井尾 鉱一 | 市村 あずさ | 内村 悠己 | 榎本 瑶 | 川田 誠
河野 木里 | 杉原 環樹 | 瀬野 はるか | 大黒 洋平 | 戸澤 潤一
永井 里奈 | 林 絵梨佳 | 坂野 潤三郎 | 武笠 亜紀 | 八重樫 典子
天使が通りすぎる時
今回のトリエンナーレのテーマは「日常からの跳躍」である。そもそも日常から跳躍したものであるアート作品の機能、そして力を改めて考える場だ。
サーカス小屋をイメージした会場は、鉄パイプやむき出しの木材で組み立てられた展示スペースが散らばり、仮設展示の様相を示している。なかにはいままさに制作を行っている作家たちも存在し、展示内容は日々変化するため、展覧会全体が一つの運動体のようである。多少、仮設性のため殺伐として見えるが、会場全体は猥雑でにぎやかだ。まさにいま、すぐ目の前で芸術が生まれるのを見るのはスリリングである。ポール・ヴァレリーがこの時代に生きていたら、何と言っただろうか。
ただ、私は作家と観客が一体となって何かを行う、というワークショップ形式が好きではなく、どちらかというと静かに一人で作品と向き合う方がよい。何でも観客を巻き込めばよいという訳ではない。
全体的に受けた印象はアートサーカスというタイトルが示す通り、遊園地(テーマパーク)といった感じで、そういう意味で統一感はあった。あまり有名な作家はおらず、一目見ただけでは何やら訳の分からない作品も多く、難解ではあったが、若者を中心に、なかなか人の入りはよさそうだ。
個人的に気になったのは、ジャコブ・ゴーテル&ジャゾン・カラインドロスの≪天使探知機≫(1992-2005 ミクストメディア、ガラス、木、金属、電気)である。ちょうど、展示会場の一番奥に、ひっそりと展示してある。
≪天使探知機≫
「光の中を覗き込む沈黙・・・」T,S,エリオット
「Un ange passe 天使が通った」――このフランス語の言い回しは天使が通りすぎたとき、会話が途切れるという考えに由来している。「空白に対する恐れ」に取り憑かれた私たちの社会では、沈黙は希有な事象となった。透明なドームの中に置かれた明かりは、その周囲にまったくの沈黙が検知されたときだけ光が灯る。天使探知機は通りすぎる天使に歩みを止めるよう誘う灯台のよう
なもの。
誘われた天使との(沈黙の)会話が始まる。
ジャコブ・ゴーテル&ジャゾン・カラインドロス
というメッセージが展示室の入り口に書かれている。真っ暗な部屋の中に入ると、中央に台座があり、その上にドーム型のガラスケースが置いてあって、中には消えたランプが入っている。このランプは周囲にまったくの無音を感知すると静かに明かりが灯る、という、とても詩的な作品である。ところが、皮肉なことに、この展示室の目の前には奈良良智の展示スペースがあって、そこからは巨大な音量でロック・ミュージックが流れてくる・・・。どういう展示配置なのだろう。意図的なものだろうか?
係の人と話したところ、この作品のランプが灯ることは会期中にはないのではないか、ということだった(※注1)。アナウンス、子供の声、作品を触っていじくる者、誰もが故障した機械を見る目つきでチラリと見ると、「何もない」とつぶやき展示室を去っていく。この作品の前で全く音を立てずに座り、周囲の雑音が一切なくなるのを待ち続けているのは、私だけだ。誰も、静かに、ランプが灯るのを待つ人はいない。騒々しいこの現代、我々は天使が通りすぎる場所の一つも作り出せない。痛烈な批判。
きっと、想像するに、真夜中の、誰もいなくなった、真っ暗な会場の隅で、このランプは静かに灯る。そして、天使が通り過ぎて行く・・・・・・。
(※注1)
ネットで調べたところ、6〜7人の観客が押し黙っていると、ポッと一度光ったという。誰かが「あっ」と言うと、光は消えたそうだ。
(内村 悠己)