Cultre Power
mecenat 資生堂ギャラリー/Shiseido Gallery
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Copyright © Aomi Okabe and all the Participants
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©岡部あおみ & インタヴュー参加者
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インタヴュー

樋口昌樹×岡部あおみ

学生:生駒葉子、岡田伊央、越村直子、近藤亜矢子、高山真紀、山田恭子
日時:2001年08月15日
場所:資生堂ギャラリー

01 絡めとられた、というか。

樋口昌樹:樋口です、よろしくお願いします。僕は企業文化部で仕事をしていまして、主に資生堂ギャラリー、今は閉まっていますけど、ザ・ギンザのビルの道を挟んで向い側に工事中のビルがありましたが、そこにギャラリーがありまして、そこのキュレイションとアートスペースのキュレイションをしています。この部に来たのは92年ですから、約8年になります。別にもともと美術を勉強していたのではありません。大学は経済学部出身なんですね。で、普通に資生堂という会社に入って、最初は化粧品の営業もやりましたし、今の部署に来る前は、ザ・ギンザのブティックの方でバイヤーをやったりもしたんですが、人事異動でこの部署に移ったのであって、キュレイターという専門職で入ったという訳では全然ないんですね。

岡部あおみ:資生堂に入社なさったのはいつですか?

樋口:83年ですね。大学卒業して、一般的に就職した。

岡部:大学はどこですか? 

樋口:慶応です。最近あちこちで喋ったり書いたりしてますけど、もともと現代美術というのは勉強していないので、門外漢ですね。だから最初は訳が分からなかった。一般的に現代美術がわからない、という話が出ると思うのですが、まさに実体験として経験して来まして、3年くらいやって、何となく多少わかるようになったかな、と。

岡部:8年って長いですよね。

樋口:そうですね、でもこの世界でいえば駆け出しですからね。もうじき来ますが、このアートスペースのディレクターをやっている課長ですけれども、西村という人間もアートの専門家ではなく、ですから専門職として資生堂に入るというのはないんですね。

岡部:正規の職員の方が移動で入って来ているわけですね。

樋口:そうです。だから逆にいうと、何年か後に移動してしまうという可能性もあります、現実的に。

岡部:8年間同じ部署というのは、長いほうですか?

樋口:会社としては長いほうですね。

岡部:だんだんアートが好きになって来ました?

樋口:そうですね、絡め取られた、というか。

岡部:(部署を)変わりたくないですね。

樋口:それでは、企業文化部がどういう事をしている部署かを少しお話します。主に5つの仕事がありまして、ひとつはメセナの窓口業務ですね。ボランティア活動の窓口業務も兼ねています。それから静岡県の掛川に、資生堂アートハウスと資生堂企業資料館というミュージアムがあるんですが、そこの運営。みなさん、『花椿』という雑誌を御存じだと思うんですが、その編集部もこの部内にあります。もう一つが、ギャラリーとアートスペースの企画、運営ですね。あ、西村です。 

企業文化部課長故西村彰 :どうも。


© Io Okada


© Io Okada

02 サクセスフル・エイジング。

樋口:それから後一つは、サクセスフル・エイジングっていう言葉はきいたことあ りますか。資生堂ではサクセスフル・エイジングといって、年に関わらず美し く生きましょうということを提唱してるんですね。その発信活動、いろいろ フォーラムを開いたり、出版物を編集したりという仕事があります。大きくい うと、この5つを企業文化部で管轄しています。 それで、どうしましょうか。アートスペースやギャラリーの概略を説明して、 質問を受けましょうか。   

岡部:そうですね。


© Io Okada

03 最初は薬局だったんですよね。

樋口:ではまず、ギャラリーから。資生堂ギャラリーは1919年に出来まして、ですから今年で81年になるんですけれど、現存している画廊では日本最古の画廊です。もちろんそれ以上に古いのもあるんですが、途中で閉まってしまったりして、今残っているなかでは最古ということになります。今の資生堂の会長が福原義春ですけれども、彼のおじに当たる資生堂初代社長の福原信三という人が、ギャラリーの創設者なんですね。福原信三という名前、聞いた事ありますか?

(学生:あります。雑誌で、香水の...)

樋口:創業者、福原有信という人が資生堂を創ったんですが、最初は薬局だったんですよね。福原信三の代に化粧品事業に乗り出して化粧品メーカーになっていたんですけれども、この福原信三自身がアーティストでありまして、ずっと写真を撮ってたんですね。日本写真会の創設者でもあります。で、本人も子供の頃は画家の道を目指していたんですが、長男が病弱だったりして、社長に就いたわけです。社長に就任する前にアメリカとフランスへ留学するんですね。アメリカではニューヨーク大学に通って、その後1、2年くらいパリ。パリは遊学みたいな感じでしたが、その頃に撮りためた写真を『パリとセーヌ』という写真集にして出版したりもしているんです。アートに非常に関心のある人間だったので、日本に戻った時に、その頃は本当に画廊なんていうのがごくごく少ない時代だったので、資生堂のなかに画廊を創りたい、と。で、はじめたんですね、それが1919年。川島理一郎という画家の個展でスタートしました。ただその頃は、まだギャラリーという言葉を使ってなくて、『陳列場』と呼んでいました。ですから美術展だけではなくて、結構、人形の展覧会とか子供服の展覧会とか、展覧会というか展示会ですよね。化粧小物の展示会だとか、割と催事的な使い方もしています。 だから、最初が川島理一郎の個展だったように、だんだん美術の催し物を多くしていった、という感じです。この画廊を使うに当たって、信三が自ら作家に会って、審査して、納得したものにしか貸さない、という形をとっていたようです。そこで作品が売れ残ったりすると自分が最後に一点買い上げる、ということもしてました。そう言う意味ではメセナの走りですよね。個人的パトロネージに近いですけど、最初から(ギャラリーを)会社のもちものという形にしたという点では、たとえば大原美術館のように、全部個人で集めたものが最終的に美術館になるというのとは、ちょっと違いますよね。最初からある程度、会社の持ち物という形にしつつ、個人的なパトロネージも行って来た、という感じですね。で、実際に自分自身も展覧会を企画したりもしています。戦前に、資生堂美術展覧会という展覧会を福原信三自身がプロデュースして開催しています。それは当時の日本画壇の一流どころを集めた展覧会で、逆に言えば、それだけ信三が当時の日本のアーティスト達と親交を持っていたという証拠にもなるんですね。戦争でやはり中断します。戦後、1947年にまた再開しますが、そのときはもう信三はリタイアしていたので、当時の宣伝部長であった白川忍が、後を引き継いでギャラリーの運営をします。その頃に、資生堂の企画展として椿会というグループ展を始めるんですね。47年ですけど、これは今も続いています。じつは何度かメンバーチェンジしてるんですが、ギャラリーが移転したり、あるいは工事で閉鎖されたりとか、まあ、今も工事で閉まってるんですけど、その都度、前のメンバーを入れ替えて、新しいスペースが出来たときに新メンバーでやる、と言う形で 今日もまだ続いています。来年ギャラリーが新しく出来てからも新メンバーで続けていく予定です。 縁があって、美術評論家の今泉篤男さんが、長いことギャラリーの顧問をやっておられました。正確にいつ頃からとははっきりしないですが、だいたい1950年代の中頃からではないだろうかと思います。亡くなる1974年までずっとギャラリーの顧問をやられていて、椿会もそうですけど、それ以外に現代工藝展ですとか、60年代は作家のアトリエシリーズとか、檀会とか、今泉さん自身の企画による展覧会をギャラリーでやっています。企画展以外の時期は貸画廊的に運営しているんですけど、これも初代の福原信三の意志をそのまま継続しまして、ちゃんと審査をするわけですね。今泉さんや、社内の宣伝部長などで運営委員会をつくりまして、その委員会が審査をして納得した人にだけ貸す、というやり方を続けています。これは、今ビルの工事で閉まる前までも、ずっと同じようなやり方を継続しています。

04 椿会の出品作は全て購入

樋口:椿会についてちょっと補足しますと、1947年に最初の椿会が出来るのですが、それが7年位続いて、一回中断するんです。ギャラリーが閉鎖になったんですね。1955年です。その頃は、先ほど見ていただいたアートスペースのあるところが、まだ化粧品店でして、その化粧品店の二階にギャラリーがあったんです。そのときに、会社の経営状況が悪くてギャラリーを続けてゆくのは難しいということになって、ギャラリーの閉鎖が決まるんですね。それを聞きつけた今泉さんが怒鳴り込んで来て、それ以来ずっとギャラリーの顧問になったらしいんです。それが結局7年後に再開するんですね。メンバーを入れ替えて再開し、4年ほど経ってまた中断するんですけども、その後の1974年に次の第三次椿会、三回目のメンバーチェンジを行った椿会がスタートします。その時にギャラリーがいまのザ.ギンザのあった場所から、今建設中の資生堂パーラーに場所が移って、あのビルの9階で再開したんです。で、新しい椿会がそこからスタートする。その第三次椿会から出品作を毎回購入してコレクションしていく、ということが方針として決まりまして、それが掛川にあるアートハウスに収蔵されています。椿会として収蔵した絵画、彫刻が第三次と第四次を合わせて、だいたい250点くらいあります。それからもう一つの工芸展ですね。これは1975年に始まるんですけれども、この工芸展の作品も同様にコレクションしてゆきまして、これもやはり250点近くあります。これが掛川の資生堂のコレクションの核となります。これらは割と日本の近現代の良いものが揃っています。

岡部:椿会の出品作は全部購入なさるのですか?

樋口:基本的に全部。まあ、何かの事情で作家さんがこれは譲れないとか、特殊な事情がない限り、全部買います。コレクションを形成するという目的も勿論あるんですが、やっぱり一種のメセナの形態、文化支援の一形態なんですね。作品を選んで買う訳ではなくて、(展覧会に)出たものを自動的に買う、何が出てくるのかはわからないですよね。でも必ず椿会に出品している間は毎年一点買っていく、そういうかたちで作家の創作をサポートしていく、という側面があります。

05 今泉さんが「怒鳴り込んだから」

岡部:どのように椿会メンバーは新しくなるのでしょう。

樋口:会議で検討して決めるんですけど、一番最初の椿会はギャラリーが閉鎖になってポシャるんですよね。で、7年後に再開するので、また新しいメンバーを作りましょう、と。

岡部:ノミネートされるのはわりと評価の定まった作家で、若手作家が選ばれるわけではないんですね。

樋口:見てもらえれば分かりますが、三次までは割と評価の高い、ある程度画壇で地位を確立した人でしたね。四次からは、近代から現代美術に変えたんですけど、こちらも現代美術では大御所級の人々です。今度新しく再開する五次は、そういう意味では年代を下げまして、割と若手に持っていきました。

岡部:30代ですか?

樋口:まあ、40代ですけどね。一番上で辰野登恵子さん、山本直彰さん、彫刻の鷲見和紀郎さん、この三人が50歳で一番上で、一番若いのが児玉靖枝さんですね。あと世良京子さんとか、三輪美津子さん、堂本右美さんなどですね。今迄で一番若手になったと思っています。

岡部:そのメンバーは毎年何回くらいの展覧会をするんですか。毎年一回?

樋口:そうです。次の会は、5回と最初から決めてあります。5年間5回です。昔はあまりはっきり決めてないんですね。三次の椿会なんかは一番長く続いて、17年17回やってるんです。それで結局コレクションがたまった、と言うメリットはあります。  ただ、ずっとやってますから、やっぱり緊張感がなくなるんですよね。まして高齢の方が多かったから、誰かが亡くなって新しい人が代わりにどんどん入ってくると、最初にスタートしたときのイメージもどんどん変わってきますし、最後の頃はオリジナル・メンバーが一人か二人残っているくらいで、出品している人もかなり意識が緩んできて、不出品が続きました。最終回、17回目の1990年にはメンバーの5、6人が出品していない。そうなると、展覧会としてみっともないですから、それは止めようということになりました。ですので、四次、五次のときは最初から何年と決めてやるようにしています。  第三次の椿会は、皆さん美術史とか勉強されてると思うので、見てもらえば分かると思いますが、1974年当時って完全に発表の場が画壇で、団体展が中心の時代ですよね。今と全く状況が違う。で、メンバーを見ると、いろんな会派から来てるんですよ。院展の人、日展の人、創画の人、二科の人とかね。そのころは各団体展でこうセグメント分けされていた部分を、今泉さんという人の目で取り払って、自分で選んで組織したという状況なんですね。だから第三次椿会は顔ぶれから見るとかなり大御所というか、名の売れた人を集めているんですけれど、実態をよく見るとかなり斬新な切り口でメンバーを構成しているんですよ。今度新しくスタートする第五次椿会のメンバーを編成するときも、まず一番に命題として考えたのが、グループショウをやることの意味は何なのかということです。今泉さんが第三次椿会を組織した1974年の状況では今ないですから。特に現代美術シーンでは、何かのグループとか団体に所属しているということ自体あり得ない世界ですよね。作家も一人ひとりでやっていくのが主ですから、発表の場としても個展というのが定着していますので、そういう中であえてグループショウを何故組まなければならないのか、ということを考えなければならない。 その点を考えた上でメンバーを選んだのですけれども、やはり時代、時代の変化というものはあるし、展覧会というのは必ず何か目的とするところがあるわけですから、それをクリアしてゆかなければならない。同じ椿会と言う名前で続けていてはいるけれど、その時代、時代で考え方は変えていかなければならない。現代工芸展の方も同じように年一回。これは結局20年続いたんですけど、こちらも今見ると人間国宝がダダーっといるんです。

岡部:買っておいて良かった、と。

樋口:確かにそうは言えます。ただ、1975年の第一回現代工芸展のときに今泉さんが作った案内 状には「日本の工芸界の中堅作家を集めて」って書いてあるんです。確かにその頃はまだ皆そ んなに大家ではない。その人々が後年、人間国宝に認定された。今振り返ると人間国宝だらけに見えるけど、その当時そこまでなってるひとは誰もいなかった。逆にいえば、今泉さんの目が確かだった、とも言えるけど、基本的にそういうスタンスです。だから今後ギャラリーがオープンして続ける上でも、大家ではなく中堅ぐらい、20年30年経ったときに美術史のなかで、ちゃんと位置付けられるであろう作家達と同時代としてやっていくというのが運営上の一つのポリシーです。

岡部:第三次椿会から今泉さんがキュレイターをなさっていたんですよね。今泉さんが「怒鳴り込んだから」というのはどういうことでしょう。

樋口:ギャラリーが閉鎖されると聞きつけて抗議にいらしたらしいですね。なぜ閉めるのか、と。 その時はもう福原はリタイアして諏訪の方に引っ込んでいましたから、当時の宣伝部長だった白川忍に怒鳴り込んでいって、そこで二人は息があって、義兄弟の契りまで交した、と書かれています。で白川が「今泉さん、そこまでいうなら手伝ってよ」と言う形で、全面的に...、

岡部:何十年もやられてましたよね。

樋口:亡くなるまでですから、20年近くですね。その頃はもう今泉さんが京都近代美術館の館長になられている頃ですから、一種の昔のイイ男たちの物語、と言う感じですね。今泉さんが亡くなった後は今泉さんの後輩の乾さんという、やはり京都近代美術館にいた方にずっとお手伝い頂きまして、今は再開に向けて、建畠晢さんと北澤憲昭さんの二人にアドバイザーを お願いしています。 だいたい月一回位のペースで会議をして、たとえば椿会のメンバー編成にしても、ある作家 を叩き台に出して、お二人がいろいろ意見を言って、それを参考に僕達がメンバーを決定しています。

06 ファッション・ブティック、ザ・ギンザ

樋口:ここまでがギャラリーの話で、次はアートスペースの話になります。西村は設立の時から関わっているんです。

西村:今は企業文化部のアートスペースを担当していますが、もともとアート・スペースはザ・ギ ンザのオープンの時に出来ました。昔のギャラリーのあった化粧品店が老朽化してしまい、建て直すことになり、新しい今風のブティックを創ろう、と1975年にファッション・ブティック、ザ・ギンザが出来ました。  その頃は今とちょっと売り場が違って、5階に多目的ホールがありました。会議室や色々な催事に使おうと、とりあえずホールを作ったんですよ。オープン企画として、アメリカのパッチワーク、キルトの展覧会をやったんです。ザ・ギンザはファッション・ブティックですから、ある程度ファッションに関係がありながら生活にまつわるもの、ということで。展覧会は好評で、会議室よりこのような使い方の方がいいということになり、急遽、宣伝部とブティックと広報室の三者で、5階ホールの運営会議をつくりました。

岡部:ザ・ギンザアートスペースの設立は何年ですか?

西村:1975年です。だから、始めから展示をしようとしたのではなくて、あくまで多目的ホールで、でも展覧会をしてみたらなかなかよかった。じゃあ次はなにをやろうか、と次は女性のおしゃれに関連して櫛の展覧会をやろうと、「櫛とかんざし」展をしました。そのうち1985年にあのビルを改装して、場所が地下一階になり、名前がザ・ギンザアートスペースになりました。このときはザ・ギンザが展覧会の運営をしていました。  ブティックが運営するということは、お店、お客さんとの関連があるので、テーマはファッションであるとか、イラストレイションであるとか、写真であるとか、あまりアート、アートしているものはギャラリーがあるんで、こっちは違うものをやろうという住み分けがなんとなくありました。イラストや写真のほかにも、おもちゃ、レース、水着、といろんなことをやりました。

07 サブカルチャーとファインアートの住み分け

西村:1985年にザ・ギンザアートスペースが出来てから、5年間はザ・ギンザが運営をしていましたが、1990年に企業文化部が出来、そちらに仕事が移管され、10年間企業文化部が担当してきました。が、今年の7月末をもってザ・ギンザアートスペースはクローズすることになりました。理由としては店の問題もあるのですが、また新しくギャラリーもできますし...、でも残念ながら場所がなくなってしまうんですよね。ザ・ギンザアートスペースはサブカルチャー、ギャラリーはファインアート、と住み分けがあったのですが、だんだん分ける理由がなくなってきた、ということもあります。けれど、ただ場所があるということは本当にいいことなんですよ。なくならないように主張してきたんですが、やっぱり難しいので、7月をもってアート・スペースは終わりになります。

岡部:(学生に)ザ・ギンザアートスペースの展覧会を見たことある人はいますか??

西村:ないよねえ、1975年だから。まだ生まれてないか。本当にいろんなことをやってきました。ポスターの展覧会だとか、アメリカン・フォーク・アートのかざみどり展なんてものもやりました。すごく大きなものを持ってきて怒られたこともあるけど、7月で終わりになります。  最後の展覧会は生け花の中川幸夫さんなんですが、お時間がありましたら来てください。で、皆さんにお土産と言っては何ですが、あの、去年、チャップマン・ブラザーズの展覧会をやったんだけど、みたことある人はいる?いない?チャップマン・ブラザーズの 作品で、これだけまとまったものはこれだけなんで、記念になると思うので、差し上げます。こういう展覧会もアートスペースではやってきました。ギャラリーとはちょっと違うんですけど...、。

岡部:すごく評判になりましたね。

西村:どこまで出来るか、と言う問題がありました。彼等のいつもの作品を展示すれば、会社の方でクレームがくるから、この辺までならいいかな、と。

岡部:去年、立教大学の大学院で教えていたんですが、生徒がこの企画展を見て発表しました。

西村:アート教育でどういうことをやったか、面白いですねえ...でも、こういうことを軽くできる場がなくなってしまうというのは、残念なことですね。ギャラリーだと、ちょっと構えてしまうから...、。

岡部:いい場所だと構えてしまうけど、ああいう地下だと...

西村:好きにできる良さがあるんです。スペースが大きければいいってものでもなくて、あれくらいのスペースを持っているというのは本当に良いことだと思うんです。

岡部:現代アートは特にそうですね。巨大な服をインスタレーションしたべヴァリー・セムズ展、本当によかったです。

西村:有難うございます。あれも最初は彼女がビデオしかやらないっていってたんですよ。ビデオだけ持って来られてもねえ。

岡部:ちょっと淋しいですね。

西村:古い作品はやだって言ってたんですが、やっぱりそういうのがやりたいって...そんな展示が出来る場がありました...やっぱり悲しい。いくら理由をつけようと、場所がなくなると淋しい。だから、なんだかんだ言っても場所をもってるところが強いんですよ。

岡部:私自身の経験からいってもそうですね。

西村:展示室があれば出来るんです...なんとかなるんです。

岡部:ないと、確保したり、見つけるだけでも大変です。

08 掛川の資生堂アートハウス

岡部: で、7月以降は、お二人共新ギャラリーの企画運営に関わるのですか?

樋口:そうですね。

岡部:企業文化部の組織図ありますか?スタッフは何人くらいでしょう。

樋口:掛川の資生堂アートハウスの人間も含めて、23人か24人です。

岡部:アートハウスの美術館も二つのアートスペースと同様、資生堂のスタッフの方々が運営もすべてなさっていて、部署の配置換えもあるのですか?

樋口:はい、そうですね。

岡部:任期は4、5年?人によっては10年以上ですか?

西村:特別職ではないので、いつ転勤が行われてもおかしくはないセクションです。

岡部:資生堂に関する古い香水瓶とか、掛川の資生堂アートハウスの所蔵作品を、ポンピドゥー・センターで『前衛芸術の日本展』をやったときにお借りしました。

西村:あの展覧会は面白かったですねえ。あのとき行きましたよ、パリのポンピドゥーに...

岡部:掛川の美術館では椿会と現代工芸展に出品されたものをコレクションとして保存し、さらに他にも現代に続く資生堂のデザイン商品をきちんと保管していますね。収蔵庫がだんだん狭くなっているのでは...

西村:もうぱんぱん。それがまた問題なんです。

岡部:良い美術館ですね。アートハウスが創設されたときは、ほかに企業の美術館はありませんでした?

樋口:アートハウスがオープンしたのが1978年ですから、その頃はまだ少なかったと思いますよ。

西村:企業の美術館で企業資料館が一緒にあるところはあまりないですね。

樋口:そういう意味では当時は無かったでしょう。大原美術館もサントリーも、コレクションした美術品を持っているところはあるけれど...

岡部:企業の資料館が一緒になっている点で新しいですね。78年からですか?

西村:企業資料館は1992年です。

樋口:アートハウスでもポスターとか化粧品ボトルとかを展示してました。

西村:ザ・ギンザでも商品展や新聞雑誌の広告展をやっていて、そのときに昔の商品を集めたり、復刻したりしていたのですが、そのときはまだちゃんとコレクションしていこう、という気はなかった。1975-78年の間に始めたこれらの展覧会が、だんだんアートハウスにつながっていったんです。

樋口:アートハウスの設立を進言したのも今泉さんらしいですよ。椿会とか現代工芸展がスタートして、コレクションすることは決めたのですが、それを保管する場所がない。最初はこのビルの倉庫みたいなところに作品を置いていたんです。そこにいままでポスターなどをきちんと保管していなかった宣伝部が相乗りしたんでしょうね。

西村:最初の頃はあまり明確に決まっていなくて、段々よくなって行くものですから。

09 企業文化部の理念、方針

岡部:アートハウスという美術館があり、しかも銀座の本社の近くに二つアートス・ペースを持って、現代アートもやっている。資生堂の活動はすごくユニークですね。企業文化部が出来たときに、理念や方針を立てられたのですね。

西村:はい、1990年のときに。

岡部:それまでの実績を踏まえて、こうやっていこうと。企業文化部はどのように発足したんですか。

樋口:企業メセナ協議会がありますよね。今の会長の福原がその設立を思い立ち、現在は理事長を勤めているのですが、その設立時に、自分の社内にもそういうセクションがあるべきだ、ということになって、企業メセナ協議会とほぼ同時期に企業文化部が出来ました。それまで、ギャラリーは宣伝部、アートスペースはザ・ギンザ、とばらばらにやっていたのを、ちゃんと一箇所で集中管理していこう、ということです。

岡部:それ以前と以後でスタッフは?

樋口:そのままその仕事を持って企業文化部に来たという形で...

岡部:西村さんは以前からですか?

西村:僕はザ・ギンザで販売促進業務を担当していて、その一部として展覧会をやってました。

岡部:企業文化部の23-24人のうち、掛川には何人ぐらい?

樋口:5〜6人ですか。

岡部:わりと少ないですね。

樋口:実質的にはアルバイトや現地の人がいますが、社員としては5〜6人です。

岡部:美術館とアート・スペースの企画・運営以外の他のメセナにはどういうものがありますか?

樋口:美術館でやる展覧会やアーティストの創作活動の助成です。たとえば、展覧会をやるんだけど、資金が足りない、と言われれば助成したり...

岡部:プログラムとしての助成ではなく、アーティストがお願いに来れば、企業文化部が窓口として受け入れる、という形で。

樋口:こういうものがないと、アーティストは何処へ行けばいいのかわからないですからね。

西村:そのための予算もちゃんともっています。

10 カタログの支援

岡部:それからカタログの支援もなさってますね。

樋口:今年から始めた新しいプログラムです。メセナというと基本的に受け身になってしまいますけど、もうちょっとこちらの主体性をはっきりしてゆこう、と。それから、こういう仕事は記録が残らないと後で調べようがないんです。

岡部:新美術新聞の記事を読んだのですが、内容にやや分かりずらいところがあって、たとえば、アーティストがカタログを作りたいと申し込みますよね。すると、資生堂が作る、と書いてありますが、これはどういうことでしょう。

樋口:通常は助成、つまりカタログ制作費として30万円助成しましょう、とか。そして、もらった画廊なりアーティストが自分でカタログを作りますよね。このプログラムはそうではないんです。予算はもちろんこちらがキープしていますが、お金をわたすのではなく、一緒に編集をしながらカタログというモノを作って、あげるんです。

岡部:企画を資生堂に提出して、こちらが審査する。年に何回くらいですか。

西村:原則として半年に5回と決めています。

岡部:カタログが残っていくというのは良いですね。展覧会をやるわけではない、そこが面白い。

樋口:ドキュメントを残す、ということはとても重要なことです。後々資料になりますから。企業文化部で『ギャラリー75年史』を1995年に出版したのですが、その編集に必要な資料が社内に殆ど残ってないかったんです。自社の展覧会の実績が社内に何ら残っていないので、編集スタッフは国会図書館とかで調べなければならなかったんです。このプログラムには資料を残す、という大きな意義があります。  美術館は基本的に展覧会ごとにドキュメントとしてカタログを作りますが、今の時代、画廊などはそれができません。一昔前、景気の良かったころは画廊が自分達のお金でカタログを作ったりしてたのですが。そうなると、一つの展示を見逃すと、何の情報も残らない。キュレイションしている立場として、作家の情報は非常に重要です。たとえば、いついつのあの展覧会のあの作家、といっても資料が残っていないと調べようがないし、実際に展覧会を見ていないと、それをうかがい知る縁がまったくない。作家にしてみれば、プレゼンするときもカタログを見せれば良いですしね。そういうことから始めたんです。

岡部:とても良いことですね。

学7:雑誌の花椿の合本を作るというのはどういうところから生まれたのですか。

樋口:もともと社内資料用に合本は作っていたようなんです。一年分をファイルしていくことはずっとしていたんですが、他の人が見てもきちんとまとまったものがあるといいな、というところから市販するようになったんだと思います。

(つづく)


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