Cultre Power
biennale & triennale 横浜トリエンナーレ2008 評論コンペ









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無題の彫刻(大きくセクシーな自分を喰らう裸のヴァンパイア)/クロード・ワンプラー

 私は作品を見る前に題名を見ない。なぜなら自分の感覚の一部分が固定されてしまうように思うからだ。この作品はとてもシンプルなものである。2mほどの大きさのなめらかな曲線をおびた楕円は白く塗っただけであり、その奥に奇妙な形をした巨大な陰が映っていた。作品の前に立ったとき、確かに生きているものの呼吸を感じた。それは決して荒いものではなく、そっとした吐息で耳元の髪の毛がわずかに動く程度の一息------まるで満月へとゆったり進む湿気を含んだ風や、深い深い森の奥底で人知れず落ちていった一葉------のようであった。前に立つと自分の影が大きくぶれて投影される。その陰は滑らかな楕円に溶け込んでいくようであり、そっと柔らかくすべてを受け入れてくれるような甘い瞬間にグラグラとした。思わず楕円の中心に身を投げ込み、私という存在を預けてしまいたい欲求に駆られる。しかし、奥に映る何なのかわからない奇異な形の陰-----それが恐怖心を掻き立てる------を見て、夢からはっと目がさめたような気分になる。後から題名を見てみると、あまりにも感覚的印象に合致し人の五感を左右する美術に感嘆した。

17マイナス1/ミケランジェロ・ビスとレット

 16枚の割られた鏡とその中央に位置する不自然なまでに完全な一枚の鏡。この一枚は回りの存在によって逆に不自然さを漂わせていた。割られた部分の穴からは、ぽっかりと暗い黒色が顔を出し、映る人々はどこか欠けた状態で自分の姿を見ることになる。この作品は、人間には必ず欠けた部分のあるということの象徴だろうか。割れた鏡同士が向き合い、予想のできない映り込み-----それらはひしゃげ、折れ曲がり、切断されていたりする------を作っている。この大きな空間には、永遠が根を下ろしているように感じた。しかし、この永遠は不変というものではない。形あるものは必ず姿を変えていく。そんな変化し続ける無限の空間を永遠(とわ)として捉えたのだ。寂しくも受け入れなければならない事実を考えさせられる作品だった。

時間の破片-Fragment of Time/勅使川原三郎

この作品との出会いは、私に始めて“作品の中に入り込む”という意味を教えてくれた。まず目にした瞬間、焼きつくような迫力は忘れがたいものがある。奥行きを持った長い部屋の床一面にガラスの破片が敷き詰められ、左右の壁にもそれ同様のものが隙間無く刺さっている。それらは今にも落ちそうであり、危うさを感じさせた。床にあてられたライトは、奥の壁に無数のガラス反射をつくり、淡くはかない光のしずくをこぼしている。私は気が付くと想像の中でそこに立っていた。破片の鋭さに怯え、後ろを振り返ることにも恐怖しながら足を進める。歩くたび、パキパキっと下に引かれたもろいガラスが割れるため、そっと気を使いながら進む。どこかの壁から力尽きた破片が落ち、寂しい崩落の響きを生んでいる。個々の破片を見つめると、鋭い痛さを思い起こさせるが、進む方向に(未来)という全体像に視点を移すと、一つの景色であり、この先にある何かを予感せずにはいられない。そんな期待感を募らせた。人を引き込む作品とは、見る側をも作品の一部とする瞬間を創り出すことを知った。

今回のトリエンナーレでは、仕切りで区別されているが、あちこちから別の作品の残音が聞こえた。そのことによって私の印象は、どこかでみんなつながっており全体が一つの生き物のように感じた。私はとてつもない大きな生物のお腹にいるようで始終落ち着かなかった。私は今回、多くの作品達に見られていたような気がする。美術とは、人が作品を鑑賞するという一方向ではなく、空間によってあらゆるものが出会い、関係し思いを沸き立たせ、感情の行き来を繰り返し、新しいアートを創り出す連鎖なのだと感じた。

(棚田絵理子)