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現代アートの祭典、横浜トリエンナーレ
僕は現代アートというものが苦手であった。もしかすると今でもまだ苦手意識があるのかもしれない。芸術文化学科では、この西洋美術史概説の授業を含め、現代アートと触れる機会が多い。しかし、私は祖父、父が所属する日本工芸会の領域のものを見る機会が幼少から多く、かつ僕自身の興味もその指向の方が強くなっていた。金属を叩くための鎚からあてがね、彫金で用いるたがねに至るまで自らの手で作り、自分のデザインや表現を形にしていく世界と比べレディメイドのものや映像、インスタレーションがあふれるの世界はどこか違和感を感じざるを得なかった。
しかし、この半年間芸文で学ぶ中でその世界に自らの興味を持ち始めてもいた。そのため、今回の横浜トリエンナーレとはいったいどんなものなのだろうという、期待と好奇心を胸に会場へと向かった。
僕が訪れたのは平日の午後であったため、人影はまばらであり、休日に訪れた学生とはまた違った印象を受けているかもしれない。そして一言で感想をいうと思った以上に面白いものであった。人が少なかったこともあり、スムーズに、かつじっくりと一つ人つの作品をみることができた。
その中で、社会的なまた思想的な主義やメッセージを全面に押しだした作品が多いことが気になった。(特に、日本以外のアジアの作家の作品に多くみられた。)初め私はそのような作品に一種の疎ましさや押し付けがましさを感じた。特に映像というメディアを使った作品等は直接的なイメージを見る側に提示できるためかなりメッセージ性の強調がなされていたように感じ、うっとうしさを感じた。しかし、もしそれが彼らの、また彼らのコミュニティの叫びであり、彼らの現状の根源的な原因に対する強い反発心から生まれたものであったら、そしてそれをアートを通じ私たちに提示しているのだとしたら、、、
そう考えると私は作品の叫びに引きつけられ、その場を動くことができなくなっていた。そして横浜トリエンナーレがその現場となっているということは、これは評価するべきだと感じたのであった。
もちろん、中には不可解な作品も見られた上、スタッフの数、立ちいちにより非常にみづらかったり窮屈な空間が出来上がってしまっていたことなどは今回の課題であると思う。私たちのように空間や立ちいち等を気にかけるような学びをしている人ではなく一般のボランティアスタッフが多かったことが一員と考えられるが、それでもそういったことに気が向くキュレーターらがそういった指導、人数の調整をして、より作品を感じやすいような空間を作らなければならない。
また、なかには不可解、それでいいのかという作品も見受けられた。美大の芸祭と同じようなものであったり、こちら側を震えさせるようなものでなかったり、様々ではあるが、一貫してもう少しみる側を考えた作品づくりがあってもいいのではないか。もちろん作家は自分の表現をする。そして、それはいかなる形であっても良いと思う。しかし、それを人の前にだす。という段階においてはみるがわを考えなければならない。その作品と出会う人が「現代アートってこんなものか」という感じかたをしてしまったら、作家はもちろんみている人がこれから現代アートと触れる機会を自ら断ってしまうかもしれない。作品をトリエンナーレに出すことが、本当にアートを感じにきている、またはその一歩を踏み出そうとしている人にとって良いことであるのか。そこを考えずに出している嫌いがある作品は残念であったといわざるを得ない。
またディレクターを巡るごたごたも作家、見る人を第一に考えるならばあってはならないことである。そこをどうまとめ、トリエンナーレが進むのか、今後の成長に関わりつつみていきたい。そう思えるものであったことをうれしく思う。
(井尾 鉱一)