culture power
artist 杉本博司/Sugimoto Hiroshi
contents

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Copyright © Aomi Okabe and all the Participants
© Musashino Art University, Department of Arts Policy and Management
ALL RIGHTS RESERVED.
©岡部あおみ & インタヴュー参加者
©武蔵野美術大学芸術文化学科
掲載情報の無断使用、転載を禁止致します。

インタヴュー

杉本博司×岡部あおみ

日時:2006年6月4日
場所:ニューヨーク、チェルシーのスタジオ

01 アートシーンではなくカルチャーシーン

岡部あおみ:杉本さんはニューヨークに来てすでに何年くらいになりますか。

杉本博司:N.Yは1975年に来たから、32年。その前に3、4年カルフォルニアにいたので、70年からアメリカにいるんですよ。

岡部:アメリカがアートで一番輝いている時期も知っているわけですね。

杉本:70年代のいわゆるカウンターカルチャーの名残りみたいな時期で、ウッドストックがちょうど一年前、ビートルズが解散する時に来たわけだから。

岡部:最初はなぜカルフォルニアに?

杉本:フラフラ流れ着いたんですよ。それでなんか知らないけど、ドラッグカルチャーとかすごくおもしろいことが起こってそうだっていうんで、現場検証をするためにしばらくいないとわからないと思っていたのが運のつき。それでとりあえず学校に入るのにアートスクールなら入れるっていうんで、入っちゃったんだよね。

岡部:東京の立教大学で経済を勉強なさっていたときは、別にアートと関係なかったんですか。

杉本:全然関係なかったですよ。でも広告研究会という変なヤワイ会に入ってて、だからコマーシャルアートとかそういう写真みたいのはやっていたんだけども。当時は広告のほうがアートの先を行っていた感じがあります。

岡部:すでに当時から写真を撮ったりもしていたのですね。

杉本:写真は高校の時写真部に入っていたから、まぁ中学の時から自分でほとんどマスターしてたし、暗室も中学入ってすぐ12歳のときから持った。

岡部:珍しいですね、その頃から自分で暗室を持っていた人は少ないでしょう。

杉本:出入りの大工さんに無理矢理押し入れを改造して作ってもらったんだけど、こっちにきて写真を勉強しましたといっても別に全部知ってることをやってるだけで、技術的には何かを教えてもらったとかはなかったですね。

岡部:ただ写真とアートシーンとのかかわりなどは、日本にいたときにはあまり分からなかったでしょうね。

杉本:カルフォルニアにいたときはアートシーンじゃなくてカルチャーシーンに興味があって日本にいたときも学生運動の時代だったから。
杉本博司
チェルシーのスタジオで
photo: Aomi Okabe
杉本博司
Polar Bear 1976
©Hiroshi Sugimoto
Courtesy Gallery Koyanagi

02 熱気の中での経済学

岡部:学生運動をなさった方だったのですか。

杉本:どっちかっていうとそうだけど、立教の経済学部はマルクス経済学だったからね。いやまぁでも過激派に入るだけの度胸というか度量はなかったからなぁ(笑)。

岡部:でも友達とデモに行ったりはしてたんですね。

杉本:ベ平連のデモに参加してた。ベ平連に入っていると、他のセクトに囲まれても別にやられないわけ。デモの最初に「行動定義」というなんで我々が今立ちあがらなくちゃいけないかという演説をするんだけど、それを聞きたかったから、一応、ベ平連という形で行けば、まぁどこの集会に行っても排除はされないのね。当時は、青い若者達がガーッと熱気を持っていたから、煽られるっていうか、すごい雰囲気だったでしょ。そういう中で西洋的な哲学史的な形でマルクス経済学をやろうと、ヘーゲルとかフォイエルバッハとか、一応、筋を通した所を読まなくちゃ理解しなくちゃって読んだから、それは非常に役に立った。社会のこれからの主流になりそうな雰囲気もしてたけども、僕は実際にはちょっと違うんじゃないかという懐疑的なところもあった。
杉本博司
Cabot Street Cinema, Massachusetts 1978
©Hiroshi Sugimoto
Courtesy Gallery Koyanagi
杉本博司
Sea of Japan, Oki 1987
©Hiroshi Sugimoto
Courtesy Gallery Koyanagi

03 東洋神秘主義への違和感

岡部:カリフォルニアではヒッピーみたいな感じで、もう少し世界を見てみたいという思いで滞在していたわけですね。

杉本:フラフラ世界を旅する若者って感じで流れ着いたのがカルフォルニア。今度は東洋神秘主義ばかりで驚いたけど、日本にいるとそれは全然理解出来ない。みんなからいろいろ聞かれるわけね。おまえは悟っているかとか、そのときに吉福伸逸という人がバークレーのサンスクリット研究で大学院にいて、インド哲学を勉強していた。元々は早稲田のジャズのミュージシャンだったけど、こっちに来て転向した人の一人。それで東洋神秘主義の基本、仏教的な哲学などをザザザッと大急ぎで自己流で消化したのね。

岡部:海外に行った日本人の多くが、わりと同じような経緯を辿りますね。日本や東洋のことを聞かれるから、勉強しとかなくてはとなる。日本だと聞かれることがないし、むしろ異文化について日本の友達に教えたい、新しい思想を知りたいとなるので、逆に西洋の勉強ばかりすることになるけれど。だから日本にいるからといって日本のことを知っているとは限りません。

杉本:普通の人は全然知らないですよ(笑)。
杉本博司
Sea of Buddha 1995
©Hiroshi Sugimoto
Courtesy Gallery Koyanagi

04 コマーシャルよりもドラッグカルチャー

岡部:カルフォルニアに3年いてから、ニューヨークに移られたのですね。概念的に日本や東洋哲学の勉強もしていたわけですが、それで何かしたいという気持ちはあったのでしょうか。

杉本:一応単位が取れたから4年にいかないで3年で卒業しちゃって、作家として生きてこうなんて全然思ってなくて、食っていくにはコマーシャルとかやるのかなとか思ってニューヨークに出て来たのね。当時のロサンゼルスのアートシーンは、ほとんど知らなかった。アーティストではエドワード・ルシェとかいたはずだけど・・・デザイン学校みたいなところだったから、ファインアートにはそれほど強くなかった。しかもドラッグ体験ばっかりで忙しかったから、そっちの方にあんまり気がいかなかった。(笑)

岡部:ドラッグ体験、おもしろかったでしょうね。私はパーティで回ってきたハッシシ以外、体験していませんが。(笑)

杉本:LSDとかのドラッグ体験は真面目にやったつもりだけどね。ようするにあんな小さな物質が、体の中に入ることによって自分の意識がどれくらい変わるかというのを自分の身をもって実験してみたわけです。これは勇気がいりましたが重要ですよ。いわゆる神秘体験を得ようと試みることで、どんな原始的な宗教でも幻覚性植物などを利用して宗教的な体験をさせるというのはあるわけで、中沢新一もそういうことをやってきたからああゆうことになったわけだし(笑)。それの一番悪い例が、まぁオウム真理教みたいなことだけど。

岡部:中沢さんとはお知り合いなんですね。中沢さんの著書と、この前杉本さんが出版された『苔のむすまで』という本に近い所があると言っていた友人がいます。

杉本:彼の『アースダイバー』とか。共通の友人はいっぱいいましたが、彼とは結構最近知り合って、ここ2、3年で何回か対談もしたし、日本の縄文の文化がどうだったということなど、また古代人のメンタリティーとかの問題で共通の興味はありますね。世代的にも近いんですよ。吉福伸逸は、彼とも友達だから共通の友人だし。

05 写真家としての始まり

岡部:ニューヨークに出てきて、仕事をいろいろ始められたわけですよね。

杉本:まずコマーシャルの写真家かなんかのアシスタントを探してやったんだけれども、2、3日しか続かないでクビになっちゃうわけ。雇い主を批判するからいけないんだよね。

岡部:生意気だって言われますよね。(笑)

杉本:生意気すぎて(笑)。こっちの写真家を批判しても仕方ないんだけど。そうこうしているうちにニューヨークのアートシーンで、ドナルド・ジャッドの展覧会を見たりして、ショックだったね。こんなのでいいの?面白いことを考えて手先が上手けりゃいいんだっていう感じ(笑)。

岡部:(笑)。その頃から、ミニマル・コンセプチュアルの潮流で、自分の写真をどう表現したらいいのかと考え始めたのですか。

杉本:写真は当時まだ新しいメディアだったから、なかなかそうした方面では手つかずの状態でしたね。写真家のアシスタントより、カルフォルニアからワーゲンのキャンピングカーで来て車をもってたから、いろいろな写真家のためにモグリのロケーションバンサービスをやることにした。安いカタログの撮影とか、1カット50ドルとか60ドルとか無茶苦茶安いファッションの仕事で写真を撮るような人たちがいっぱいニューヨークにいるけど、そういう人たちはちゃんとしたロケーションバンは高くて借りられない。モグリのロケーションバンサービスで1日75ドル。保険には入ってません(笑)。家賃は125ドルだから、週に2、3回その仕事をしてれば食べていけた。それで、撮影につきあって行ってもやることないから1日中、本読んでいればいいだけだから、読書欲にも燃えてたし、勉強をしながら稼げる方法を見つけて、1年以内に「ジオラマ」シリーズとか、「劇場」シリーズも撮れたし、自分の作品のコンセプトもワーッと広がって、始まったわけ。
杉本博司
Seagram Building 1997
©Hiroshi Sugimoto
Courtesy Gallery Koyanagi
杉本博司
Anne Boleyn 1999
©Hiroshi Sugimoto
Courtesy Gallery Koyanagi

06 「ジオラマ」シリーズの背景

岡部:ニューヨークの自然史博物館で「ジオラマ」シリーズを撮り始めたとき、許可をとるのに、博物館の人たちにはどう説明したんでしょう。ご自分の作品にすると一応言ったのですか。

杉本:最初は、テストで撮ってみなきゃわかんないから・・・まずパブリック・リレーション部に電話して、アーティストで写真撮りたいんだけどって言ったら、普通のツーリストはみんな撮ってるからコマーシャルじゃなきゃいいですよと言うわけ。だからそれを盾にとっていかにも許可をもらったような感じで、結構大掛かりにテントみたいのまで立てて撮影した。

岡部:博物館が閉館してるときにでしょうか。

杉本:違う違う。人がいるとき。2、3回撮ってうまくいくことが分かったけど、このままではまずいなということになって、もう一回ちゃんと正式に許可取って、三脚立てて撮影した。最初にジオラマを撮って、シロクマとハイエナが撮れて、ポートフォリオがまとまって、これはなかなか自分でもいいんじゃないかなと思えるクオリティになったので、MOMAに持っていって、当時の写真部のキュレーターのジョン・シャーカフスキーに見せたのね。

岡部:彼の反応はどうだったのかしら。

杉本:当時は、無名でもポートフォリオをMOMAに木曜日に持って行って、置いとけば見てくれるので、コメントは全くしないけど、次の木曜日に取りに行けば返却してくれるっていうシステムがまだあるときだったので。

岡部:パッパと見て、面白い人にはコンタクトしたりするのかしら。

杉本:そういうこともほとんどないらしいんだけど、でも一応その窓は開けておくっていうことじゃないのかな。そして一週間ぐらいして取りに行ったら、シャーカフスキーが出てきて、面白いじゃない、買いたいんだけど、いくらって聞かれた。買いたいって言われたって一回も売ったことがないんだから、値段つけてくれって言ったら、まぁ若いから500ドルでいいんじゃない?って言われた。家賃が125ドルとかだったから、500ドルって大金ですよ。

岡部:1ドルが360円のころかしら。もうびっくりして、売ったわけですよね、当然。

杉本:いや、ちょうど切り替わる頃で250円くらい。で、どうぞどうぞって(笑)。ところが帰りがけに書類渡されて、「これはちゃんと会議を通さなくちゃいけないからまだ決まったわけじゃないのよ。それに普通のアーティストが作品を売る場合って5割引なんだけど。」って言ういやーなおばちゃんが出てきて、250ドル値切られちゃった。(笑)

岡部:(笑)。それにしても、初めてのコレクションの250ドルはすぐにもらえたんですか?

杉本:うん、初めて買ってもらって、1ヶ月くらいで支払ってくれたと思う。そのとき考えていた生き方としては、とにかく一番上からあたって砕けろ。画廊まわるんだったら一番いい画廊に持って行って、だめだったらどんどんどんどん降りていけばいい。普通は気後れして、下からやっていくけれど、相当生意気だったんだろうね。

07 全部が繋がっている

岡部: MOMAが最初に評価してくれて、それから、どこの画廊で初個展をなさったのかしら。

杉本:4年間ぐらいは個展が出来るほど作品が溜まんなかったけど、南画廊で1977年にやったのが初個展かな。彫刻家の三木富雄の紹介で、ニューヨークのアーティストの中では彼と一番仲良くて、ほんの1年にも満たないくくらいだったけど、かなりベッタリ一緒にいたね。じつはドラッグ仲間で(笑)、でも僕よりもひと回り上だった。ニューヨークに移ってきたら、日本人村、シマみたいのがあるわけだよ。荒川修作は時々来てたけど、河原温は一人だけちょっと離れていた。

岡部:河原さんは三木さんや篠原有司男さんと親しかったんのではないかしら。三木さんの60年代の友達の篠原さんとも、杉本さんは親交があったのでしょうね。

杉本:だから篠原有司男のロフトに出入りするようになって、毎日酒盛りしてるわけ。日本語しか話せないのだけれど芸術論とか。ほとんど芸大出てて、日本の芸大の続きで、毎日ベロベロになるまで飲んで芸術論と称するものをやってるわけ。最初は面白いかなと思って行ってたのね。でも半年も付き合ってるうちに「あ、日本の芸大卒業レベルってこんなもんか」って思った(笑)。三木富雄とは気が合ったから、もう一人三木富雄が転がり込んでいたヒューイナヨという女性アーティストと三人で、一緒にコンセプチュアルな作品を作ろうと、三木が耳の生える羽を粘土で作って、作りながら壊していった。彼女がドローイングを描く、三木富雄としては彫刻に羽がはえて飛び去って消えてしまうというコンセプトだった。彼も耳のみ評価されていきずまっている感じだった。そしてその過程を僕が写真撮って、南画廊で発表しようという計画だった。

岡部:で、本当に三人展、なさったのですか?

杉本:実際に写真は三人の共同作品として完成した。三木富雄は南画廊で個展やるんだっていってたけど、出来なかった(笑)。しかし三木富雄がその作品を清水さんに見せた時、僕の写真は面白いという記憶が残っていたらしく、久しぶりに帰国した時にポートフォリオを持っていったら、李禹煥と清水楠男さんが応接室に居て、二人が僕の作品を一緒に見始めた。そうしたら清水さんの目がらんらんと輝いて、面白いじゃないか、個展やろうということに急になった。2週間後に3週間空いてるって言われて、じゃあやりますといってオープニングしたけど、知ってる人なんて一人もいないから、僕の友達ぐらいしか来なかった。

岡部:そのときに出品なさったのが「ジオラマ」だったのですか。

杉本:「ジオラマ」も映画館も両方あって、仏教的な作品、般若心経を拡大したような変わった作品は、そのときしか出してない。

岡部:目が光った南画廊の清水さんは何か買ってくれたのでしょうか。

杉本:いや、それで2点しか売れなかったのかな。最初に買ってくれたのは評論家の東野芳明さん。その東野さんが今度は、ニューヨークのゾナベンド画廊を紹介してくれて、全部繋がってるわけね。三木富雄はそれから1年も経たないうちに京都で、ドラッグの注射のやりすぎで心臓発作で死んじゃって、清水さんもそれから1年くらいで亡くなった。あのグループの中で、三木は一番まともっていうか面白くて、荒川修作なんかよりよっぽどいいと思うよ。

岡部:本当に、二人とも早く亡くなって残念ですね。すごく惜しいと思いました。

杉本:清水さんなんかも惜しかったよね。ちょっと早すぎたなぁ。

岡部:日本では現代美術の画廊の草分けだったし、惜しいですね。日本のアートマネージメント的な面から見ると、南画廊がやろうとしていたことと、当時実際にやれることの間にギャップがありすぎたのかもしれないですね。日本には今でもまだこうしたギャップがありますけれど、コレクターも増えてきたし、今はみんなが頑張っていますから、アートマーケットの状況はずっと良くなってきています。

08 常にモノに振り戻される

岡部:杉本さんはそれからずっとニューヨークで活躍なさってるわけですが、ニュ−ヨークの変化についてはいかがでしょう。

杉本:ニューヨークは10年ぐらいでどんどん変化する。だいたい10年サイクルでまわっていて、不況のサイクルが10年単位っていうのと同じような感じ。だから70年代に僕がきたときはミニマル、コンセプチュアルだったけど、80年代になったら今度はイタリアのサンシー(3C:クッキ、クレメンテ、キア)など表現主義的にまたガラッと変わるわけ。

岡部:80年代のニューヨークではジュリアン・シュナーベル、デイヴィット・サーレがでてきて、一斉にペインタリーな具象絵画の世界になりましたが、また90年代になると、ネオジオだとか、ジェフ・クーンズが登場しましたね。フェミニズムの流れで女性の作家や写真家も出てきます。

杉本:それから変な写真のブームがあったけど、今や写真も終わって、今は一体なんだろうって感じだね。

岡部:4、5年前から、またペインタリーに戻ってますね。

杉本:そうだね。だから物質的なモノに常に振り戻されてるわけ。観念的になるかビジュアライズされるかというのは大枠の波で、それ以上はどこか行き詰まりみたいな感じはするけど。  
杉本博司
Mathematical Form : Surface 0004
Onduloid : a surface of revolution with constant non-zero mean curvature 2004
©Hiroshi Sugimoto
Courtesy Gallery Koyanagi

09 アートの純粋性を奪った市場のメカニズム

杉本:お金と文化の関係はもう昔からいろいろあるけれど、コマーシャリズムがはいってきたおかげでアートの純粋性はもはやどこにもない。なんでも買えるし変なものに高値がつく。リチャード・プリンスのあのマルボロの広告の作品が、なんであんな値段なのかってへんでしょ。

岡部:特にニューヨークを中心としたアート界の動きは、コマーシャリズムとますます一体化している感じです。今、リチャード・プリンスがどこのオークションにも出ていて人気があり、すごいですよね。この5、6年っていうか、最近急になんだそうですね。以前はそんなに高くなかったし、ほとんど売れない時期もあったと聞いてます。彼の作品はヴァラエティに富んでいる分、ひとつひとつが全部うまくマーケットに入って、大衆的なモチーフなので、マーケットの大衆化とともに買い手がぶわぁーっと増えたようです。杉本さんはプリンスと同じくらいの世代ですよね。

杉本:そう。あれはただのアメリカのカウボーイのセンチメンタリズムを売りにしてるとしか僕には思えないけど(笑)。それが一般的に低次元でうけるからマーケットが自動的に反応して、ようするにお馬鹿さんの買い手がいっぱいいるからっていうことだけじゃない?

岡部:マーケットの需用が高まってくると、作品が変わってくるということもありますよね。でもマーケットのメカニズムってどうなっているのでしょうか。杉本さんの写真の値段も急騰してますけれど、とくに「海景」や「蝋人形」シリーズなど。

杉本:マーケットの動向というのはそういうもので、孤高の作家なんていないと思うよ。価格とかの情報も公開されちゃってるし。経済の仕組みと全く同じですよ。マルセル・デュシャンが面白いと思うのは、「モンテカルロボンド」という冗談みたいな作品を作って売ってたじゃない。あれは今の状況を予測してるような感じだよね。アートのボンド化だから、僕もそれじゃあ「杉本ボンド」を作って、5年後に作る予定の作品を今から買えますよって言ってみようかと。オレンジの来年の収穫を売るのがマーケットだから、それがどういう予想になるのか、不作になったら値段は上がるし、豊作になったら暴落するし。将来を買うのが資本主義の原則なので、経済発展の原理は年間のGDP、国民総生産が年に4、5%必ず拡大することが絶対必要で、その将来の利益を分け合うための賭けみたいなことをやるのがマーケット。でもこれは自己矛盾してて、永久に経済が拡大していったら地球は爆発するか破産するに決まってるわけだし、環境問題や資本主義もネガティブ要素だから、人口問題だってこれ以上どんどん増えてったらどうするんだと思うよ。日本の人口は一人の女性が産むのが1,3人になったって、僕はいいことだと思うんだよね。

岡部:そうですね。日本は小さい島だがから、人口密度からいえば、すでに人口はそう少なくはないですし(笑)。

杉本:ポスト資本主義のモデル、人口を減らし分母を小さくして一人当たりの生産力を増やしていって、でも社会全体では総生産量を減らす方向に持っていくというモデルを考えるべきだと思う。資本主義に代わる社会主義の原理を19世紀にマルクスがこれは素晴らしいんじゃないかと考えて、みんなも素晴らしいと思って20世紀にかけて実験したんだけど、この100年の実験は完全に失敗だったよね(笑)。

岡部:それがとても残念です。ただ中国は資本主義に猛進しつつも、それなりに実験を続けていますね。人間の欲望をどう消化するかが難題だけど。

杉本:中国と北朝鮮の方が理想主義かもしれないけど、社会主義の枠を崩さないでいかに行くのか。資本主義は放っておくのが1番だっていうアダム・スミス以来の典型をずっとやってきちゃってるわけだから、神の見えざる手なんてことをまだ言う人がいて、それで確実に終末に向かって奈落に落ちていくしかなく、社会主義や共産主義以来、輝くような人類の英知や人間にこんなに知恵があるんだっていうのはもう出てこないんですよ。

岡部:出てこなくなりましたね。何故でしょう。やはりマーケットシステムなど資本主義に根ざした営利主義や貨幣中心のメカニズムが、あまりにもすべてを覆い尽くしてしまったからでしょうか。

杉本:ヨーロッパ人が持っていた自由平等というフランス革命の理念は、啓蒙主義であり理想主義で、美しい、絵に描いた餅みたいなフランス革命はとんでもない人殺しに繋がっちゃったりする。それと同じように資本主義も理想も、結局は階級社会の上に成り立っていて、人が人を搾取することで、富む人と最低限の人権もないようなアフリカ大陸や中国の奥地に住んでいるような人がこき使われて、その利益や余剰利益は全部その金が買い吸い上げるというシステムになんだよね。底辺にいる人たちは搾取されている意識もないし発言権もないし政治意識もないような人たちで、トップのハーバードのビジネススクールを出たような人間は、搾取するシステムの一番頭のいい所を牛耳っているんだね。だから人間は他人の富と搾取という根本的な命題を解決してなくて、奴隷制社会から一歩も出てないと思う。ポストモダンの議論も結局こうした問題の決着をつけられないまま、風化しちゃってるわけじゃない。

岡部:例えば、現代アートの価格の急騰など、特にここ4、5年のアートブームはどうこの資本主義の問題と結びついているんでしょう。たんなる階級格差だけではなく、70年代や80年代に比べると、大衆の豊かさが広がってきたことも背景にあると思うんです。たとえば、8千万人の中国の中流階級が数年で達成されたように。ニューヨークに来て思ったのは、ある意味、世界のトップの10人の大金持ちが世界の富を牛耳ってる所があるとしても、同時に中産階級の人たちが文化的な豊かさを蓄積してきた面もあると思います。だけどもちろん下層の人たちを見ると差はどんどん開いているわけだけども、そうした大衆の豊かさの中に、日本もそうですが、アートがある種の必需品みたいな形で入りつつある感じがします。ただ問題はアートが大衆消費社会の商品として組み込まれてしまったときに、どうなるかという点ではないかしら。

杉本:アートが一部の特権的な王侯貴族に所有されていた歴史が近世にはあったわけだけど、浮世絵などは別として、そういう意味ではアートが中産階級化した場合には、いいような悪いようなところがありますよね。

岡部:今はアートを買う人のニーズが増えて、購買者の裾野が広がっているわけですが、現在、資本主義社会の国々ではお金がありあまっているところもあって、そうすると底辺の需要欲求にも押されて、ニーズが増える分価格も急騰したりして、そこにまた階級差や価格差が出てきて、もう絶対に一般のアートラヴァー程度では買えないものが増えてくる。

杉本:高くなるリチャード・プリンスだって5年前は数千ドルで買えたし、夢と希望を与えるようなところもあって、麻薬的な要素があるわけですよ。

岡部:そうですね。アメリカというよりはニューヨークだと思いますけど、そうした夢を、それがたんなる幻想にしても、今でも与える所はありますね。それで今でも日本の作家も若い人は生活するのがどこよりも高くて大変だけど、ニューヨークに来たりするでしょう?イラク戦争があるから、アメリカ自体の政治に対しては批判的な人も多いとは思うけれど、ニューヨークが与える夢みたいなものは続いている部分はありますね。

杉本:僕らの頃は70年代60年代にネオダダ群が一気に移住したんです。あの頃は、錦の御旗で成功するまでは帰れませんと言う悲壮な覚悟もあったけれど、今は全然違うよね。新幹線で大阪に行くような値段でニューヨークに来れるから。

岡部:今でもニューヨークにはアートマーケットが集中しているから、ここを一つの仕事の拠点にしながらも、ニューヨークはともかく生活費が高いから、たとえば今は安いベルリンにスタジオをもって住んでという手もありますよね(笑)。大きなアトリエで制作が出来るから、ベルリンがアートの拠点になりつつありますね。ベルリンはあまり興味がないですか?

杉本:興味ないっていうか、ここから移りようがないし、人生黄昏時だし。(笑)

岡部:そんなことないですけど(笑)。ここですでに十分大きな拠点を築かれているから、そういう意味で、とくに必要ないという感じでしょうか。

杉本:来年からヨーロッパでいろいろやる予定もあって、ヨーロッパはニューヨークとはまた全然違っていて、ニューヨークだとヨーロッパでうけることにひとつのステイタスがあり、ヨーロッパではニューヨークで一旗挙げることにひとつのステイタスがあるという変な関係があるよね。

岡部:杉本さんの作品はフランスの友人などでも好きな人が多いので、逆に私はむしろヨーロッパで最初にうけたのではないかと思っていたのですが、違うのでしょうか。

杉本:僕は全然ブレイクしなかったからよかった。じわじわじわじわ。

岡部:少しずつ好きな人やファンが増えていって、ブレイクしたのは最近ということですか。(笑)

10 日本における杉本作品

杉本:日本では森美術館で個展を開いたから一応一気にブレイク(笑)。でもこっちではオークションの値段がだんだん上がったり、ハーシュホーン美術館の回顧展とか、各地の巡回展も重要な要素ですね。

岡部:杉本さんの作品を沢山持っているコレクターや美術館は、日本だとどこでしょう。まとまって入っているところ、あるのかしら。

杉本:日本の国公立美術館はそれぞれ、ちょこちょこっと買ってくれてますが、まとまって入っては全然なかったので、最近は国立国際美術館がまとめて置いてくれたけど、1978年に万博跡地で展覧会をやっていたのに、その時には何も買わなかったんですよ。

岡部:惜しいですねぇ〜、きっと安かったのに。だから最初のコレクターになったMoMAはたったの250ドルしか払わなかった!、となると、得しているというコントラストが激しいですね。

杉本:20万円とかの頃で、それが今になって、あの時展覧会をやってるのに何でうちは買わなかったんだという自己批判が去年辺り起こって、それで買っておこうと。

岡部:遅ればせながらでも、購入してくれるのはいいことですけど。日本では、これといったコレクターもいないのですか?

杉本:最近、森美術館の森さん個人が建築好きだから、ある程度、あの展覧会の「建築」の部分だけ買ってくれたけど。

岡部:丸沼芸術の森のオーナー須崎勝茂さんがかなりの量をまとめてお持ちなのを知って、驚いたことがあります。彼はどういう経緯で購入されたのでしょう。

杉本:あれは、村上隆があそこにずっと居たせいで、ランドセルの作品で村上隆の最初の個展を細見画廊でやった時に、細見さんが誰かいいコレクターはいないかなと村上隆に聞いたことで須崎さんを紹介されたと聞いています。

11 ヨーロッパ、アメリカにおける杉本作品

岡部:ヨーロッパで一番コレクションしている美術館とか、コレクターはどこでしょう。

杉本:圧倒的にフランスのフランソワ・ピノー氏で、オーストリアのブレゲンツ美術館の個展は、4フロアの内3フロアは彼のコレクションとしてっていう買い方。それからまずいことに、同じフランスの対抗勢力、ルイ・ヴィトングループのベルナール・アルノー総裁からもお声がかかって両者が競うように買っているわけ。だから、かち合わないように違うものを提案してますが。フランスには元からカルティエがあって現代アートのコレクションやっているけれど。でも、ルイ・ヴィトングループもピノーグループも、収入の大半は日本から来てて、売り上げは日本の市場が半分以上。それから中国・韓国とか。だからブランド志向っていうのは日本独特のものね。

岡部:独特ですね。一種の西洋への憧れがベースにあって、それに高価だという資金表示と「もの」自体のクオリティの安心感というステイタス表象で、アジアに広がる可能性はあると思いますけど。

杉本:エルメスだって、日本の銀座店が売り上げは世界全体の半分くらい。ニューヨークなんかよりケタ違いに多い。ニューヨークだと買う人が限られてるけど、日本は学生まで買うから。

岡部:高価なバッグに20万30万円出すなら、アートとか他のものを買えるのにと思いますね。そういう意味で日本の物質文化は非常に豊かで、世界のファッションブランドを日本の女性が支えていて、その資金が循環してブランド会社のアートコレクションへとつながり、それを支えていると考えれば、まあいいのかもしれませんけど。アメリカではどなたがコレクションなさっていますか?ただ、この国の場合、オークションにすぐに出したりして、持ち主が変わりやすいですね。

杉本:そうそう、アメリカはよく分からないですね。色んなコレクターがいるみたいですけど。

岡部:どうなっているか分かりにくいでしょうね。フランスだとある程度、顔が見えますし、すぐ転売などはしないですから。

杉本:画廊などに、売れた先の顧客リストを渡せと言ってるんだけど、あまり量が多すぎるからいちいちトラックしていけない。コレクターだかディーラーだか分からない人もいるし、どこに行くのか全然分からない。心配は全然してないけど。マーケットが出来るためにはあまりに売り先を規制しちゃうと、結局オークションにも出て来なくなって、マーケットが出来なくなるのも困るから。

岡部:やはりオークションに出ないとマーケットがないと判断されるのでしょうか。オークションに出されることではじめて、マーケットが出来たという形になるんですね。だから若い作家でオークションに出てこないと、マーケットがあるとはいえない。

杉本:そう。少なくとも数千ドルくらいにならないと、オークション会社が扱ってくれないでしょう? かと言って高い作家でもゲルハルト・リヒターぐらいになると、出せば売れるわけだから、何でもオークションにかけていいというわけにもいかなくなる。美術館などに指定して売るようになってくるね。僕も今では、これは1点しかないんだから、変な人には売らないでって言うよね。

岡部:当然ですね。写真ですから、新作などのエディションの数を決定するときには、そうした需要の高まりなどをある程度、考慮して決めることもありますか。

杉本:エディション数はだいたい昔から大きいのが5で小さいのが25と決まっています。最近ではむしろどんどん少なくしていって、もう50歳も後半でもうすぐ60歳という年齢になると、自分の余生とのバランスを考えながらやっていかなくちゃならない。それにエディションで昔の写真ばかり焼いてたってしょうがないし。作家として新しいことをやりたいから。ただ自分がここ5年から10年先にやりたいことに対してどれくらいの予算が必要かというところから逆算してどれくらい売り上げなくちゃいけないとか、税金はどれくらい払うとか考えて、お金を残してもしょうがないわけだし、使いきりたいわけね。

    
杉本博司
購入した先史時代の化石
photo: Aomi Okabe

岡部:やりたい事に使いたいということで、昔からおもちの東洋の古美術コレクションだけではなく、最近は大正時代の日本画を買われたり、とくに先史時代の化石をオークションで落とされたりしていて、そうしたコレクション自体も作品や展覧会のディスプレイなどに使うことを考えていらっしゃるのですね。

杉本:コレクションもしながら、買ったものから触発されながら、自分の作品を発表していく。

12 今後の活動

杉本:最近買い始めたのは、19世紀初頭の1835年〜39年までのフォックス・タルボットのオリジナルネガ。

岡部:もう画像が消えつつあるでしょう。パリの国立図書館で見たことがありますよ。

杉本:いやいや!ここにありますけれども、1939年にダゲールがパリで写真を発表するわけですが、タルボットもその1ヶ月後の39年の2月に発表して、その前の本当に実験的に像が定着出来るかどうかという驚きの瞬間が写っている。入手するのは高価で困難ですがね。美術館では、ゲッティーやメトロポリタンがもっているけど、数少ない。

岡部:所蔵していても、展示して光に当てると退化するので、ビロードの布で隠して、観衆がそれをちょっと開けてみるようになってますよね。光に当て続けたら消えてしまう危険がありますから。

杉本:そういういくつかを買ったんですよ。これが1936年ので、窓から撮っているネガ。これは窓から隣のまた煙突が写っている。でこの辺になんとなく屋根がある。

岡部:もう消えかかってますね。最初からこんなにぼやーっと薄いイメージだったというわけではなくて、もう少しちゃんと写っていたはずですよね。

杉本:最初はもうちょっと写っていたと思いますけど、当時だから、感光液のエマルジョンをまあいい加減に塗って、これは一応定着はされているんだけども、でも状態はもともと良くはない。

岡部:綺麗ですね。これは抽象画みたいです。

杉本:そう、抽象画みたい。で何をやりたいかというと、このネガからまだ紙焼きができていないので、これから僕がこれのプリントを作る。

岡部:ご自分で持ってるネガなので、その作業でネガが光で痛んでもいいわけですが、普通はネガが痛むのを恐れて、出来ない作業ですよね。

杉本:展覧会としては、「ネガティヴ・バイ・フォクス・タルボット、プリント・バイ・スギモト」となる。このネガ1枚が非常に高価だとしても、僕がエディションで原価を振り分ければ、なんとか回収出来る。(笑) それは歴史性も含め、現代美術でもあるし、写真そのものの歴史でもある。

岡部:そうですね、おもしろい。自然史博物館の「ジオラマ」シリーズから、ある意味で過去の時間と対面し、それを現代に置きなおすという仕事をなさっていますから、継続した要素でもありますね。

杉本:これもその一環といえば一環で、あともうひとつ煮詰まっているのが、多分もう2・3週間の内に始まるんです。その案はいろいろ出てるんだけど…。

岡部:もうひとつの新しいシリーズも見てみたいです。タルボットのネガをプリントする場合ですが、サイズはかなり大きくするんですか?

杉本:はい。抽象画みたいだから、ちょっとロスコ風。色は、自分で現像液や定着液をハケで塗るので濃くする。いろんなトーニングのケミカルがあるので、さまざまな色をつける。ただカラー写真じゃなく、ケミカルな変化によって焼けたような色。だからどんな色でもケミカルによって硫酸で焼けただれたような色とか、腐食の原理を応用して、これから実験してみる。
(テープ起こし担当:前半 赤羽佑樹、後半 小橋未喜)  
杉本博司
C1032 2006
©Hiroshi Sugimoto
Courtesy Gallery Koyanagi
杉本博司
William Henry Fox Talbot, Botanical Specimen,
Circa,1835 2006
©Hiroshi Sugimoto
Courtesy Gallery Koyanagi