Cultre Power
biennale & triennale 評論コンペ05 -横浜トリエンナーレ-









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井尾 鉱一 | 市村 あずさ | 内村 悠己 | 榎本 瑶 | 川田 誠
河野 木里 | 杉原 環樹 | 瀬野 はるか | 大黒 洋平 | 戸澤 潤一
永井 里奈 | 林 絵梨佳 | 坂野 潤三郎 | 武笠 亜紀 | 八重樫 典子

My Chinatown

私が横浜トリエンナーレを訪れた11月13日は、ナウィンさんと縁が深い日だった。まず、メイン会場へ行くバスの中で、ナウィンさん達と偶然乗り合わせ、次に、参加したキュレーターマンのゲームで私が優勝するという事件が起きた。そして最後は…。

 ゲーム優勝後、私はゲームマスターの方からインタビューを受けた。インタビューの中で、気になる質問があった。それは、「このゲームは現代美術を批判していることに気がつきましたか?」という質問である。私が参加したのはクリティックというチームで、ゲーム内容は、世界各国の都市名とそれに合う絵が描かれた正方形のテーブルを4人で囲み、順番にサイコロを振る。サイコロの目の数だけテーブル上の自分のコマを進め、コマが止まったところの都市(土地)を買収するか否かを決定する。売却した土地に他のプレイヤーが停まると、その停まったプレイヤーは、土地所有者に土地借用代を払わなければならない。……このゲームのどこが現代美術を批判しているのだろうか……私はゲーム中、ただゲームに熱中するばかりで、他のことは一切何も感じていなかったし考えてもいなかった。その質問をされて、私は正直ショックだった。美大生で、しかもこれから先ずっとアートに関わって生きていきたいと望んでいる者が、キュレーターマンの作品に触れ、体験したにも関わらず、何も感じないし何も考えていなかったなんて!私はただ、「批判をしていたなんて気がつきませんでした」と答えるしかなかった。
 「現代美術を批判している」とはどういうことだろう。批判といえば、「長征 唐人街 The Long March-Chinatown」のエリアでは、世界各地にある中華街をモチーフに、中華街を批判する作品があった。姚瑞中(ヤオ・レイヅォン)「天下為公行動 中国外的中国」は写真を使ったインスタレーション作品で、世界各地のチャイナタウンをモチーフにしている。この作品の意図をトリエンナーレ・スタッフに尋ねたところ、「題名にある通り、『天下為公』とは孫文が唱えた共産国家理念で、その理念が中華街という形で世界各国に残っていると作者は考えた。中華街は中国本来の姿ではないし、中国の文化でも歴史でもない。しかしそれを中国の文化だとして、各国の人々は受け止めてしまっている。グローバリゼーションの矛盾だ。」と教えてくれた。同じく姚瑞中で「チャイナタウン 天施地転」は、横浜中華街が映された画面が首をかしげるように、ゆっくりと180°回転する映像作品だ。これら2つの作品からは、作者が世界各地の「中華街」という存在に疑問を感じているのがダイレクトに伝わってくる。横浜や世界の中華街は、中国の街をそっくり似せたものだと今まで私は思っていた。当然そこには中国の文化や歴史を何の疑いもなく感じていたわけで、「はたしてこれは本当に中国の文化なのか」なんてことは考えもしなかった。…この感じ。キュレーターマンのゲームの後、あの質問をされた時と同じだ。「自分は物事に関して何も考えていない」ということを思い知らされた時のショック!グローバル化やインターネットの普及により世界中の情報が簡単に入手できる現代とはいえ、私達は他国の文化や歴史やその国の人々の思想など、全てを知ることができているわけではない。そういえば私は、横浜中華街というちっぽけなエリアから中国を知ったつもりになっていたように、他の国のこともそういう風に見ていたのではないろうか。いや、他国だけじゃなく、この日本のことも、いや、自分の住んでいた街のことも、地域のことも、友達、周りの人々のことも…。そう考えると、「何も自分は知らないんだ」ということが恐く感じる。ある一部分だけを見て、しかもそれが真実なのかどうかも疑わず、その全てを知った気になるというのはなんて愚かなのだろう。もしかして、キュレーターマンのゲームはこういうことを暗示していたのかもしれない。ゲームは、都市の名前や絵だけで、その土地を買う価値があるかないかを判断していた。これは、今の私を反映しているように思える。先日の講演でナウィンさんがしきりに言っていた「アートはコミュニティとコミュニケーションをとる、コミュニティのアート」「アートはコミュニティみんなで作っていく」という言葉の中には、物事のほんのわずかな部分だけで、その全てを把握・理解することはできないという戒めが込められているような気がした。その地のコミュニティと直接関わりを持って作っていく作品は、その地に暮らす人々の思想であり、文化であり、歴史でもある。
 これからアートに関わって生きていきたいと思っていた者が、実際にアートに触れ、体験しているのにもかかわらず、実は何も感じていないし考えてもいなかった。それがどれだけ恥ずかしく、悲しいことか、この横浜トリエンナーレは気づかせてくれた。しかしその日の夜、私は中華街で夕食をとり、その帰りにナウィンさん達と中華街で再び遭遇する。複雑な思いを胸に、私は横浜を後にした。私はこれから、もっともっと勉強していかなくてはならない。

(市村 あずさ)