井尾 鉱一 | 市村 あずさ | 内村 悠己 | 榎本 瑶 | 川田 誠
河野 木里 | 杉原 環樹 | 瀬野 はるか | 大黒 洋平 | 戸澤 潤一
永井 里奈 | 林 絵梨佳 | 坂野 潤三郎 | 武笠 亜紀 | 八重樫 典子
三角旗の中間地点へ
11月14日は曇天の月曜日だった。服は真っ赤なジャンパーを選んだ。ダニエル・ビュランの三角旗、ルック・デルーのアーチ状コンテナ等、広告内のイメージに赤が多用されていたから、という単純な理由による。
出展者一覧を一見すれば明らかだが、今回のトリエンナーレに一般的な知名度を持ったスターはほぼいない。浅学にして私にとってもこの印象はほとんど変わらず、事前の情報が少ない中あえて未知の作家のプロフィールを調べはしなかった。代わりに私の視線の軸となったのは「アートサーカス【日常からの跳躍】」というテーマそれ自体だ。
言葉の解釈には大きく分け二つがあると思われた。一つは退屈さを忘却する為の超越的、単なるお祭り騒ぎ的な「非日常空間」のありがちな再現。また一つはそのような場への新たな挑戦として、私達が今正に立つ洗練されない日常性にこそ美しさや楽しさを見出せる強き「跳躍力」の提示。作品、作家という輝かしさへ触れることの裏側にある、「日常」=「退屈」といった現代的な雰囲気は御免と考えていた私にとっては、当然後者の解釈が望まれた。その面でディレクター川俣正の「目玉のいない」選抜や、彼が自身の作品で実践してきた制作環境そのものを重視する方法論「ワーク・イン・プログレス」の透写は納得であったし、だからこそ下調べなし、ただ会場と生活圏を重ねる道具として赤い衣服を身に纏った。
訪問日はあいにくの曇り空。だが(繰り返された広報の影響を抜きにして)メイン会場へと導くダニエル・ビュラン『海辺の16,150の光彩』は、その変化する天候の元でも(だからこそ)私に日常内の感動を経験させる。彼の作品は今回企画の上で最も成功したものの一つだと思う。
都市に作品を置くことは「風景を消す」ことと表裏一体であり、見なれた風景の消失はある人間に大変な痛みを負わせる。だがおそらく潮風を前提とし、ビュランはその消失を旗という媒体によって絶え間なく延期し続ける。その常に定まらない作品の姿は川俣の提示する「運動体としての展覧会」というキーワードと見事に合致した。場の諸条件に身を任せながらある瞬間加速度的に空間へ入り込む大量のストライプやざわざわはためく現象としての音に、この作品のしなやかさを見る。それは日常の中で明滅する感動だ。
会場で私が終始気になってしまったのは制作用と思しきペンキや工具、スタッフの衣類等の雑多な放置だ。会場のあちこちでよく現場にある様な風景が見られる。確かにこれを作家達の「制作環境」=「日常」の提示とも言える。しかし「見せる」ことへの配慮もない、ものとしてだけの「制作」の放置を見せられた私は正直拍子抜けした。ここには現場の緊張感等感じられず、ただ企画内容に甘んじただけの跳躍なき日常の姿がある。「しっかりしてくれ」と私は思った。また月曜という、より「日常」的な曜日にも関わらず、前日のイベント跡が祭後のように虚しく残され、パフォーマンスの数が0(!)であったことには大きな疑問を感じずにはいられない。金・土・日に集中的に内容を盛り込む従来型ジュールに企画側の根強い「非日常」への依存を見た気がする。異例といえる準備期間の短さや来客数等を考慮に入れてもこの偏りには再考の余地があったはずだ。
だがそのような怠慢に埋もれない作品もある。奈良美智+grafの『A to Z』は作家の発信地としての部屋から始まり埠頭の風景を見渡せる高位置のベランダ、橋、そして私達の生活する地上へと到る実にドラマチックな作品であり何度でも体験したくなる。廃材という下地が奈良の描く世界と馴染み過ぎるという批判もあるようだが、私はそうは思わない。あるいは奈良の良く知られた「絵」=「作品」だけをあの部屋から取り出そうとする姿勢に疑問すらある。それよりは、机の上に重ねられた紙の色合いや、ベランダに貧乏臭くぶら下がったてるてる坊主に、視点の移動や歩く速度から感動を与られたことこそ私を喜ばせた。小さな穴から覗くしかない、犬の溢れた彼の「世界」よりもだ。
さらに複数のブランコの共鳴を光の連動により静かに感じさせたヴォルフガング・ヴィンター & べルトルト・ホルベルト、平坦な生活空間(砂漠)の細部にラクダを侵入させるさわひらき、首をあちこち動かしながらの壮大な風景鑑賞にどこか山からの眺望を思わせた高嶺格…倉庫という場(サイト)に関わらず(批判性も見出せない)ホワイトキューブ的な囲いを設営する作家や、方法としての「日常」性の難しさに飲み込まれた作家も個人的にはあったと思うが、彼等以外にも優れた日常の跳躍者は多かった。
「敷居」を下げる工夫を前回より明確にしたことがまず評価され、体験や現場を見せるという国際展として極めて稀有なテーマにも大いに賛同するが、ただ体を激しく動かし「楽しい」と叫んでも、ただ凹凸のない「日常」に退行して見せても、始まらないのではないか。テーマの二つの解釈にも「延期」がふさわしく思えるが、この展覧会自体が一つの確かなプログレスとなればいい。おざなりな表現で申し訳ないが、無闇に非日常の世界で捉えられがちな作家が、私達と同じ場所(日常)に生きる者として歩みを始めることは、きっと両者にとって新たな可能性を開くと確信する。
少なくない疑問を持ち倉庫を出た私だが、ビュランの三角旗に再び救われる。安易に「会場へ」と導くものと考えていたそれは、実は「日常へ」のゲートでもあった。明滅する感動。赤い服を着た私は、その夜横浜の街の美しさに少しばかり気が付いた。
(杉原 環樹)