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横浜トリエンナーレが示唆する現代アートの諸問題
今回のトリエンナーレでは衝撃的な出会いがあった。中国のアーティスト5人がそれぞれ作品を展示した「Long March」−その中にあるシュー・ジェンの作品「8848-1.86」である。スペースいっぱいにテント、リュック、寝袋、ガスボンベなどなど本格的な登山用品が無造作に置かれている。横には吹雪の中、険しい山を登る映像…。「作者がエベレストに登った時のものを展示しているんです」とボランティアの女性に言われた。「すごい!」と感心して私はじっと見ていた…が、直後に「まあ嘘なんですけどね!」と言ってそのボランティアの女性は去って行った。この作品は作者本人がエベレストに登ったかのように見せるインスタレーション作品だったのだ。私は完全に騙されてしまった。まるでこの作品に「これが現代アートです」と言ってしまえばどの人の作品も全て、アートになってしまうとでも言われているようだった。そして私は今更ながら気づいてしまった。知らないうちにこれはアートだと暗示をかけられて、作品を見ているかもしれないという危険性に。これが衝撃的な出会いの一部始終である。
日常では何とも思わなかったものが、ふと誰かの手にとまり取り上げられる。その瞬間から初めて作品となる。そしてそれをアートとみなすかどうかは非常に微妙な境界線で決まる。現代アートの作品を見たことがある人は皆、これは一体ゴミなのか作品なのかよくわからないという経験が一度はあるのではないだろうか。そこが現代アートの面白さのひとつでもある。ダダやウォーホルはそうしたぎりぎりの面白さを楽しみきった芸術家の代表であるだろう。だが、一歩間違うと、たちまち現代アートは日常の延長線上にあるものでしかなくなる。高尚な美術館のイメージを払拭するため提案された「アートサーカス」という空間はあまりにも無秩序で日常の延長でしかなかった。シュー・ジェンの作品が私に問いかけてきたようにあの空間は、これはアートだと暗示をかけているだけなのかもしれないと思ってしまった。
しかし、こんなに単純にトリエンナーレに対する評価を終えていいのだろうか。一人でも多くの人に来て欲しいと考えるのは当たり前のことである。そこでみんなが行きやすく興味を持つ展覧会を作ろうとすると、楽しみを一方的に提供するテーマパークのようなものになってしまいがちである。だが、研究性の高い従来の展覧会では今までアートに関心のなかった人からすれば行きにくい場所だろう。この狭間で今、現代アートは居場所を探し彷徨っている。その迷いにひとつ、解答を出したのが横浜トリエンナーレなのかもしれない。
ここ最近に見る現代アートは私たち観客が参加するものが多い。それは最近よく見られる参加観客型やコラボレーションの作品などが象徴しているだろう。例えば、トリエンナーレに揺れると光る巨大ブランコの作品があった。ブランコに乗らなければブランコは揺れないし光らない。今日ブランコに乗る人がいなくても、明日は乗る人がいるかもしれない。と言うように現代アートの作品は今日成立しなくても、明日は成立するかもしれない可能性を持っている。長い歴史の中でようやく私たち観客はアートに対し、能動的に働きかけることができるようになったのだ。つまり現代アートが落ち着く先は私たち観客にも委ねられていると言っていいかもしれない。だからこそ私たち観客も、作家や作品に負けないくらい「観る」力をつけていく必要がある。
今回の横浜トリエンナーレは現代アートにおける諸問題を浮き彫りにした展覧会であった。私たちがこれからどのようにアートと共に成長していけばいいのか考えていかなければならない。「ブランコの次はサッカーだあ!」−横浜トリエンナーレで楽しそうにはしゃぐ親子を見て、私はそう強く感じた。
(瀬野 はるか)