大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ | 福岡アジア美術トリエンナーレ | リヨン・ビエンナーレ
国際展都市論―ユートピアのインスタレーション
「横浜会議2004-なぜ国際展か?-」というシンポジウムが、2004年12月4日にBankART1929 Yokohamaで開催された。2005年第二回横浜トリエンナーレのディレクターに任命されていた磯崎新(建築家)、大地の芸術祭―越後妻有アートトリエンナーレの総合ディレクター北川フラム(アートフロントギャラリー代表)、ヴェネチア、台北ビエンナーレ・コミッショナー経験者南條史生(森美術館副館長)、イスタンブール、上海ビエンナーレ・コミッショナー経験者長谷川祐子(金沢21世紀美術館学芸課長)といった豪華な顔ぶれで、私がモデレーターを務めた。
このシンポジウムは多摩美術大学芸術学科文化演出コース建畠ゼミの主催で行われた。建畠ゼミとムサビの岡部ゼミは、2003-2004年にかけて2回にわたり合同ゼミを行い、その折にも国際展の話題が出た。シンポジウム開催趣旨は「国際展の是非」にあり、次回行われる横浜をメインテーマに討論が行われる予定になっていた。
だが2日前ぐらいに、シンポジウムで磯崎氏からの降板にかかわる爆弾宣言があるらしいという話を聞いた。具体的な内容は会場での磯崎氏の発言まではだれも知らなかった。シンポジウムは当然、磯崎氏の二つの構想案をめぐる論議に終始することになったが、ここでは本来の「国際展の是非」にかかわる事項について、シンポジウムで触れた私自身の考えを簡単にまとめておきたいと思う。
他大学を含めた美術史研究者の方々と3年間、「観者・展示・鑑賞―受容の美術史」という科研を続けており、個人的には「国際展」をテーマとして、できるかぎり見て回ることを自らに課した。現在30、40、おそらく小型のものを含めれば70ほども存在すると言われるビエンナーレやトリエンナーレなどの国際展。いったいその流行の理由は何なのか。それを知るのがリサーチの主目的であった。
パリに長年住んでいたので、若い頃から定期的にヴェネチア、ドクメンタ、ミュンスターなどを見るのが習慣になっていた。日本三大国際展(浜トリ、妻有、福岡アジ美トリエンナーレ)以外では、光州、上海、台北、バングラデシュ、シドニー、サンパウロ、イスタンブール、ハバナ、ベルリン、リバプール、セビリア、リヨン、ヨーロッパ各地で開催されるマニフェスタなどを訪ね、主催者やアーティストとも議論を重ねた。
国際展を一言で定義するなら、国際性に富む現代アートの大展覧会とでもいう他はないが、それが比較的小規模の都市でも開催され、とどまることなく広がってゆくこの「国際展モード現象」の背景はいったい何なのか。
シンポジウムで磯崎氏は、万博、美術館と続く歴史の延長線上に現在のグローバルに広がってゆく国際展を位置づけていた。シンポジウムでは司会という立場上、明らかな異議は挟めなかったが、国際展はむしろそれとの断絶の歴史、あるいはパラダイムの組み替え(脱構築)の歴史だと私は思っている。たとえばロンドン、パリ、シカゴなどを舞台に繰り広げられた万博の開催や美術館博物館の創設といった、資本が集中する首都型の国威高揚を基盤としたイベントや施設建設とは異なるパラダイムに立脚しているという理由のためだ。ビエンナーレの本家といわれるヴェネチアの場合、ビエンナーレが創設された19世紀末には、かつて海運で栄えた都市国家の栄光も薄れ、ヨーロッパの政治地図から見ればマージナルな都市になっていた。そして第二次大戦の敗戦国ドイツで開始するドクメンタの地カッセルも、由緒ある美術館の歴史をもっているとはいえ、ベルリンやケルンとはほど遠い小さな町だ。また1951年にラテンアメリカ初のビエンナーレを始めたサンパウロは、人口からいえば東京を越える巨大都市だが、第三世界というネガティヴな地理の真っ只中にある。
一方、ニューヨーク、ロンドン、東京は「世界都市」とみなされ、そこでの金融取引が8割から9割を占めるといわれる今日、資本主義社会の成熟と加熱による金融や情報をめぐる大資本の蓄積と偏り、そうした偏向がもたらす問題が、90年代後半以降、だれの目にも歴然となった。ニューヨークでは、ホイットニーバイアニュアルが開催されている。人種の坩堝合衆国の特徴からしてコスモポリタンな人選となってはいるが、範囲は米国のみなので、国際展の範疇に含めないとすれば、ニューヨーク、ロンドン、東京といった三大世界都市では国際展は現在開催されていないことになる。かつて、パリでも東京でもビエンナーレが行われていた時期がある。しかし80-90年代にともに中断、廃止に至る。それはまさに、三大世界都市におけるグローバリゼーションが露になってきた時期と符号する。
パリや東京で国際展が消えた頃、世界都市を舞台にグローバリズムやグローバリゼーションが加速しはじめ、まさに同時期から、アーティストたちは美術史の先陣争いに興味を失い、地球規模のパワーポリティクスや環境破壊などへの危機感を表明する作品を意識的に手がけはじめた。国際展という発表の場の広がりが、そうしたメッセージの実現を可能にしたという相互作用も忘れてはなるまい。地域の人々とのワークショップや参加型アートが急速に普及してゆくのも、共感として体感として、こうした意識が草の根的に浸透してゆく有効なメソッドのひとつとなったからだろう。
90年代後半から現在に至るまで、世界の津々浦々で国際展が加速度的に急増しているのは、よく言われているように、町起こしといったローカリズムの流行だけではあるまい。それは、現在、地球に生きている私たちが日々共通に感じている現実のグローバリズムへの「アンチ」であり、国際展という時間限定の仮設にすぎなくても、「触れられるユートピア」の実現のためだ。実験的にでも「未来」への突破口をヴィジュアルに開いてくれるコミュニケーションの場を、世界の人々が希求しているためだとしか私には思えない。
こうした視点に立って横浜を見てみよう。355万という巨大な人口をもつ大都市だが、実際に調べてみると、アーティストやデザイナーで横浜在住者は驚くほど少ない。まさに資本と情報が集中する東京に剥奪されている構図が浮かんでくる。こうしたマイナーな位置にあるからこそ、横浜で国際展を開催する意義があるのだ。この位置は、欧米に対するアジアというマイナーなアートの場を視座しつつ、極東のさらに日本の端の九州で開催されるアジア美術トリエンナーレや、語るまでもない過疎の越後妻有アートトリエンナーレにつながる「立ち位置」である。
それゆえにこそ、世界の人々に届くメッセージを送り出せる新たなる場の形成が可能になる。なぜならそのとき、横浜は東京に対する「アンチ」の立場で、価値の逆転の夢を実現することができるからであり、まさにそのとき、横浜は世界の「ユートピアのインスタレーション」を担うことになるからだ。シンポジウムで「浜トリを万博にしてはならない」と発言したのは、こうした意味である。
今回はシンポジウムでの発言を補う形でまとめたが、国際展をめぐるアートとメッセージの変容、観客とのかかわり、コミッショナーやオーガナイザーのグローバリズム社会での階層的位置づけなど、詳細な理論的展開は、「観者・展示・鑑賞―受容の美術史」の科研報告書(2005年3月刊行)、及び2005年4月に武蔵野美術大学出版局から刊行される『アートを知りたい 本音のミュゼオロジー』をご参照ください。
(岡部あおみ)