culture power
artist 冨井大裕/Tomii Motohiro

glue #3 2007年 枝、エポキシ樹脂接着剤 9.5×10.5×7.4(cm)
© Motohiro Tomii








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イントロダクション — シーニュとしての作品

 冨井大裕という一人の作家について、ここで概説しうるほどの紙幅はない。そもそも 彼について語ろうとする試みが 失敗に終わるであろうことは、あらかじめ予測される事態なのである。なぜなら、それはおそらく ポリフォニー、あるいは詩の文法によってしか 語りえないものだからである。
 冨井はつねに、一見、平易にみえる作品をわれわれに提示する。 あるときは チェーンや角材を用いて、そこに身体性(=肉体ではなく、〈非知〉としての身体)を投射してみせたかと思うと、あるときにはカッターの刃や便箋、画鋲といった文具や日用品などを、あるパターンにおいて反復 = 構成させ、その反復(=フーガやミニマル・ミュージックのごとき〈音楽性〉)のなかから“見え”をスライドさせてみせたりする。そして、今回の企画展「みるための時間」では、〈シーニュ〉という新たなステージを確立してみせた。
 今回のAgora Musica 企画では、会場が一般のギャラリーではなく 民俗資料室における展示とあって、冨井はその展覧会構想に二年近くを費やすこととなった。ここに収録された 冨井大裕と森啓輔の対談は、その関連企画として行われたドキュメントである。よって、私も ここでは「みるための時間」に則しながら、少しく私見を述べてみたいと思う。

 冨井がつける展覧会タイトルは つねに意味深だ。今回の「みるための時間」もまた、その平易さゆえに 謎を帯びている。いったい誰が、なにを「みる」のか、そういった情報は 隠匿されたままなのである。もちろん、作家自身や鑑賞者たちが、作品を「みる」わけだが、実際に作品たちと向き合ってみると、作品を通してなにを「みる」のかが必然的に問われてくるのである。つまり、そのとき「みるための時間」というタイトルは、詩文の一部、もしくは 公案として立ち現れてくるのである。
 というのは、今回の冨井の作品群が、それ自体で自己完結したものとしてではなく、あきらかにシーニュとして目撃されるからなのである。それらは冨井が残した〈痕跡〉としてのシーニュであったり、彼が彼の日常空間において ふいに感応し、見立てられた、〈徴候〉としてのシーニュであったりするような、前ー記号論的なシーニュなのである。
 すなわち、なにを「みる」のか という先述の問いは、それらの〈見えるもの=作品〉を通して〈見えないもの〉を「みる」(=推し量る)ことへと 一気に転位されてしまうのだ。

 ここで私たちは、アートにとってきわめて根源的な問題に触れざるをえなくなる。それはショーベやラスコーの洞窟壁画において、その形状や起伏をワイルドアニマルの体躯に見立てたり、非文字社会の芸術やアウトサイダー・アートにみられるような、あり合わせの素材を流用したり、象徴化したりする働き、それらを ブリコラージュと呼ぶとすれば、その働きは ほとんどアートの無意識において 今日まで継承されているということだ。シーニュ(不在)を「みる」ということは、そうした「作品なるもの」の生成閾や原因レベルに立ち会うことなのである。
レヴィ=ストロース(Levi-Strauss, C.)は、呪術的・神話的思考に 芸術との類同性を直感し、そこに ブリコラージュをみた。 詩人もまた、古来、概念(言葉)をブリコラージュすることによって、慣習的な意味体系(ツリー状の表象体系)から逸脱した、新たなメタファーを生み出してきた。メタファーとは、西洋社会において一般的に考えられてきたような〈思考の周縁〉に位置するものではなく、むしろ〈思考のパラダイム〉として内在化されているものなのである。
 そして、このような 神話や詩がもつブリコラージュ効果は、もとより 非言語的メタファーとしての 造形芸術においても同様である。すなわち人類は、慣習的思考においては解決不可能な 未知なる問題に直面したさいに、新たなメタファー(思考枠)を押し広げていくブリコラージュにおいて、新たな選択肢(外部性)を与えるものとして、芸術的思考を常備してきたのである。

冨井大裕が陳列してみせたシーニュも、すでに意味や機能、もしくは「目的 ー 手段」関係を生み出す慣習的な体系を 取り払った断片(具体)として立ち現れているものだ。そこから作家が、顕れのなかに〈前にー押し出し〉、まさにアレーテイアせんとしているもの、その手掛かり(徴候)として、作品は位置づけられているのである。それは私たちにおいても、新たなメタファーの発生場でありうるところの 作品(見えるもの)を通して、〈見えないもの〉を「みる」ための時間なのである。
このことは 芸術にとって、とりわけ「みる」という働きにとって、きわめてベーシックな問題である。アーティストたちは すべからく世界から〈徴候〉を読みとり、同時に 自らの〈無意識〉と向き合ってきた。彼らは 表象を取り払うことで 過剰に貫かれるという体験をえる。その成果を「みる」ことが、慣習的な思考枠(知)によるエンジニアリングにとどまらないためには、私たちの思考が エコノミーな圧縮(いかなる拡張子によっても再現できない不可逆圧縮)にすぎないことを自覚する必要がある。そのうえで、私たちの選択肢を 非ー社会的領域にまで拡張してきた働きについて探査していく必要がある。
 このときアートは、非知の〈シーニュ〉、もしくは生物学的な〈技術〉として 目撃されるであろう。

(中島 智/芸術人類学)

【備考】
例えば、言語学者ノーム・チョムスキー(Chomsky, N.)は、言語能力というものが人類という種において生物学的に獲得されていると主張した(言語生得説)。またメタファーにかんしては、すでにニーチェ(Nietzsche, F.)が、真理とは慣習化した隠喩のことであって、芸術はその慣習的隠喩から人間を救い出すものとしている。さらに人類学者グレゴリー・ベイトソン(Bateson, G.)は、生物界の組織化から精神過程までを支えているものとしてメタファーの論理を位置付けた。認知言語学者ジョージ・レイコフ(Lakoff, G.)らは、こうしたメタファー遍在説を批判しながらも、メタファーが人類の言語および思考の基底であると主張している。彼ら、およびレヴィ=ストロースに共通しているのは、感覚的なものにそれ独自の論理を認めていることである。そして、そこに〈生物学的〉、または〈無意識的〉な構造を、それぞれに探究している。
なお、発達心理学者バーバラ・ロゴフ(Rogoff, B.)は、社会規範の文化別多様性とその絶えざる変容において多様な人格形成がなされていくさまを、人類学的見地から研究している。「アートと社会をつなぐ」さい、肝要なのは、こうした〈社会〉の複数性や、一部の芸術が宗教・政治において「手段化」されてきた事実を踏まえながら、「社会とつなぐ」ことをアート自体の存在意義にすりかえてしまわないことである。