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神谷 悠季 | 木村 優子 | 佐藤 裕平 | ジョン スミ | 末永 幸歩 | 高野 希美 | 瀧田 梨可 |
竹内 舞 | 棚田 絵理子 | 谷口 匠 | 當眞 未季 | 中田 莉央 | パク ジュン | 日吉 ちひろ |
藤原 瞳太 | 馬淵 彩 | 森下 賛良 | 師田 有希 |
幾つかのとき
今年の横浜トリエンナーレにおけるテーマは『タイムクレヴァス』、つまり『ときの裂け目』である。私はこのテーマに基づき、今回出展された作品から感じられた『時』という概念を、過去・現在・未来の三つに分けて考えていきたいと思う。
【過去】
会場をぐるりと見回せば誰もが感じることであろうが、今回の出展作品には映像媒体のものがとても多い。というのも、このテーマを見れば頷けることである。
『ときの裂け目』、という耳慣れない言葉を聞いたとき、私が最初にイメージしたのは「現在から過去を垣間見る」というものだった。トリエンナーレに参加した作家の中にもそうしたイメージを抱いた者は少なくなかったのではないだろうか。何故なら『映像』という媒体は、図らずも過去の事象を私たちに提示する。記録された映像はその全てが現実でありながら、現在には存在し得ない『過去』を映し出すものなのだ。
映像を使用した作品の中でも特に印象的だったのが、マイク・ケリーの『キャンドル・ライティング・セレモニー』だ。この作品は、鑑賞者を取り囲むように配された三面のスクリーンにそれぞれ別のアングルから撮影されたドラマが映写されているもので、スクリーンに沿うようにしてドラマ内の舞台や小道具が設置してある。そして傍の壁には、ドラマの登場人物の写真とともに、古い時代のモノクロ写真が展示されていた。ここでまず驚かされるのが、ドラマの登場人物とモノクロ写真に写っている人物が瓜二つであること、モノクロ写真の内容をドラマ内のワンカットで見事に再現していることだ。モノクロ写真は三枚あり、ドラマ内の主要人物である五人のモデルとなった人物たちが写っている。これらの写真はおそらく全く別のシーンにおいて撮影されたものだろう。それがこの映像の中では一体となり、キリスト教徒の娘、ユダヤ人の娘、そしてナチスのシンボルであるハーケンクロイツを身に付けた暴漢らが、蝋燭を灯した幻想的な舞台を中心に言葉を交わし合い、歌を歌っている。
三面のスクリーンに囲まれながら、私はとても不思議な気分になってしまった。遠い昔を生きたはずの人物たちが、現在に蘇ったかのように演じられている。彼らは私を取り囲み、鑑賞者をも巻き込んでミュージカルを始めてしまった。しかしふと視線を落とすと、そこにあるのは溶け出して固まった大量の蝋燭。そう、彼らとて既に『過去』なのだ。現在という時の中にあるのはドラマの記録と遺物、モデルとその演者の写真。何もかもが過ぎ去ったことだったのだ。まるで今ここで劇が演じられているかのような錯覚の中、私がこの作品に見たのは紛れもなく強烈な『過去』の姿だった。
【現在】
今回、映像作品と共に多く見られたのがイベントという形を取った作品だ。絵画や映像とは決定的に異なる形式のそれはまさに一度きりのものであり、『現在』という時を認識させるにはうってつけの表現であろう。しかしここでは展示という形式を取りつつも『現在』を強く認識させてくれた作品を取り上げようと思う。クロード・ワンプラーの『無題の彫刻(大きくしなやかでセクシーな自分を喰らう裸のヴァンパイア)』である。
この彫刻には形が無い。少なくとも私にはそう見えた。展示場所に群がり楽しげに見上げている鑑賞者も少なからずいたので、これが『裸の王様』のような作品――大衆心理を試す遊び心、或いは正直者にしか見えない不思議な彫刻――である可能性も無いとは言い切れないが、見えなかったものは見えなかったので今回は私なりに読み取らせてもらうこととする。
先に述べたように、この作品には形が無い。ご立派な彫刻台の上には空気しか乗っていないのだ。となると他からヒントを得なければなるまい。まずは作品のタイトルにある『大きくしなやかでセクシーな自分を喰らう裸のヴァンパイア』という部分。そしてもう一つ、周辺に散らばったデッサンと、彫刻のあるはずの場所を熱心に見つめて絵を描いている女性。彼女の視線の先に何かが存在するのかどうかは置いておき、描かれたものを観察してみる。そこには一人の女性らしき人物が描かれているのだが、その状態が普通ではない。女性は不自然なほどに体を折り曲げ、自らの体にかぶり付いているのだ。これらの絵はタイトルとも合致しており、おそらくこの彫刻はそのような形を成しているのだと推察できる。では、このヴァンパイアはどこへ行ってしまったのだろうか。
ここで一つ思い出したことがある。中国に伝わる『タン』という空想上の動物の話だ。タンは余りにも貪欲で、食べ物だけでは飽き足らずに世の中の全て、果ては宇宙までも食らい尽くしてしまう。それでも欲望は尽きず、ついには自分自身も食べてしまい、残ったのは『無』である、という内容だ。
これは貪欲による自滅を表わした話だが、「自らを喰らう」という点においてこの作品と通じるものが無いだろうか。つまりここにいるはずのドラキュラは、自らを残らず食べ尽くしてしまったのだと考えられる。私たちがこの作品の前に立った時に受け取れることといえば、『作品が存在しない現在』という事実のみである。どんなに目を凝らそうと、余りに動的であったこの作品は最早私たちと同じ空間を物質としては共有し得ない。時は決して止まること無く、この彫刻はあるべき体を成して現在という時間の中に設置されたのだ。
【未来】
過去を回顧する作品は多かれど、未来を予感させる作品にはなかなか出会えない。一見近未来の雰囲気を漂わせる小杉武久の『レゾナンス』も彼の幼少期の記憶を元にした作品であり、眺めている内に喚起されるのはどこか懐かしい夜の記憶だった。作品自体も、今現在ラジオから流れている音の信号を光に置き換えたという装置であり、音を見る、という新鮮さはあれど、過去と現在の融合が未来に直結する訳ではないだろう。そんな中やっと出会えたのが、ポール・チャンの『6番目の光』だった。
この作品にも映像が用いられており、影絵のようなモノクロのアニメーションが個室の床に映写されている。映像は窓枠の形に縁取られ、その向こう側には木の葉や枝、小さな生き物などが風に吹かれて飛んでいく様が見て取れる。一見平和的なこの作品だが、和んだ気分の鑑賞者に突然突きつけられるのは、余りにも鋭い不安感だ。窓の向こうで吹き荒んでいたはずの風は、映像を縁取っていた窓枠をも破壊し吹き飛ばしてしまう。この瞬間、私たちは楽観的な傍観者ではいられなくなった。今や吹き荒ぶ風の中、軽々と飛ばされていくものたちを見つめるその視点は酷く頼りない。やがて画面は暗転し、この不安も収束するかに思える。しかし、この作品の本領はここから発揮されるのだ。再び戻ってきたモノクロの画面。風に飛ばされていくのは無数の窓。あるものは形を留めたまま、またあるものはバラバラに壊れた状態で、紙きれの如く宙を舞い過ぎ去る。
窓から見ていた世界はいわゆる外の世界であった。しかし窓を取り払われたことにより、内外の区別は失せてしまった。安泰であるはずの場所から唐突に放り出される恐怖。まずはそのようなものを感じた。だが暴風の前に為す術もなく飛ばされていく無数の窓枠を見た時、その認識は一変した。この窓枠が表わしていたのは、私たち自身の『観』ではないだろうか。目、見方、視点、そのような言い方をしても良い。確固たるものだと信じて疑わなかったそれは、私たちを置き去りにして随分と呆気なく飛んで行ってしまった。しかも、どの窓枠も同じように。
この作品に『未来』を見た、というのは、人間が漠然と抱える『未来への不安』を体現しているからに他ならない。ディレクターの水沢氏に「絶望的」と言わしめたこの作品は、文明や常識といったものを誇らしげに掲げ、驕り高ぶる私たちへの警鐘と思えてならない。自然を前にして、この傲慢さはどんな力を持つだろう。足元にぽっかりと大きな穴が空いてしまったような、もしくはとうに空いていた穴を自覚させられたような感覚を覚える作品だった。
今回のトリエンナーレを通じて最も強く感じさせられたことは、『時間』というものに対する己の認識の低さだった。過去を想い、今を生き、未来へと向かう私たちは、あまりにもその自覚無しに時の直中に身を置いている。過ぎ去ったものをいつまでも留めておけると錯覚したり、もう戻らない失われたものを今に求めたり、根拠の無い価値観に縛られて人生を歩んでいる。作家たちの鋭い視点と、残酷なまでに愛の込められた作品たちを前に、それを読み解きたいという願望は膨らんだ。しかしそれらを解釈した先に待っていたのは、温かな指南というよりも鑑賞者を慄かせる冷たさであったように思う。受け入れるには棘の多いこれらをどうやって自分のものにしていくのか、大きな課題と自省の種を渡された。
(竹内舞)