井尾 鉱一 | 市村 あずさ | 内村 悠己 | 榎本 瑶 | 川田 誠
河野 木里 | 杉原 環樹 | 瀬野 はるか | 大黒 洋平 | 戸澤 潤一
永井 里奈 | 林 絵梨佳 | 坂野 潤三郎 | 武笠 亜紀 | 八重樫 典子
生き続ける展覧会
誰もが穏やかに時を過ごしている山下公園の奥で、まるで異次元ができてしまったように横浜トリエンナーレ2005が開催されている。「日常からの跳躍」は既にこの山下公園と会場入り口の境目で起きている。仮設ということを隠そうとしない手作り感溢れるブースやコンテナたちは倉庫街の埃や錆、工業的な匂いと不思議と統一感を醸し出している。ともすれば、そのブースの木材など素材そのままの構造が川俣正氏の過去の作品に似ているようにも思える。
「展覧会は運動態である。」言わずと知れた総合ディレクター川俣正氏の言葉である。この言葉には2つの運動態としての展覧会の意味がある。
今年のトリエンナーレは敢えて目玉を作らなかったと彼は言う。前回のように著名なアーティストでの集客は狙わなかった。そのせいかオープンしたての頃は平日ともあってさすがにまばらな観客であった。宣伝も会場付近のJR線では色々あって全く行われていないようだし、この先ちゃんと人は来るのだろうかと出だしはサポーターとして少し不安だった。それが今となってはどうだろう。週末を重ねていくごとに人が増えていくのがわかる。11月頭ではヴィンター&ホルベルトのブランコや堀尾貞治の百均絵画、ピュ〜ぴるのブースなどは行列が出来ているのである。ただ平日の特に夜9時までやっている金曜日がまだ少し閑散としている感は否めないが。そこはまた次回への課題として、今回の集客の隠れた要因には口コミとリピーターがあると考えられる。
実は今回のトリエンナーレにも目玉はちゃんとあると私は思っている。それは誰のどの作品というのではなく、むしろ全ての作品が持つ観客との対話、「コミュニケーション」そのものである。観客参加型を押しているだけあってどの作品でもコミュニケーションが発生する。会場に足を運んだ人だけがそのライヴ感を感じることが出来る。人々はその興奮を持ち帰り、それを伝えたい人に話すだろう。伝えられた人は雑誌やテレビで見る宣伝とは違う臨場感を味わい横浜トリエンナーレに思いを馳せる。実はそこでまた第2次コミュニケーションが発生しているのだ。そうして人々の中にトリエンナーレの記憶や思いが残り、人を伝い無限に広がり、この展覧会は会期が過ぎてもいつまでも終わらないのだ。
また普通の展覧会ならアーティストにとってはオープニングがエンディングとなる。しかしここではそんな常識は無い。作品は会期が始まってからもずっと動き続けている。黒田晃弘や安部泰輔のように会期中滞在して作品を増やし続ける作家もいる。堀尾貞治+芸術集団「空気」も会期中滞在しているが毎日違うことをしてくれる。大量の傘をオブジェにしては撤収。子どもたちを主役にお客さんにスーパーボールを投げさせたくさんの金属のボウルに当てて音を奏でては撤収。他にも色々やっていたが挙げていたらきりが無い。とにかく全てが心躍らせる作品である。その跡には日付と『堀尾貞治+芸術集団「空気」あたりまえのこと「作品名」』とサインされた紙が貼られていく。とにかく飽きない。毎日観ていたい。1回観ただけでは満足できない。むしろ観れば観るほど何度も通いたくなってしまう。サポーターはそのことを1番良く知っている強力なリピーターでもある。今回のトリエンナーレはその賑やかさから、良く遊園地のようだと評されるがそんなに行儀の良いものだろうか。1度たりとも同じ場所でいてくれることは無い、さながら成長し続ける若手の演劇の舞台のようである。
「美術館外の展覧会と美術館の役割」
水戸芸術館主催のカフェイン水戸などもそうだが最近は美術館の外に出て行く展覧会が多くなった。それは美術が町に親しみ人々と触れ合う良い機会になる。もともとアートはどこにでもあるものなのだから、わざわざ町に出てきたのではなく隠れていたものが垣間見えてきたという感じだろう。こういった展覧会が増えて人々がその感覚を持ってくれれば日本のアートへの意識は格段にやわらかくなるだろう。
しかし一方で美術館の役割が問われる時代になった。新しい展覧会スタイルがもてはやされ、美術館は最早今のスタイルを捨て町に出るべきだろうか?いや、断じてそんなことは無い。トリエンナーレのような展覧会があるからこそ美術館はきちんとした展覧会を行い、アーカイヴをしていかなくてはならない。そこにしっかりとした美術の基盤があるということを示さなくてはならない。10月15日にBankART1929で行われたシンポジウムで川俣正氏は「世の中トリエンナーレみたいな展覧会ばっかりだったら狂ってしまう。」
村田真氏は「美術館にはガンコ親父のような存在でいて欲しい。」と言っていた。
トリエンナーレで気分が高揚した後は安心して美術鑑賞のできる場が欲しいものである。
トリエンナーレを通して美術館のあり方というものも考えさせられた。
「横浜トリエンナーレ2005の一押し」
横浜の晴れ渡った青空に港の風、響き渡る身体と身体のぶつかり合う音とそこにたなびく紅白の褌。ダニエル・ビュランの旗ではない。1度見たら忘れられないという点では彼らは抜きんでている。そう、身体表現サークル「ベストセラー〜褌100人出来るかな〜」である。8月からサポーターを始めた私が1番長く関わって1番のめり込んでしまったアーティストである。
伝統的な日本男児の衣装を身に纏い、ビンタや組体操のような単純な動きを無表情で演じる。バックミュージックはお尻や頬などを力いっぱい叩く音のみ。褌という男気溢れる衣装に生白い身体、加えて淡々と演じる様というギャップが見る側に笑いを誘う。しかし油断すると観客もいつの間にか回転ビンタのリレーの列に並ばされてしまうのだ。褌が100枚たなびくことは叶わなかったがビンタに混ざってくれた観客も入れれば身体表現者はゆうに200人超えただろう。参加してくれたお客さんは興奮した面持ちでお礼を言って去ってゆく。その見た目のインパクトから1歩引いてしまう人もいるが、実はその方が逆に忘れられずそのまま横浜トリエンナーレの記憶となるのである。
そして彼らの作品は大きい。身体表現サークルは山下埠頭の会場全体は勿論、ビュランの旗とコラボレーションしながらビンタでプロムナードを渡りきり、山下公園まで出てしまうのである。元町商店街の方でも演じた。つまり通った全ての場が身体表現サークルの作品となりそこにあった全ての他アーティストの作品とコラボレーションしたことになる。
そして何といっても彼らの魅力は作品のわかりやすさである。暗黒舞踏のような深いコンセプトも無ければバレエのようにストーリーが表現されているわけでもない。それは彼らの活動が単純に宴会芸から始まったとされる所以かもしれない。しかしそこに身体表現の極みを目指す姿勢が見受けられる。
彼らは皆、広島市立大学芸術学部美術学科の彫刻専攻つながりである。立場は様々だが皆、彫刻に関するスキルと経験がある。彫刻には一種の身体表現要素が含まれていると私は思う。槌で叩く反復動作やその反動。回転する鋸刃や道具の動き。彼らの無機質な動きには少なからずともそういった経験から来るものが感じられる。
身体表現サークルとはダンサーなのか、パフォーマーなのか、アーティストなのか、はっきりとはわからない。トリエンナーレに出品している以上アーティストと呼ぶべきなのだろうが、どれでもあってどれでもないとも言える。アート界の人間からすれば彼らはただ観客の受けのみを狙っているエンターティナーだという声もある。しかし観客がいなければ成り立たないのはどの作品も同じである。今回のトリエンナーレではいかに観客に何かを残していくかが重要である。彼らが巻き起こすのは笑いだけではなく、純粋に身体の可能性に対しての驚き、ギリギリの境界線を行く彼らへの不安、時に正気の沙汰でない者へ向ける恐怖といった様々な感動である。彼らは感情や物語、音楽を使わず純粋に身体だけで表現できるものとは何なのか、どこまで表現できるか身体の限界に今も挑戦し続けているのである。
最近はダンスとアートの境目も随分曖昧になってきているが、そのことを念頭に置いても彼らはまだ未踏の領域にいるのではないだろうか。
身体表現サークル、彼らが新しいアートの道を拓いてくれる日はそう遠くないだろう。
(林 絵梨佳)