2019 / 造形と批評 / 「助手展」批評集
この批評集は、2019年度造形総合II類「造形と批評/みる、語る、聞く、書く」を履修した学生と、授業を担当した教員によるワークショップから生まれました。「批評とは何か?」という問いを軸に、作品をよく見て感じ、主観的な視点を得ると同時に、作品について調べ、客観的な情報も得、それらを言葉にして語り合う。この思考と実践のプロセスを通して、自分自身の価値観を深く見つめることができたと思います。
学びの仕上げとして、武蔵野美術大学美術館・図書館で開催された「助手展2019」を鑑賞し、執筆された批評文を是非お読みください。
目次
《CRACKS AND SHRINKS》 秋山亮太 :工芸工業デザイン学科研究室
中嶋恭子:デザイン情報学科1年
《下がるも、上がるも》 因幡都頼:通信教育課程研究室
二階堂真優:視覚伝達デザイン学科1年
《あひる》《だるま》《かえる》 北嶋勇佑:芸術文化学科研究室
春原史寛:芸術文化学科准教授
《2P》 倉田 悟:油絵学科油絵研究室
長沢 楓:油絵学科油絵専攻2年
《HONTOUNOKOTO》 瀬尾 宙:視覚伝達デザイン学科研究室
岡部 諒:視覚伝達デザイン学科1年
《scene》 塚田光示:油絵学科油絵研究室
名倉甘琳:油絵学科油絵専攻2年
《RELOADED BODY》 中村葵:油絵学科研究室
三村昂生:油絵学科油絵専攻1年
《アパートメント》 中山千佳:空間演出デザイン学科研究室
鹿野結菜:油絵学科油絵専攻2年
《CRACKS AND SHRINKS》
秋山亮太 工芸工業デザイン学科研究室
展示という対話
はじめにこの作品を見たとき、しわが布みたいで可愛いなと思った。柔らかいものを瞬間で固めたもののように見えた。
この作品は助手展の会場に入ってまず目に入る位置にある。助手展で初めに見た作品で、とても印象に残った。様々なたくさんのしわ。大きなふんわりとしたしわや、細かいちりめん生地のようなもの。布に限らず、紙や生カステラの表面ようなものもあった。しわの一つ一つの違いを見るのはとても楽しかった。触ると柔らかいものをそう見えるようにそのまま固めたような作品だ。しわや質感が様々で、その違いを探すことでも作品を楽しむことができる。
またこの作品には、他の作品と大きく違う所があった。作り方、作る工程も展示されていたことだ。絵の具のような液体状のものを発泡スチロールに塗って加熱する、というものだ。その液体に混ぜる粉上のものの量を調節して、しわや質感に違いを出しているようだった。布や柔らかいものみ見えたそれは布では無かったのだ。使っている原材料の詳細は分からないものの「こうやったらできる」が分かる展示だった。そういった作品にはなかなか出会ったことがない。
美術館に見に行く展示も今回の助手展でも、作り方が知れる展示というのは少ない。絵画も彫刻も、完成されたものがあるのみだ。完成品がそこにあるだけだと「よく分からない」と興味を持たずにその作品の前を通り過ぎてしまうこともある。実際に私はそうなりやすい。イラストをよく好んで見る私にとって、油絵や日本画などの絵画、彫刻や現代アートと呼ばれるものは「分かりにくさ」が大きくサラっとしか見ないことがある。しかしその作品の制作工程が分かる展示があると興味の沸き方が変わる。こう作られた、こんな苦労があった、と分かる展示の方が立ち止まってよく見たくなる。これは人によって差があるものだと考えられるが、「分かりにくさ」の解消は作品への興味に繋がることがある。
今回の助手展でも「分かりにくさ」の多い作品はたくさんあるように思えた。作り方やコンセプト、何故この作品を作ったのか等々。展示でどこまで明かすかというのも作者に委ねられるものだし、展示としては多くは明かしたくないという考えも分かる。だが、作品の製作工程が分かというのは、その作品を二度楽しむ機会を与えているように思う。
秋山さんの作品は、展示を通して見る側と対話して作品を楽しむ機会と見方を提供しているように感じた。
デザイン情報学科2年 中嶋恭子
《下がるも、上がるも》
因幡都頼 通信教育課程研究室
作者の因幡都頼さんは絵巻物や大和絵を中心とした絵画技法で絵を描いていらっしゃるそうです。この作品は樹脂膠、墨、岩絵具、水干し絵具、合成和紙で描かれています。
因幡都頼さんは武蔵野美術大学日本画学科を卒業し、現在通信教育課程研究室で助手をされています。
この絵は右上から水と一緒に人が流れてきて鑑識のような人達に陸に揚げられその人達が狐に変わったり女の人に変化したりしていきます。人の中にはおじさんが多くとても生き生きと描かれているように見えます。おじさんは因幡都頼さんの他の作品にも登場しています。
そして、絵の中で様々なことが起こっている中で私が特に気になる点が3つあります。
1つ目は、大きい女の人の目がつるんとしていてとても美しい所です。
2つ目は画面の左へ行くにつれて人が女の人や狐に変わっているように見えるのですが、火に焼かれながら女の人になる人と機械のようなものに挟まれて顔などのパーツを自ら持ってかわっていく人がいることです。
3つ目は、左下の方で河童の記者のようなもの達にまとわりつかれているおじさんです。最初は河童が何を持っているのか見えていなかったのですがマイクを持っていたのと、過去の作品も見てみたいと思い公式ホームページを見させて頂いた時に「信じられるもの」という絵でも河童のカメラマンのようなものにおじさんが撮られている絵を見て、何か関連があるのかなと、とても気になりました。そせらから、この絵の中で、社会の悪い事をした男の人達が選ばれていって変えられていっているのかなと個人的に思いました。
絵の何処を見ても何故狐に変わってるのだろう、大きい女の人は何だろうと部分部分でも思わずじっと見てしまい、沢山の人達の声も聞こえてくるようでした。 この文章ではまだまだ紹介が足りていないと思います。皆さんも是非実際に見て頂きたいなとおもいます。
視覚伝達デザイン学科1年 二階堂真優
《あひる》《だるま》《かえる》
北嶋勇佑 芸術文化学科研究室
近くて遠いあひるとだるまとかえる
あひる、だるま、かえる。黄、赤、緑の色面が離れていても否応なく目に飛び込んできて、楽しくなってしまう存在の大きさがある。笑顔に迎え入れられるように歩み寄って彼らの前に立つと、見守られているような感覚を覚える。子どもたちならなおさらそう感じるだろうか。
子どもたちの生活とつながりのあるもの、伝統的なもの、日常の遊び、そのようなさまざまなやさしい親密さを感じさせる彼ら。タイトルがひらがな3文字で表記されたやわらかな印象であることも関係している。
一方で、私たちが日常で接する現実のこの3つのものと、作品に向き合う私たちとでは、大きさの関係性が逆転している。さらに彼らに歩み寄るにつれて、その巨大さには圧倒される。そもそもだるまはこんなかたちをしていただろうか。見定められているように、どこか居心地のよくない気持ちにもなってくる。
ごく間際まできて、少し注意して見ないと気づかないが、白い紙の上に、こちらに近づいてくる上層として、絵の具が摺り取られた、おそらくは黒い紙が貼られている。つまり、その黒い紙の上にさらに近い層として絵の具がある。ふと、紙の剥がれや膨らみがところどころにあって、それが、紙の重なりの存在を気づかせてくれる。
あるいは、だるまの左右反転した「福」の字や彼らの目のなかの、はっと驚くように際立つ白さも、紙の重なりを教えてくれる。さらに、紙の継ぎ目は、実は彼らが手作業で作られていることを思い出させてくれる。
そんなかたちと素材に気を取られて忘れそうになるのは、これが版画であること。モノタイプと呼ばれる、実際のものや版にインクや絵の具をつけ、紙に摺り取った1点しかない版画作品である。川面の流れや波紋の、文様にも見えるような表面の絵の具のうねりは、刷毛でぐいぐいと塗り付けられた絵の具を擦り取ってできあがったものだろう。ぶつかりそうなほどに近づけば、その刷毛目の乱れまでが楽しめる。
彼らとの近さと遠さの間合いが、私たちのからだの動きによる関係といってもよいが、この作品のふるまいは印象を大きく変える。離れれば、注意深く見ていた作者の手の動きを示す痕跡はぼやけていって、紙の重なりと絵の具の流れは見えなくなり、やがて、はじめのようなひたすら親しげな彼らの笑顔だけがこちらに向けられてくる。
芸術文化学科 春原史寛
《2P》
倉田 悟 油絵学科油絵研究室
倉田 悟 油絵学科油絵研究室
目線の先には何が見えるか
一枚の画面が二つに切り取られ、二つの場合に描かれた二人がこちらを見ている。上面には、画面左から一つの頼りない間接照明の灯が花柄のカーテンをした部屋を静かに照らす。中央にはタートルネックのニットを着ているゴリラのような顔をした人物が描かれている。
一方、下面は画面右から光源は描かれていないが、こちらも静かな光が部屋を照らし、バルコニーに面した部屋の中央にチェック柄のシャツを着た人間のようで人間でないものが描かれている。彼は狼男だろうか。バルコニーからは森が見え、一台の車が走り抜ける。夜空には赤い月が登っている。描かれているのはまだ満月までもう少しかかりそうな、十三夜の月だ。ほとんど家具のない不自然に綺麗すぎる二つの部屋には生活感すら感じられない。静かに何かを見てる二人は静かな部屋と同化するように存在し、絵の中に絵を読み解くヒントは散りばめているものの、鑑賞者に何も語ることはない。
この絵に登場する倉田さんの描く人物は、一見男性のようだが、どこか中性的な曖昧さを持っておりはっきりと性別を区別することはできない。見方を変えれば女性にも男性にも見える。造形的には縄文土器のような形をしており、顔は存在するがそれが人物なのか何なのかも曖昧である。その存在が、一層不可思議さを演出している。
二つの画面は人物は同じ位置に配置されておきながら光源は正反対であり、両者を比較するように描かれている。別々のキャンバスに描かれているのではなく、敢えて画面を二人つに割ったこの絵には関連性を考えずにはいられなくなった。
描かれている場面はどういう場面なのか想像してみた。私はどこかテレビ電話を想像した。インターネットの普及でSNSなどを通じて個人の行動や思想が二十四時間監視状態なことが当たり前になってきている現代ではプライベートな空間は存在しない。他人に見栄を張る為、気の抜けない生活が煽る不安や、感情の見えない二人の表情からはどこか不景気な社会に希望を失った現代人の無関心さを感じる。
性別も、人物か動物かも果たして生物なのかも区別できない曖昧な表現は、一見無感情のようで、内側には想像も出来ない生々しさを持ち合わせているような気がする。平面的で簡潔に描かれた画面から理解できるようで出来ないモヤモヤした感覚を鑑賞者に残すだろう。
油絵学科油絵専攻2年 長沢 楓
《HONTOUNOKOTO》
瀬尾 宙 視覚伝達デザイン学科研究室
瀬尾 宙 視覚伝達デザイン学科研究室
作品を作ったきっかけはヘルシンキの空港で自撮りをしていた人を見て「写真って全然伝わっていないんだな」と感じたことだそうだ。作品名にもある『HONTOUNOKOTO』(本当のこと)はこの情報社会の中で、メディアを通して一層見えづらくなっているように思う。
この作品は大きくアニメーション、動画、CGの三本構成になっている。一本目のアニメーションは複数のシーンが流れるが、それらは全て同時刻の出来事で、つながった内容である。これはメディアに関わらず、私たちが日頃いかに狭い視野でしか物事を見ていないかを実感させられる。他人だけでなく鳥や宇宙人にも迷惑をかけている様子も人の自己中心的な視野を表しているように思う。また、一人の少年が犬とボールで遊んでいる場面なのに別の少年が木にボールを当てている場面が挟まることにより、二人の少年がキャッチボールをしているように見えてしまう現象が起きている。映像を組み替えれば真実とは違った内容が見えてくる。これはメディアの恐ろしさだと思う。
二本目の動画も同じようなことが言える。始めは画面が揺れ女性の悲鳴が聞こえるので怖い印象だったが、その後簡素な撮影風景を見ると笑いすらこみあげてくる。このギャップをトリミングだけで演出できることに危機感を感じた。自撮りくらいなら大したことはないが、報道でこういった真実とは異なる印象を与える映像を流されると深刻だ。
三本目のCGは解釈するのに時間がかかった。「同じように繰り返される毎日」をトースターで焼かれるパンやビリヤードとマトリョーシカのCGで表していたり、「従業員の必死な働きに対して、怠惰な上司が首振りの判断しかしない様子」をブリキ人形と赤ベコで表しているのかと推測した。しかし、瀬尾さんに聞いてみると「特に意味はない」とのことだった。三本構成で見せることで、三本目も一、二本目と同じように意味を持っていると思わせたわけだ。これもある意味、情報操作に近い。実は最後のリンゴを切る映像が「特に意味はない」ことを暗示しているという。そこに違和感を覚えたのはそのせいだったようだ。
この作品は実に教訓的な内容だと思う。悪意のある伝え方をしないのはもちろんだが、受け手側も見えていることだけでなく、広い視野をもつことが大切である。そういったことをこの作品の知的な面白さや高い完成度と一緒に感じてほしい。
視覚伝達デザイン学科1年 岡部 諒
《scene》
塚田光示 油絵学科油絵研究室
塚田光示 油絵学科油絵研究室
助手展の4号展示室に入ってすぐ、色彩の鮮烈な作品に目を奪われ、塚田光示さんの「scene」のそばに通り過ぎ去ろうとした時、「scene」から放す薄い虹色のような優しい光に第六感が強く刺激された。よく見ると、柔らかなグラデーションで表現される光と影が静かに、何かを語っている。二、三歩下がって、巨大な作品を視界に収めると、生まれたての赤ちゃんがキャンバスに描かれている事に気づき、驚いた。人物と背景が一つに溶け合い、まるで網膜に映り込む影のような画面は、何処かよそよそしい怖ささえ感じられる。もう一度近づいて見ると、手書きの筆致を残した描線は、周りの景色と人物を一体化させ、複雑な配色のグレートーンがまるで真珠の貝殻から分泌された外套膜のように、新しい生命を優しく包み込んでいる。
ふっとルーベンス・ペーテル・パウルの「眠れる二人の子供」を思い出した。あどけない寝顔を見せる子供たちは、わが子ではなく、画家の早年で逝去した兄の子供たちが描かれている。この作品のような写生に基づく描写の直接性と新鮮性が「scene」にはない。塚田光示さんが記憶を基に、アトリエで25年前の従兄弟を描いたこの作品は、余計な細部が取り除かれた。その流れる時間と空間の中に存在する意識だけを美しく、印象的に描かれている。
また、「眠る二人の子供」のような明快な色彩は、「scene」には用いていない。しかし、塚田光示さんが武蔵野美術大学院の在学中から研究し続けている油彩・水彩絵具に蝋や方解石等を加える表現手法で、明暗の色調や、絵の具の厚みにリズムをつけ、「眠る二人の子供」と同様に、モチーフに対する深い愛情を見事に描出されている。25年間の時間と空間の中から生み出された距離感のある情感を印象的で、不思議さを感じるドラマチックな場面へと変貌させた。
「scene」の制作は約半年前から、塚田光示さんが多忙な油絵研究室助手の仕事の合間を縫って、取り組んできた。描くことへの飽くなき意欲や欲求を制作の源にし、新鋭の画家として、塚田光示さんはこれからも人々の身近に存在する時間や空間の記憶をキャンバスに刻み、生命の痕跡を記録してくれるだろう。
油絵学科油絵専攻2年 名倉甘琳
《RELOADED BODY》
中村 葵 油絵学科研究室
中村 葵 油絵学科研究室
薄暗い展示室の角で映像が映し出される。その映像は人型ロボットの腕が揺れ動くもので、それぞれの腕が部屋の角を挟んで左右の壁に広がっている。大きく映し出された腕が鑑賞者に立ちはだかり、後ろを振り向くと今度は部屋の角と対角線上にモニターが設置されていて、そこには頭部が映っている。ロボットの腕と頭部に囲まれ、鑑賞者は覆われるように作品の中へと入りこむ。そして観察をするうちにロボット以外のものが映っているのに気づく。機械の腕の周りに白くぼんやりと別の腕が浮かび、さらに頭部には人間の顔面が重なる。
この映像で出てくるロボットは日本科学未来館に常設されている「機械人間オルタ」だ。オルタは生命らしさを追及して作られた。その際に従来のアンドロイド研究のように人間そっくりに模倣するのではなく、人工生命学研究的な観点から、生き物の神経伝達や脳の構造が作る動きを取り入れた。そのためオルタの体は機械がむき出しである。しかしその動きは自発的なものだ。
作者は初めて科学館でオルタを見たとき、人間らしさを感じず、不器用な動きであると思ったそうだが、自らの動きを探るようなオルタの姿に、人間に依存しない機械人間としての自立を返って感じたという。そしてオルタの試みに関心を持った作者は自らの作品の中でオルタを扱った。
今回の展示の映像は特殊な撮影方法を用いている。オルタの動きを撮影した映像を分解し、自らの身体と重ね合わせながら、再び映像に戻しているのだ。この場合、機械人間オルタが生物的な役割を、動きを追う作者が機械的な役割を果たしているといえる。存在としての自立が「生命らしさ」をもたらすのであれば、機械の模倣をする人体は「死(らしさ)」を表しているともいえるだろうか。
対立する要素が複雑に絡み合う作品であるが、この作品で重要なのはコンセプトではなくイメージである。コンセプトを語るまでもなく、イメージに全ての要素が存在するからだ。機械と人間の織りなす機械的な要素と人間的な要素、それぞれに調和と違和がある。それが一度に出力されることで立ち現れる一つの不気味なイメージは、入れ子状態の文脈を無意味にし、拠り所もわからぬ実感として我々に訴えかける。
油絵学科油絵専攻1年 三村昂生
《アパートメント》
中山千佳 空間演出デザイン学科研究室
中山千佳 空間演出デザイン学科研究室
〜「かわいい」だけじゃ終われない〜
金属が擦れるような音を上げ、モーター仕掛けのネズミが運動器具を模した装置の中で回り続けている。機械仕掛けの作品は一際目を引く存在であり、運動器具を回す役割のベルトコンベアの代わりに橙色の蛍光色のテープで動かされていることで、その部分も視覚的な衝撃があった。
この作品のアパートメントというタイトルが気になった。アパートメントとは集合住宅のことであり、建物の内部を区切り、それぞれ独立した住居形式を指す。形状は趣向を排除した四角形の冷たい部屋が並び、隣の住人は何をしているか分からない。その部屋の中で同じようにくるくる回り続けるネズミのように毎日の変わらない生活が繰り広げられている。タイトルから連想させられる区切られた室内のイメージは、現代社会の核家族化や人間関係の希薄さなどの問題を彷彿とさせる。
作者の中山さんは、「cynical」と「pop」のバランスについてのテーマで活動している。この「アパートメント」においても「かわいい」ということに対しての矛盾、どんな影のある事柄にしても「かわいい」のオブラートに包んでしまえば良いことに対しての皮肉が隠されている。この作品は確かに小さくて丸いネズミ、柔らかそうなウサギという記号の影響で「かわいい」と思ってしまう。しかし、ネズミとウサギは永遠に回り続けていることや、回転運動器具が取り付けられている台はペットのケージを彷彿とさせること、閉じ込められて回り続けるという様、といったことから「かわいい」だけでは終わることができない影を読み取ることができる。また、視覚的な刺激とコンセプトが連動している印象であった。ベルトコンベアの黒いゴムベルトの代わり蛍光色のビニールが施されていることで、目を引く、見栄えのするといった視覚的な効果が生まれ、蛍光色の影響で、「pop」な雰囲気も纏っている。。一方、無機質に回るネズミとウサギのぬいぐるみ、アパートメントというタイトルから四角い冷たい空間を連想させられる。これらの連想の作用が相まって外見と中身から堅牢に構成されている作品である。
これらの作用の影響で、一目見ただけで受け取れる可愛らしさという印象と、じっくり見続けることで滲み出てくる影や皮肉といった相反する要素が詰まっていることで、より一層見ただけでは見えない問題を投げかけてくる作品である。
油絵学科油絵専攻2年 鹿野結菜