井尾 鉱一 | 市村 あずさ | 内村 悠己 | 榎本 瑶 | 川田 誠
河野 木里 | 杉原 環樹 | 瀬野 はるか | 大黒 洋平 | 戸澤 潤一
永井 里奈 | 林 絵梨佳 | 坂野 潤三郎 | 武笠 亜紀 | 八重樫 典子
会場でずっと感じていたもやもや感があった。それが言葉として形になったのは二つ目の倉庫に入った頃だっただろうか。それは「倉庫に負けている」だ。倉庫という存在が重く、大きすぎて作品の存在感が薄く感じられた。それは今回のトリエンナーレには華となる作品がないからという理由ではなく、むしろ展示作品全体を通しての統一性が全く感じられないことが大きかったのではないだろうか。もし作品が別々に美術館に展示されていたのであれば、もっと印象に残るものだったかもしれない。しかし、倉庫に乱雑に置かれているだけのように見えてしまう展示は私たちに作品の印象を薄くさせる。
しかし全て倉庫が悪いとは言えない。倉庫という存在は使い方によっては美術館にはできない展示ができる。そのことではヴォルフガング・ヴィンター&ベルトルト・ホルベルトの「スウィンガークラブ・ヨコハマ」がよい例として挙げられる。この作品は暗く広い空間に大きなブランコがあり、人が座ってブランコをこぐと光り輝くというものだ。暗闇の中で光る大きなブランコは乗るのも楽しく、一方で離れて見ているだけでも光の美しさを楽しむことができる。
この作品と空間の融合は倉庫を最大限に生かしているといえ、倉庫の存在感に勝っている。
問題はほとんどの作品がこのような空間を生かし方ができていないことだ。
どうしてこのように中途半端なものになってしまったのだろうか。その理由は今回のトリエンナーレのテーマである「アートサーカス」という言葉にあるのではないだろうか。そもそもサーカスをテーマにすることに無理を感じる。サーカスは多種多様なものの集合体からなるエンターテイメントの一形態である。そして、現代の人気のあるサーカスではその中でテーマが存在し一連の世界観を作っている。テーマがなく催し物が次から次へ飛び出してくるサーカスは時代遅れなのだ。
サーカスと聞けば一見テーマとなるような気がしてしまう。しかしサーカス自身は集合体にしか過ぎないのだ。だからこそサーカスという言葉をテーマに置くということはテーマがないことの裏返しに思えて仕方ない。
テーマがないものには統一性は望めないのは当然のことである。自分ひとりで物を作るときでさえテーマを決めずに作業をすすめていけば何を自分がやろうとしているのか分からなくなるときがある。それがたくさんの人たちをまとめて創造していくものであるのならばテーマをはっきりさせないということは無謀としか言いようがなく、この問題が今回のトリエンナーレの結果を予想していたと思わずにはいられない。
一方で「楽しかった」という感想も耳にする。トリエンナーレは普段普通の人々が犬猿しがちな現代アートを気楽に触れる場を設けるという役割を持っていると思う。そうであるのならば、「楽しかった」という感想はトリエンナーレの成功を意味しているとも言える。しかし、これから他の機会に現代アートを見に行こうと思うだけの影響力を与えられているかは疑問が残る。どちらかといえば「楽しかった」で終わってしまっているのではないだろうか。それではわざわざトリエンナーレを行う意味はなんだろうか。少なくともトリエンナーレは普通の人へ現代アートへの興味を与える確固たるきっかけを与えるという目的において失敗に終わっていると思う。
(河野 木里)