artist 鴻池朋子/Konoike Tomoko
contents

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Copyright © Aomi Okabe and all the Participants
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©岡部あおみ & インタヴュー参加者
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インタヴュー

鴻池朋子(アーティスト)×白木栄世(芸術文化学科・芸術文化政策コース修士課程卒業2期生)

日時:2005年6月2日
場所:ミヅマアートギャラリーにて

01 物語の始まり/プロデューサー的役割

白木栄世:鴻池さんの作品をこの半年あまり見てきました。その間、ずっと根底には「物語る」というものを感じていたわけなんですが、その6ヶ月間というのは以前から計画されていたんですか。

鴻池朋子:綿密に計画していたというわけではないです。韓国のソウルで展覧会「シティーネット・アジア・プロジェクト:都会的関係、継続すること」展(ソウル市立美術館)に参加し、その時日本部門担当だったキュレーターの東京都現代美術館の笠原美智子さんと初めてお会いし、「次回のMOTアニュアルで展覧会をやりませんか?」ということで始まったんです。それが2003年末でした。ちょうど描きたいものがあったということと、ダイナミックに展示する空間があるということで進めていきました。しばらくして、森美術館のキュレーターの荒木夏実さんからオファーが来たときは、時期的にきつかったんですが、物語というテーマが興味深くお受けしました。東京都現代美術館の作品を描いていたときに、次の作品のことを考えることがすごく楽しかったです。私は子どもっぽいから次のことに興味が行ってしまうんです。何か連動性のあることをやることで、次の楽しみを持ちながら描けるし、自分でも実験的に絵画を繋げていくということはどういうことかなと考えていました。二つの展覧会が決まったところで、ミヅマアートギャラリーから戦略的に展示の話が来て、現美、森美とバラバラで受けている仕事を一本の大きなグルーヴとしてプロデュースしていこうと考え付きました。最初は同じシリーズの作品を描く時間はなく違う形での展示を考えていたんですけれど、ギャラリー側としては続きが見たいという要望でした。時間がない中で描いた作品なので、現在展示している(ミヅマアートギャラリーでの)作品が一番怖かったんです。でも勢いで「描いてしまえ」という気持ちで描きました。現代美術館が6ヶ月間、同時に海外展や澁澤龍彦*の挿絵を描いていました。森美術館が4ヶ月間ぐらい、次第に制作方法を学習していますからね。その後にミヅマアートギャリーが2ヶ月半の間で描いた作品です。

白木:常に描いているという状態だったんですね。

鴻池:そうです、絶対的に描くしかないじゃないですか(笑)。

白木:その次が見たいという気持ちも強かったんですね。

鴻池:制作はスパンが長いから、思ったことがすぐには完成しないですよね。「描く」というような作業は、ストレスを抱えてやっていることが多いです。長丁場でやっていると、わくわくする時もありますが、すごく嫌な時間も続くわけです。「いやでもなんでも、とにかく何としても手を動かさなければいけない」と思う時間のほうが本当は長いんです。でもその先にはとても楽しみなことがあって、その待ち構えているものに出会う為に、単純にそれが見たい!という気持ちで描いていくわけなんですよ(笑)。


『ストーリーテラーズ』展 展示風景 森美術館 2005
© Tomoko Konoike


個展『惑星はしばらく雲に覆われる』展 ミヅマアートギャラリー 展示風景 2007
© Tomoko Konoike

02「ゲーダイ」日本画科

白木:現在やられているような描くこと、何かを続けるという行為には、小さい頃からきっかけはあったんですか?

鴻池:最初はちらしの裏が白かったからそれに好きなように描くという感じでした。好きな漫画をただ描くという感じでしたね。好きな女の子の絵を描いたり、コマのない漫画を描くということをしていました。美術クラブに入ったことはなかったです。個性的というよりは、束縛に弱いってことが後になってわかったんですが、「こうしなさい、ああしなさい」ということに対して気持ちが萎えていく感じがありました。なので、一人で好きなように描いていたし、描けばある程度うまく描くことができたので、ほめられたりもしました。芸大に入り、卒業はしましけれども、日本画にはまったく興味がもてなくて、4年間は別のことに興味がありました。当時のアートは、若者がわくわくするものではなかったんです。哲学的なものの要素のほうが強かったです。ニューヨークに行くとポップアートであるとか、ニューペインティングのようなものはあったけれども、やはりアートは権威的な難しいもののように感じ、音楽のリズムにのるようなものではなかった。だから嫌われちゃう。若者は分かりやすくて簡単な方に惹かれるので私も当時は雑貨やファッションなどに興味をもっていました。

白木:日本画って束縛が多いですよね。大学に入るときの受験のときには鉛筆デッサンと水彩の試験なんだけれども、実際大学に入るとまったく別の画材を扱う学科になってしまう。それも束縛の多い画材ですよね。

鴻池:大学に入る前と後では違いますよね。描く前に膠を溶き、絵具をつくり、下地を塗って、しかもやっと絵具が乾くと色が違って。ものすごく魅力的な素材なんだけれども、きちんとしたテクニックが必要で体で覚えるまでに時間がかかる画材です。だからこそ長く愛されて使っていける素材で、魅力があるんだと思います。私の場合は単純に自分のやりたい事とメディアが合わなかっただけで、日本画材が駄目だということではありません。日本画の材料よりも鉛筆の方が、思ったらすぐ描けるという点で自分に合っていたんです。作家と画材には、それぞれ適切な相性があると思います。今はアクリル絵の具を使っていますが、それでもまだ苛立つんです。私にとって鉛筆の方が早く描けるんですよ。ただ、鉛筆で描くとあまりにも感情が出過ぎます。アクリルだと重ねていく時間があることで、時間のタイムラグがあって、感情だけで押し進めることができないことにつながります。作品を客観的にみる時間ができるんです。それがアクリルで描くいいところです。

白木:日本画科に在籍されているときにアメリカにいかれたようですが、

鴻池:ニューヨークに遊びに一ヶ月間くらい行きました。

白木:日本画科に在籍されていたという中で・・・、

鴻池:私は日本画科にはいなかったですよ(笑)。教授は何も教えるわけでもない、技法を教えるのは助手さんであったりするわけで、自己流で学ぶんです。教授は皆の作品講評はしますけれども、箔貼りの講義などは外部から来た先生がします。教授に教えを請うた覚えがないんです。教授との交流はたまにしかなかったですね。私は子どもっぽかったからちゃんとコミュニケーションしてくれないとすぐにつまらなくなって、次第に興味を失っていきました。それでも回りの学生は鯉とか菊とか描いているわけです。もしも大学で教師というものに信頼がおけていたら、違う学校生活があったと思います。逆に言うと何もないのが芸大のすごさですね。中は温室で、そこに入ると日本の芸術の神様のように勘違いして思われてしまう。当時も周りの学生は院展だとか、創画会に出していましたが、自分(同じ世代)のリアリティが感じられなかった。描いている人の年齢らしくない作品ばかりで、地味でかっこ悪く感じました。タイトルも日本画的タイトル。日本画は画材の素晴らしさがあるのに、使う人が慣習的な表現に甘んじているように思えて。しかしそういう意味では私は大学からドロップアウトしましたが、自分の興味がある方向だけに、単純に向かっていたように思います。

白木:その時期にアメリカを選ばれたという理由は何だったのでしょうか?

鴻池:やはり、初めての海外旅行となるとおもしろいところに行きたいですよね。地下鉄から出るとセサミストーリートの世界が広がっているというようなイメージをもって行きました。みなさんと同じ感じですよね。いろんなものを吸収して、自分でドライブしてフロリダの方へ行ったりだとか、冒険でした。


第4章 帰還 シリウスの曳航 2004
© Tomoko Konoike

03ストーリーから抜け落ちてゆくもの

白木:ニューヨークから帰られてから、しばらくして就職されるんですよね。

鴻池:就職した玩具会社は、まわりに男の人が20人くらいのなかで、ひとりだけ女の子でした。まず企画が通ると、紙にデザインして、次は3Dにおこし、それが通ると生産図面、金型図面におとして生産ラインをみて、最後にパッケージのデザインもして、お店に並ぶさまを見るとやはりすごいと思った。玩具に限らないことだけれども、いろいろなものができていく一連の仕組みを見て、ものすごくおもしろいと思いました。そこから得るものは大きかったですね。周りも教えてくれるし、予算という概念も派生するし、お金を取るというリスクを背負い、責任感が出るんです。でも学校はやりたい放題やりきって大失敗できる場所なんだと思います。唯一の大失敗できる場所が大学の良さ。社会では大失敗すると、取り返しがつかないこともある(笑)。いろんな人がかかわってくるし、又そんなチャンスにめったに巡り合わないですから。つくるという段階の前に、企画の段階で落とされることも多々ありますし。でも少なくとも大学ではつくろうと思えばつくれるわけです。大自己満足において制作ができます。

白木:そうですね。やりたいことが充分にできる時間かもしれません。

鴻池:求めているものを時間も考えずにできる。食べて行かないといけないから、社会に出るとそれはできません。でも私は今それをやっているんですけれどね。(笑)

白木:後ほど伺おうと思っていたんですが、実際に玩具づくりって、作業工程がきちんと決まっていますよね。ストーリーがそこにはありますね。

鴻池:そうですね。自分の思い入れだけでなくて、一連のものとして洗練されていくまでの長い時間の人の手がかかわります。

白木:さらに完成した玩具は、自己主張ではなくて、コミュニケーションの手段として世の中に出て行きます。

鴻池:そうです。まったくブラッシュアップされて出て行きます。それに就職した玩具会社には素晴らしいデザイナーの先輩たちが働いていた。ある企画のデザインをしているときに、先輩から赤で自分のスケッチの上から直されたんですね。「がーん」ときたんですね。学校では人のスケッチの上から赤で直されたりはしないでしょう。せめて言葉で言われるくらいです。それをやられたときに「なんだ、この人は?」と思った。その先輩は今でも尊敬する先輩ですけれども、単純にすごくいいデザイナーで絵がうまかったんです。いいものをつくろうというところで、彼は私のスケッチを直したんです。その目的に向かっているだけで、絵自体に執着はないんです。それまで「私は、私は」、「私が好きなもの、私が好きなもの」って言っていたけれども、全然違う俯瞰した視点でものを見ることであるとか、目的があってそれに向かって考えるということを知りました。そいうことをどんどん教わっていって大人になりましたね。大人はすごいなと思いました。

白木:さらにその後、今度はミラノに行かれていますね。

鴻池:玩具会社の後にインテリア雑貨店の企画室に勤めたんです。雑貨の企画主任にさせられてしまって(笑)。芸大って就職する際には嫌われるか極端に好かれるかどっちかなんですよ。その時に、バブル時期だったので、店舗を作るときに有名なミラノの建築家やデザイナーを使おうということでそれの立ち会いに行ったんです。ソットサスなどイタリアの大御所のデザイナーのスタジオを見学するチャンスもありました。私も雑貨という小物からどんどんつくるものが大きくなって、家具になって、尻尾や耳の付いたソファーなど、形態的に面白いものをつくり始めました。この時期は予算が簡単に通るので、実験的な商品を沢山つくりました。でもデザインというものは社会との整合性をしっかりと考えて仕事をしなくてはならないですよね。椅子ならば安全に座れなければいけないし、形が美しく快適でないとならない。しかし、そこで置き去りにされる感情がやはりあるんですね。不安定だとか、だらしないとか、弱いとか、未成熟だとか、気持ち悪いとかなど、私にはふつふつと溜まっていったように感じます。その置き去りにされた感情が、しっぽがついた家具、耳がついた椅子というふうになったように思います。一応社会に商品は出していたけれども、デザイン概念だけでは落ち着かないものがありました。

04「絵画」への移行

白木:数々のデザイン賞を取られて、デザイナーとしての成功が確立するわけですが、ちょうど2000年のあたりで一変して絵画を描き始められますよね。

鴻池:雑貨屋をやめて、フリーのデザイナーになったのですが、そのときは複雑な思いがあったんですけれども、アーティストという概念は無かったですね、何かものをつくって出していければと思っていました。ちょうどその時期に、芸大で非常勤講師を勤めていました。その当時のデザイン科はとても元気が良かったんですよ。みんな気合が入って我儘な子たちなんですね。かっこいいことを言うけれどもひどい作品を山のように彼らはつくるんです。こんな作品をつくるなんて信じられないという思いでした。ひどい作品を山のようにつくる状況を見て、人がものをつくるって本当に不思議なことなんだなと思ったんです。

白木:どんな風にひどかったんですか?

鴻池:プロで仕事をしてる人にしてみれば、仕上げも汚いし、表現もなっていないし、コンセプトもないのに、理想を語ってる。でも、すべてが駄目なんだけれども、「それでもこの人はつくるんだ」ということの方がすごく印象に残りました。それくらい悪い作品もいい作品も量を見せられ講評しました。学生から受ける影響は大きかったですね。

白木:鴻池さんが歩まれてきたデザイナーとしては当たり前の世界ではありえない世界に遭遇して、改めてものづくりの原点を感じられたきっかけだったんでしょうね。

鴻池:ファッションでもなんでも、物の見方をいつも自分の視点に合わせないと、どこにおもしろいことが転がっているかわからないです。それは料理をつくることかもしれないし、子育ての中にあるかもしれないし、まったく考えられないところに潜んでいる可能性がある、だから楽しい普通の生活を送ってみてもいいじゃないかと思うんです。そこにおもしろいものがあったら、まずはのめりこんでしまえば良いと思います。それがいわゆる一般が言う、芸術っぽいという事じゃなくても。そういった意味では、私には目の前に在ることを単純にすごく楽しんできて、素直な視点で見つめられた自分がありました。ミズマアートギャラリーの三潴さんは私がアートに戻ってきたとおっしゃるけれど、私は「明日は何をやっているかわからないな」ってくらいのつもりです。潔さをもって執着しない、自分がつまらないなと思ったらあっさり捨てることも恐れずにやっていく。それほど、アートは素晴らしいものだと思います。

白木:『Knifer Life』(2000〜01年)は一年かけて描かれたんですか?

鴻池:あの作品は最初の作品につなげて描いたので、最初は2000年に描いたものです。その後、2001年に描いたものをつなげたんです。モルフェというアートイベントがあって、その展示には家具が進化したようなものを出していました。ギャラリーでやりませんかと初めて言われたときに、私は立体より絵画を描きたいと思ったんです。ギャラリーというきちんとしたスペースがあることで、そこに乗っかれるような気がしたんです。短時間で描くのではなくて、何か重さがあるものを描こうと思ったんです。そういう意味でギャラリーの存在ってアーティストにとって大きいんだなと思いました。なんてことのない箱なんだけれども、ギャラリーでデビューするということで、なぜか初めて「絵を描かなきゃ」と思ったんです。なんだか気負いみたいなものがあったように思います。

白木:描くということはある意味、鴻池さんにとっては原点回帰みたいなところがあったんでしょうか。そのときの表現媒体には何かこだわりはありましたか?

鴻池:意識はしていないです。ぺらぺらな紙に書いても耐えられないなと思いました。私の考える「絵画」というのは、もっと絵具のボリュームがあってきちんとペイントされていないと駄目なんです。でも、私はどうしても鉛筆で書きたかった。紙では私の感情を受け止めるだけの強さがないので、キャンバスを張って、ジェッソを塗ったうえに鉛筆で描き込む方法をとりました。誰が見ても隙がない「絵画」の支持体というボリューム感と、繊細な鉛筆の線ががっちり組み合って、自分のやりたい画材と技法との整合性がとれ、作品がやっと絵画になった感じがしました。新しい鉛筆の表現ができたという感じでした。モノクロームは何も描かない余白の白が大事だから、紙ではなくもっと強い素材感があるものでなければならなかった。鉛筆は強いけど、弱いから、鉛筆の強さを誰にもわかって貰えるようにペインティングとおなじように見せたかったんです。紙と鉛筆というゴールデンカップルを一度破棄して、新しい鉛筆のパートナーとなる素材をつくるわけですから、下地をつくる方法には時間をかけました。早くできるんだったら、早い方がいいですよ(笑)。すでに出来上がっていて画材屋に売っているんだったら、もちろんそれを買いますけれどもね(笑)。そういうところにはあまり苦労はかけないですね。

白木:制作過程というよりも出来上がった自分の表現が大事だということですね。

鴻池:みなさんに「ドローイング」じゃなくて「絵画」だと思わせることが、私にとってはこの時は重要なことでした。いろいろ鉛筆画を見てきましたが、やはり紙に描かれていてそこから感じるのは繊細という言葉だけなんですね。紙ということから抜けだせなくて、もうひとつ違うステージに上がりたいというイメージがありました。「ナイファー・ライフ」のときは、きっとプレゼンする素材やアイデアが期を熟して集結したんです。モチーフのことを言えば、ナイフが出てきた瞬間というのは、図書館で思い悩んでいるときに「あっナイフ!」という偶然な感じでしたね。未だに覚えています。

白木:そんな偶然の出会いだったんですか?

鴻池:最初のイメージは雲のような霧のようなものが画面の中に蠢いているだけだったんです。だから、ドローイングのときはただのグレーの線が取り巻いているように描いていました。次に思い悩んだときに「ナイフ」と出会ったんです。

白木:ナイフとか少女とかのモチーフの影響からか、女性的な部分での批評が多いかと思います。ですが、鴻池さんの作品が語る「物語」から感じるのはもっと根本的なもののような気がします。それは個人によって感じ方は違うでしょうし、日によって変わるもののように思います。

鴻池:そうです。人によって違います。

白木:その不特定多数な部分が私はおもしろいなと思います。2000年の同時代的な感覚のなかで、すごく共感が持てるように思ったんです。

鴻池:なんだか、自分のことになってきたんです。つまり私はアウエィでアートを人ごとのように語っていたことが、ギャラリーで作品を展示し売るということで多くの人を巻き込み、嫌がおうにも責任が芽生え、人ごとではなくなったんです。もともと気軽でいたいから中心から逃れて適当でいたいタイプだったので、なんだか変な感じがありました。そう意味では、ギャラリーで作品を発表することで大人になり、仕事としてアートを考えることができるようになりました。しっかりしなきゃと思いました。「明日止めてもいいよ」と言いながらも、もはや人ごとではなかった。人に与える影響も大きいですからね。パブリックに出すときにはきちっとした形でプレゼンテーションをするというデザイン概念は作品でも何でも同じですね。そういう責任感がやっとでてきたんですね。


KniferLife 2000-2001
© Tomoko Konoike

05「絵画」とは本当におもしろいもの

白木:絵画がとてもおもしろくなってきたという感じがしています。鴻池さんにとっての絵画はどうですか?

鴻池:私は新しいもの好きですから(笑)。わかったら飽きちゃう。「次何して遊ぶ?」と探しているところはあります。

白木:でもずっと描かれていますよね。

鴻池:そうです。でも絵は続いている。絵というよりもモノをつくり続けています。それは映像だったり、絵本だったりするわけだけれども、人より飽きっぽい私が続いているということは相当「絵画」というものはおもしろいものなんだと思います。それは言えると思います。しかし、おもしろいということはすごく危険をはらんでいます。「物語はおもしろい」と好きなように語ってもらって良いと言っていますが、「物語性だ」「絵画だ」とか言っているときっと大きな落とし穴がパックリ口を開けて待っていますよ。アートはそういうスタイルにあるのではないですから。まだまだ乗り越えなければならない未解決な課題があります。具体的なことではうまく言えないのですが、この思いを「次の遊び」でしなければと思っています。楽しく見ることは大事だと言っているんですけれども、それがアートという流れとして、確実に次の手になりえるものかどうかは、つくる側が一番の鑑賞者として客観的に自分の作品に興奮していかなければなりません。それはいつも難しいと思います。

白木:「物語られる」ということなんてまさにそうですね。単にそう言ってしまっていいのかという思いはありますね。

鴻池:物語れることはすごく楽しいし、そういう展覧会は増えていて、これから世界でも増えていくと思います。服の流行のようにどんどんと飛び火していくことと同じで、オーディエンスの力って必要なんです。夢の中に浸っているものをアーティストとして提示できて、現実化していくことが必要だと思うんですよ。またきっとそれを言語化する人はいると思いますが、出会ったら言葉を失うような作品の出現を待ち望んでいます。だからこそ気が重いんですけれどもね。

白木:鴻池さんを取り上げる僕の修士論文の章の中ではまさにその現実化するリアリティという過程を取り上げようと思っているんです。リアリティだと思うことと戦うリアリティってあると思うんですね。それを幅広く感じることがアーティストのひとつの強みになるのではないかと思うんです。

鴻池:私の絵だけを見ると、かまととが幻想の中で夢見てるように見えると思うんです。確かに絵を描いているときはそうかもしれません。すごく護られた世界の中で、非人間的で冷徹で無邪気で透明でいるような、そういう感覚があるように思います。しかし一旦作品が完成し公に露見すると「これは良いよね」という人と、「良くないよね」っていう人が同量います。そのまったく違う感情のいったり、きたりというのが非常に大事なんです。2チャンネルのような世界が実際の社会にはありますし、社会にさらされるということで、勿論怖いですよ。だからといって、理論武装して、たまたまヒットして楽しかったということではなく、もっともっと自分から生み出されるものに素直で貪欲でありたいですね。

白木:何かを表現し、それを発表するということはとても怖いことだと思います。しかしそれこそ表現だと思います。

鴻池:怖いですよね。私もそこがあったから責任逃れとか、私がやるべきことは「アートではない」と言っていたのかなと思います。ステージを与えてくれたということは後ろから後押しをしてくれたという感じなんです。ギャラリーで展示できたということは、スタッフと一緒に急行列車に飛び乗った感じです。
(白木栄世 テープ起こし・編集)


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