Cultre Power
biennale & triennale 横浜トリエンナーレ2008 評論コンペ









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 全体を通してよくわからない物が多かった。どこを評価すればいいのかもわからず、何を感じ取ればいいのかもわからなかった。現代美術の展覧会を見に行くことがめったになく、現代美術特有の表現方法の多様さ、自由さに終始戸惑い通しだった。作家が強い思いを込めて制作しているのだというエネルギーは感じるのだが、そこから何をくみ取ればいいのかは完全にこちらの判断にゆだねられているようで、ほとんどの作品に対して「よくわからない」という感想を抱くことになった。
 そんな中でよくわからないながらも興味を持った3作品について触れてみたいと思う。
 まず、メイン会場である新港ピアの奥の方にあったミケランジェロ・ピストレット氏の17マイナス1という作品だ。広いスペースを使った比較的大きな、鏡を用いた作品である。3面を17枚の鏡に囲まれた奇妙な空間が広がっている。最初にその空間を目にしたとき、鏡に穴があいていると思った。その作品の前には、どこか現実離れした無機質で不思議な空間が広がっている。鏡に大小様々な奇妙な形の穴があいていて、その穴がどこか別の空間に繋がっているように感じられたのだ。その感覚は、有名なファンタジー小説「不思議の国のアリス」を連想させた。うさぎを追っていったアリスが飛び込んだ穴は、きっとこんな穴だったのではないだろうかと、一瞬自分がファンタジーの世界に迷い込んだような錯覚を覚えた。
 作品に近づいてよく見ると、鏡には別に穴があいているわけではなく、ただ割られているだけだということがわかった。床に、壁に割れたガラスの破片が散らばっている。私が感じたファンタジーの空間は壊れた。しかし作品を最初に見た時から感じていたどこか不思議な空気はまだ辺りを包んだままだった。その空気にどこかとらわれてしまってさえいたかもしれない。日常生活ではめったに見ることのない割れ方をした鏡が並び、奥にあるただ一枚割れずに元の形を保ったまま佇む鏡が、日常にいたら唯一通常の姿でいるはずの一枚が、この空間の中ではむしろ異質だった。日常から強制的に切り離された空間に取り込まれた感覚は非常に愉快な感覚だった。
 しかしこの作品、実際のところは何を伝えたかったのだろうか。作家の意図はわからない。あともうひとつ欲を言うなら、割れて飛び散ったガラスの破片も近くでじっくりと眺めたかった。
 次に興味深かった作品は、シルパ・グプタ氏の写真作品、「見ざる、聞かざる、言わざる」だ。このタイトルを聞くと、日本人ならまず日光東照宮の三猿像を連想するのではないだろうか。日本において「見ざる、言わざる、聞かざる」は8世紀ごろ天台宗の教えとして伝わったものだという説があるそうだ。この表現は日本特有のものではなく、古来世界各地によく似た表現が存在している。また、それぞれの文化によって、意味するところが微妙に異なる。非暴力を説いたインドのマハトマ・ガンディーは常に3匹の猿の像を身に着け、「悪を見るな、悪を聞くな、悪を言うな」と教えたとされている。この作品の作家、シルパ・グプタ氏はインドの出身であるから、もしかしたらガンディーの教えを頭の片隅に置いての制作だったのかも知れない。
 一列に並んだ人々が前の人の目や耳や口をふさいでいる写真。悪から隣人を守ろうとする愛を感じたが、冷たい海に足が浸かっているのが寒々しい。見れず、聞けず、言えない悪にあふれた今の世界への言い知れない不満の、静かな訴えのようにも感じられる。
 この写真の魅力はその大きさにもあるだろう。視界いっぱいに広がる悪から身を守ろうとする人々。頭の中から余計な雑念が消えて、目の前の作品のことでいっぱいになった。
 少し残念だったのが、写真の隅の方が皺になっていたことだ。この大きさになるとぴっちり貼るのは難しいのだろうが、大きさが強さになっている作品なだけにもったいない。
 事前に調べていたわけではないが、当日たまたまパフォーマンスを見ることができた。そのパフォーマンスもまた印象深いものだった。チェルフィッチュ(岡田利規)氏によるパフォーマンス、≪フリータイム≫。
 パフォーマンスというよりは演劇といった方が近いだろう。しかし、私が今まで見てきた演劇とは明らかに趣の異なるものだった。まずいつから演技が始まったのかが分からない。舞台に立った役者に、普段話している口調で持って当たり前のように話しかけられた。舞台というのは日常とはかい離した空間で、その上に立つからには発声から言い回しまで、普段とは違う舞台仕様のものに切り替わるものだと思っていた。その違和感満載の「普通」のセリフに驚きながら鑑賞を始めた。
 鑑賞を続けていくうちに、どんどん違和感は膨らんでいった。セリフが誰のものかわからなくなり、時間の経過も分からなくなっていった。繰り返されているのに同じではなく、役者のセリフがいつの間にか入れ替わっている。舞台上で行われている演技も不思議だ。いったい何をしているのだろう、「普通」のセリフを言うのになぜそんな奇妙な動きをするのだろう。常に頭の上に疑問符を付けているような状態だった。
 何度繰り返されたか、どれだけの時間がたったのかわからないまま舞台は終わった。一時間以上はあったような気がするのに、その間に何も話は進まなかった。ぐるぐると堂々巡りした揚句、全く何の解決も見せないまま、時間だけが進んで舞台が終わった。時間泥棒にでもあったみたいな、狐に化かされたような気分だ。途中少し意識を飛ばしてしまうほどに単調ではあったが、今まで見たことのない新しい演出で、とても面白い舞台だった。
 2日間かけて様々な作品を見たが、たった2日であれだけの量の作品を見るのは苦しかった。一つ一つが自己主張の強いエネルギーのある作品なだけに、見るだけでも多くのエネルギーを必要とされて、見終わった後にはただ疲労が残った。面白いと思える作品にも出会えたが、それ以上にわからない作品が多かった。あれらすべてを理解しようとするのはとても難しいだろうし、そんなことをする必要もないのではないかと思った。それは、あまり、理解されることを求めている作品ではなかったように思うからである。現代美術は奥が深いような、ただ複雑怪奇なだけのような、よくわからないものだ。

(躍場裕佳子)