井尾 鉱一 | 市村 あずさ | 内村 悠己 | 榎本 瑶 | 川田 誠
河野 木里 | 杉原 環樹 | 瀬野 はるか | 大黒 洋平 | 戸澤 潤一
永井 里奈 | 林 絵梨佳 | 坂野 潤三郎 | 武笠 亜紀 | 八重樫 典子
さわひらき 『trail』 Video installation
身体感覚を通して見るように作られた作品が殆どだった。この横浜トリエンナーレでは、アートが作品として場に展示されているだけではない、観客が作品に触れたり制作に参加したり、そういった作品への身体的干渉という行為そのものが作品の本質であるかのように意図されている。またコミュニティや生活としての社会をテーマに製作された作品も多かった。ここでは美術館やギャラリーに特徴的な作品と観客の間に隔たる「壁」が取り払われ、作品と観客との「対話」があってはじめて場が成立している。
だがその中で、さわひらきの『trail』は異質な存在感を放つ作品だ。明るく開放的に作品を展示する外界とは完全に区切られ、箱を連想させる真っ暗で小さな空間の中、グレースケールの映像が静かな音楽と共に淡々と流れている。作品と観客との身体的接点を持とうとする作品群の中で、この作品においてははっきりとした距離を両者間に与えているような、そんな印象がある。
実写映像にアニメーションを組み込んだ映像で、不特定な部屋の一室を断片的に写し、そこにラクダの歩く姿や観覧車などの、お伽噺にありそうな愛らしいモチーフ等の影を合成する、というノスタルジックな趣を持つ作品だ。影は日常の狭間から突如現れ、空間を埋め尽くしていく。切り絵のようでぎこちない動きをする影だが、光と空間の影響を受け適切に伸縮を繰り返す様が映像にリアリティを与えている。空間はスクリーンがある奥に向かうにつれて狭まるよう設計され、観客は自然と映像を覗き込むような形になる。その感覚は鑑賞または体験する、というよりも、見つめるという感覚に近いものだった。
『trail』に際して一番に挙げられるのが、映像美である。この作品を鑑賞する上ではまずその完成された世界観の上に立つ映像美が目に入る。洗練されたグレートーンの映像と、幻想的で童話的ともいえる映像。ラクダは一定のリズムで歩き続け、その圧迫感や強要感のないスリムな映像は見るものを優しくアートの世界に引き込むのだ。音楽も巧みである。まるでオルゴールが鳴るかのような柔らかい音がゆっくりと流れ、音楽は映像内のひとつのレイヤーのように作品に溶け込んでいるのだ。
しかしラクダたちの、私的生活空間にぎぃぎぃと音を立てて歩く様には奇妙な異質さが付随している。影の不自然でぎこちない動き。ラクダの動きと連動する奇怪な機械音。それらはまったく生命を感じさせないばかりか、お伽噺に登場できるような暖かさすら持っていない。その異質な存在は時間の経過と共に増殖と通過を繰り返し、日常空間に時間性と空間性という縦と横の広がりを持って切り口をつけていく。また、この作品は舞台となる私的生活空間にわざと唯一性を持たせないよう意図し、製作されている。その匿名であるがゆえ、に誰もが空間と自分の生活をリンクし、この空間と作品に妙な近親間を覚えるのだ。そのためこの空間盛衰 していることが、自らのの日々の生活や普通をも侵犯しているかのような様な感覚に陥ってくる。この作品は美しく優しいだけでない、この侵犯を自らの生活に触覚するような、そんなある種の強迫観念を持った映像としても提示されているのである。ここにおいて、トリエンナーレの核である『会話』がはっきりと成立する。観客が映像と自分の生活とを対話することによってはじめて、侵犯をはっきりと実感することができるのだ。
『trail』では人間や動物、肉声や自然音などと言った、生命感のある素材がひとつも使用されていない。にもかかわらず、映像化された私的生活空間を観客が自身を投射することによって、作品に確かな日常性や生活への関与を付随させるのだ。私たち観客が映像の素材のひとつとなることで、その世界の果てしない侵食を可能とさせる。実写とアニメーションの融合による第三世界の提示という手段の上で、この作品では第三世界を空想だけには終わらせずに日常の背後に潜むリアリティな世界として表現している。また作品の説得力は映像の美しさによって、よりいっそう強調されるのだ。
(武笠 亜紀)