井尾 鉱一 | 市村 あずさ | 内村 悠己 | 榎本 瑶 | 川田 誠
河野 木里 | 杉原 環樹 | 瀬野 はるか | 大黒 洋平 | 戸澤 潤一
永井 里奈 | 林 絵梨佳 | 坂野 潤三郎 | 武笠 亜紀 | 八重樫 典子
跳躍した向こうの世界は
今回、総合ディレクターの川俣正氏は、横浜トリエンナーレに「アートサーカス」というテーマを設定した。展覧会を運動態として捉え、普段生活している日常から「少し遊離した場の設定」で、「日々の生活空間から少しだけ跳躍した胸躍るような光景」をトリエンナーレという展覧会に持たせようというのが意図であった。彼自身が、美術家ということで、今まで作品にしてきた「ワーク・イン・プログレス」という、状況やその場で起こる過程、衝突、共鳴といった作業に特に焦点をあてていた彼らしいといってしまえば、簡単かもしれない。しかし、川俣氏が今までやってきた作品とは共通する点があるとはいえ、今アートが立ち向かわなければならないテーマがそこに隠されているような気がした。
メイン会場につくとまず、普段何気ない日常を過ごす場の記憶、歴史についての作品に出会う。高松次郎の「工事現場の塀の影」は、「影」といういつもそばにあるものを、非常に再現的に精密に描いた作品だ。もし、そのことを知らなければ、どこかの照明から、だれかの影がうつしこまれ、白い壁に映りこんでいるのか、と錯覚してしまうだろう。近づくと自分の影が映りこみ、過去の記憶にあったであろう向こう岸の人々と同じ立場に同化する。まさに、その瞬間だけの「作品」となった。また、目の前にあったスライドを仕込んだ双眼鏡のようなものをみると、過去に、高松次郎の作品の前で、何かのすばやくまわる回転体が写っていた。実は、私がのぞく以前に、屋代敏博が全身タイツをきて、高松の作品の前で回転していた写真であったのだ。屋代の作品と高松の絵画がもつ異なった時空間を、ひとつの場がもつ記憶という共通点をもってみせていた。その後の展示も全体的にそうした何気ない日常を過ごす場をテーマに、多くの作品が構成されていたように思う。
しかし、そのような作品が多くある中で、照屋勇賢のマクドナルドの袋を切り刻んで、極めて繊細に木をつくりだした作品は少し違ったシビアな一面をのぞかせていた。一見すると、日常品をただ変質させて作品化しているようにみえるが、この小さな作品の中には、「日常と異なる併存状況にある価値観」(※1)をみせ、グローバリズムによる均質化、環境問題に対する小さな世界からの大きな問題提起に、目を向けさせられてしまうことに気がつく。私たちは、何気ない日常と付き合う中で、普段は隠されている重要な問題と、向き合わなければならないのかもしれない。
同じように、今回のトリエンナーレの中では、現代社会が向かうグローバライゼーションによる均質化の流れの中で、忘れ去られてしまうかけがえのないものに目を向けた作品が、多くみられたのではないだろうか。たとえば、高嶺格は、倉庫の高さをめいいっぱい使った大規模なインスタレーションによってそのことを提示していた一人だ。この「鹿児島エスペラント」では、自身の故郷である鹿児島と世界語エスベラント語によって、世界について語ろうとする。しかし、観客には、意味を汲めない絵空事に思えてしまう。まるで、ローカルとグローバルの共生は不可能性に立ち会ってしまう出来事のようだった。また、ベアト・ストロイリは、アラブの人々と日本人のポートレートを展示することで、ある人種を際立たせていた。非常に戦略的に、グローバル化への異議をにじませていたのではないだろうか。
それでも人は、グローバル化の進む社会で、やはり生きている。大きな問題と向き合いながら、人は、希望をもたなければ決して進むことができないのだ。また、日常の中、自らの力で幸せを手に入れ、生を切り開いていかなければならない。
ジャコブ・ゴデール&ジャゾン・カラインドロスの作品は、スピードを求めるグローバル化の中、忘れがちで、時にマイナスなイメージをもつ沈黙をテーマにして作品を提示した。あたりに静寂が訪れるとゆっくりと輝きだす電球を用いた作品は、まさに身近な幸せを教えてくれた。そこに居合わせた人々は、自らで沈黙を作り出そうとし、ゆっくりと電球が光りだすのを待つ。それは、小さな新しい命をみなで静かに見守るような体験で、沈黙を肯定的に構築していた。ヴォルフガング・ヴィンター&ベルトルト・ホルベルトの作品は、外の飲料運搬用のキャリアケースを積み上げたパビリオンと、観客が漕ぐことで成立するブランコを別々の場所に展示した。どちらも、目の前の風景を、スローな時間の中で眺めること求め、日常の中では気にも留めない景色をみせてくれる。特にブランコの作品は、観客が、漕がなければ作品として成立しなく、時間というものを強く求めさせる。暗闇に浮かぶブランコで、人は幼いころの記憶に想いめぐらせ、忘れていた自分だけのかけがえのない時に、文字通り遊離させられるのだ。社会とは違った時間の流れを、各々が持ち続けることが、個人の幸せのかたちを守ることになるのかもしれない。
今回第二回目の横浜トリエンナーレには、自分たちの身近な「日常」そのものがあった。サーカスというテーマから、普段とは違った日常を離れた、めまぐるしく変化する非日常の別体験をすると思っていたが、みおわってみるとまさにその逆ではないか、と気がついた。いくつか抜粋してあげた作品にも共通するように、さまざまな角度から「日常」そのものが、まざまざと厳然と立ち現れていたのではないだろうか。それはまさに私たちの生活であり、自分自身の現実の姿であった。私たちが普段、何気なく同じように、繰り返している生活の中には、自分という世界のすぐ横にさまざまな事柄が、隠れ気がつかないこととして、ともに寄り添うようにある。たとえばそれは、違和感のない形で生活に介入してくるグローバリゼーションだ。このままグローバルへのアンチがなければ、個人、一対一で過ごす最小のコミュニティーの中でさえ、小さな希望となる私たちの生活文化が消えていく危険もあるのではないか。それは、いつもそばにいる家族や、くだらないことを笑って話せる友人とともにあるかもしれない。だからこそ、日常をより踏みしめて、どんな孤独にも負けない「幸せ」という形を、日常から見つけていかなければならないのだ。
このトリエンナーレは、私たちに今こそ確かな「日常への着地」を求めているような、そんな気がした。
引用文献:横浜トリエンナーレ2005 アートサーカス(日常からの跳躍) カタログ172項 (※1)
(戸澤 潤一)