Cultre Power
biennale & triennale 横浜トリエンナーレ2008 評論コンペ









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タイムトラベル

 情報過多な日常の時間に流されることなく、時間の淵にたたずみ、その裂け目(クレヴァス)を覗き込むスリリングな体験の場を提示すること、それが今回のトリエンナーレの目的のようだ。
 普段過ごしている現実の世界から時間の流れはそのまま、だが確かに違う世界を垣間見た気がした。その中でもタイムクレヴァスを感じさせてくれた三つの作品を私なりの流れで解釈していきたい。

 まず一つ目の作品は、「トニー・コンラッド [米国] ブルネレスキ」である。
 天井からサッカーボールぐらいの大きさの球体がつりさげられている。そのすぐ下の床には巨大な硯のような物が置かれ、中に肌色のような色をした液体がはいっている。球体は振り子のように揺れ動く。この作品は振り子という原始的な装置で時間そのものを感じさせる。振り子は重力にその身を任せ振られ続ける。
 タイトルのブルネレスキとは、14〜15世紀に活躍した建築家であり様々な技術を学んだエンジニアで、時計職人でもあったフィリッポ・ブルネレスキのことではないかと推測する。
 振り子は振り子式時計からもなるように時を刻んできた装置である。
 その装置をこの作品では無機質にさらけ出し、下の液体は振り子による動力の液体で床に飛び散っている。時間がたてばたつほどそれは拡大し周りの床は液体の飛び散りでシミになっていく。作品を見た者はその床のシミから時間の経過を知る。
 この作品から時そのものの在り方、存在定義を見せつけられた気がした。

 次に取り上げるのが、「ケレン・シター [イスラエル] 殺人のためのG 」という映像作品だ。
 登場人物は4人。主人公の男、主人公に殺される女、主人公が女を殺すのをくい止めようとする男たち2人。彼らは主人公のモラルや良心を象徴している守護者たちで主人公の頭の中で作られた存在、現実には実在しない人物たちだ。ラジカセのようなスピーカーから音が流れることが守護者たち2人と主人公とその女を交わらせているスイッチのようなものかもしれない。現実世界にいる2人と実在しない2人が同じ時間の中で行動し、ストーリーが進んでいく。
 現実の世界ともう一つの世界が混じり合い同じ時を過ごす。
 作品中、ストーリー解説のように映像の中に文が映し出され、その中にこんなのがあった。

『男は眠れない夢を見、女の家で目覚める』
 男が女を殺そうとするのをくい止めようとした守護者たちは主人公の頭の中に存在するものだが、そもそも女を殺そうとするまでの行動や感情、すべてが眠れない夢だったのではないか。男は眠りから起きて、女を愛していることに気づき、その愛の感情が失意に満たされ、女を殺しに行こうとする。確かに時が経ち前に進んでいるかのように思われるこの状態も眠れない夢だったのではないか。まるで堂々巡りのように、男の頭の中で永遠と繰り返される長い長い眠れない夢。
 一体何がホンモノで何がニセモノか…一生決着のつかない世界がそこにはあった。

はじめに時という確実に過ぎていく確かなモノ(トニー・コンラッドのブルネレスキ)をみて、次に終わりも始まりもない永遠に続いていく時(ケレン・シターの殺人のためのG)をみた。最後に、「ホルへ・マキとエドガルド・ルド二ツキー [アルゼンチン] 薄明」をみることにする。

三渓園内の江戸時代初期の建造物、旧東慶寺仏殿の中でそのパフォーマンスは行われた。
二胡の生演奏、機械による音響、そして仏殿の中を斜めに横切っていく照明の演出。それらを組み合わせ、約20分間観客は押し黙りそのパフォーマンスを鑑賞し続ける。
機械による耳鳴りのような電子音は日々動き続けるこの世の流れ。
そしてそれに反発するように二胡の無常の叫び。
照明は動いているのか分らぬほどゆっくりと、でも着実に時の経過をあらわす。
部屋の対角線上にワイヤーで吊るされ、ゆっくりとそのワイヤー上を下っていく照明によりあたりはだんだんと暗くなり、パフォーマンスがクライマックスに入ったことを知らせる。
クライマックス、世の中の流れに押し潰され声を出すことさえままならなくなり、だんだん弱っていく叫び。しまいには、声を出すことさえ許されなくなる。
表現しているのは時の流れ、世の流れ、その流れに対する無常の叫び、そして抑圧される現実。
この作品から連想させられる歌がある。

祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらはす
おごれる人も久しからず
ただ春の夜の夢の如し
たけき者も遂には滅びぬ
偏に風の前の塵に同じ  (※1)

確実に過ぎ去っていく時の経過を感じ、始まりも終わりもないぐるぐると回り続けるだけの時を観て、最後に、世の流れ その流れに必死で対抗する叫び しかしそれをただ傍観するだけの時のはかなさを身をもって知る。
日常生活を振り返れば行き当たりそうでなかなか辿り着けないこのタイムトラベル。
それをすることができたトリエンナーレであった。
この三作品に出逢えてよかったと思う。

(※1)
平家物語の冒頭部分
口語訳
 祇園精舎の鐘の音には、
 諸行無常すなわちこの世のすべての現象は絶えず変化していくものだという響きがある。
 沙羅双樹の花の色は、
 どんなに勢いが盛んな者も必ず衰えるものであるという道理をあらわしている。
 世に栄え得意になっている者も、その栄えはずっとは続かず、
 春の夜の夢である。
 勢い盛んではげしい者も、結局は滅び去り、
 まるで風に吹き飛ばされる塵と同じようである。

(馬渕彩)