればみるほど、どの作品もはてしなく人間的臭い。あれだけ持っていた作品への不信感も、不思議と薄くなった。最も楽しむことができたのはクロード・ワンプラー氏の「無題の彫刻」である。台座だけが置いてあり、肝心の彫刻作品は無い。屈んだ女の影だけがうすぼんやりと浮かんで見える。傍らには無心で彫刻をスケッチしている青年が一人座っていて、まるで彫刻が見えていないのは自分一人のような錯覚を起こさせる。演出による演出に苦笑いすら漏れそうになった。しかしこの子供のような痛々しさは眩しいほどで、作家の本能を盗み見たような気分にもなった。
 おそらく私が会場で見せられたものは彼らの人間性だ。そこにはむき出しの精神と本能と必死さが確かにあった。それはパトロンに依頼された絵画を描き、サロンで優雅に鑑賞する時代には無かったものであろう。彼らはただがむしゃらに美術の原点とは何たるかを探して、そこに帰りたがっているように見えた。現代アートは行き場をなくした作家たちがもといた処に帰るまでの長い道のりの一部なのかもしれない。トリエンナーレは仮宿を提供したのだ。鑑賞者の中には美術はどこへ向かっているのだろうかなんて感じた人もいただろう。実直に絵画や彫刻を作ってきた人には現代アート作家は異端児に移るのかもしれない。だがきっと、美術はどこにも向かってなんていないのだ。ただ原点に回帰しようとしている。少なくともその瞬間を私は見た。それこそが私が横浜トリエンナーレで感じた一番のタイムクレヴァスでもある。

 本当に一方的で個人的な解釈ではあるが、それでも私に現代アートとの新しい接し方を教えてくれたトリエンナーレは素晴らしい展覧会だったと思う。

(師田有希)