井尾 鉱一 | 市村 あずさ | 内村 悠己 | 榎本 瑶 | 川田 誠
河野 木里 | 杉原 環樹 | 瀬野 はるか | 大黒 洋平 | 戸澤 潤一
永井 里奈 | 林 絵梨佳 | 坂野 潤三郎 | 武笠 亜紀 | 八重樫 典子
〜アートのもつ底知れぬチカラ〜
草間彌生やオノ・ヨーコなどの世界的にも知名度が高く、名前だけで目をそばだててしまうようなビックアーティストが参加していない今回の横浜トリエンナーレ2005。開催が一年遅れたり、会場の安全対策に予想以上の時間を要してしまったり、と何かと開催前からドタバタしていた。そんな状況下において私は、“ほんとに大丈夫なのか?”といういささかの疑問を抱いて会場へと足を踏み入れた。だが、[日常からの飛躍]というテーマに相応しく、多彩でウィットに富んだ気鋭なアーティストたちが、まさにピエロとなって私たちにアートサーカスを楽しませてくれた。舞台となった横浜の地は、手作り感に溢れ、どこか不恰好でぎこちない。いたるところでアーティストたちが制作を続けており、観る者もそこへ積極的に関わる、という光景が広がっていた。私は、そんな手探り状態なところが、逆に新鮮で、これからの“Contemporary Art”の可能性を示唆してくれているのではないかと感じずにはいられなかった。
今まで私が美術館や画廊、博物館などで出会ってきた作品たちは、言わば“完成された作品”であることが多かった。絵画なら額縁の中に一枚の絵が納まっていて、その下に作品解説のプレートが付されている。それに、統一された展覧会であっても会期中展示内容は変わらない。たとえ展示入れ替えがあったとしても全体の雰囲気は変わらない。そして、美術史の流れに作品を当てはめて鑑賞するのが私の常だった。けれども、このトリエンナーレの作品たちは、“成長し続ける作品”であるのだ。アーティスト共にボランティアの人たちが積極的に制作の場に携わり、作品を作り上げてゆく。私は、この積極的なアートへの関わり方に、やや面映さを感じてしまった。それはいったいなぜであろうか?
一つに、その積極さが故に、近所のおばさんにいきなり話しかけられた時の気持ちと似ている点である。街中で名前を大声で呼ばれた時の、なんとも表現しがたい恥ずかしさである。そして二つ目には、一斉に作品たちが私に会話を仕掛けてくる点である。これまで一対一で目の前の作品と対峙することの多かった私には、そのことがとても新鮮であったのだ。その為、作品たちに圧され閉口してしまった。アートとアーティストが観る者を内包する。そんな空気がトリエンナーレ会場には漂い、会場の奥へ辿りついた時には、その積極さを心地よく感じていた。
一度は遊んだことのあるサッカーゲームを巨大化してしまったKosuge1-16+アトリエ・ワン+ヨココムの『ハマトリスタジアム』やナウィン・ラワンチャイクンのアートの世界をテーマにした『キュレーターマン』、来場者の似顔絵を描き続ける黒田晃弘などは、まさに参加型の作品である。その中で私が印象的に感じたのが、沖縄県出身でニューヨーク在住のアーティスト照屋勇賢の『警告の森』である。柔らかな光に照らし出された袋の中に浮かぶ木々。照屋曰く、「ファーストフードやデパートの紙袋には、元々木であった時の精神が宿っている」と。そこに広がる静寂な世界からは、現代社会への冷ややかなアイロニーというよりかは、混沌とした世界への静かな叫びのようなものを感じ得た。2002年のVOCA奨励賞を受賞した『結い、You-T』に象徴されるように、彼の作品は今日の社会状況を丁寧に汲み取るようなものが多い。いっけんすると、華々しい他の作品たちに埋もれてしまうようであるが、実に静かに堅実なメッセージを放っていた。
まだまだ進化中で模索中の横浜トリエンナーレ。[アートサーカス]と題された今回の展開が、決して最良な形ではないだろう。むしろその未完成なところが良いのではないだろうか、と私は考える。ミロのヴィーナスのように完璧な状態ではないからこそ、観る者の想像力を喚起し、魅了し続ける場合もある。そして、成長段階の方が、様々な人たちが様々な立場で煩悶しながら、トリエンナーレという舞台に意識的に関わることができるのではないだろうか。
(大黒 洋平)