イントロダクション
この人を一体何と述べて紹介しようか。オカメプロ社長、田尾創樹。彼はオカメプロという会社を立ち上げ、数多くのアーティストを輩出する。オカメプロ社長兼ねたオカメハチモク、元相撲取りの太頭山、漫画家の古川ペニーなど、その実態はほとんどが田尾創樹一人によるもの、もしくは彼中心によるグループやユニットだ。そんな幾つもの名前とスタイルを駆使している、田尾創樹という人物は一体どんな人なのだろうか。本当は何を考えているのか、素の姿を知りたい。その一心で私は京都へと向かってしまった。
突然の訪問客を迎え入れてくれた田尾さんは想像とは裏腹に丁寧にゆっくりゆっくりと言葉を紡ぐ。そして私は当初の思惑通り、ひと味違った田尾創樹を描くインタビュー記事を編集する予定だった。…ところが、これが甘かった。なんとその後のやり取りを得て、いつの間にかインタビュー記事はどこか見透かしたようなオカメプロ言葉で埋め尽くされてしまったのだ。一瞬、どのように受けとめていいのか分からなくなったのは事実だ。しかし、それは田尾創樹からオカメプロへの変身を目撃した貴重な瞬間でもあった。変わり果てたインタビューの回答はまさに「表面をなぞって遊ぶ」と言い切る彼の姿があった。表面をなぞって遊ばざるを得ない人。素を見てみたいなんて、とんでもない。これこそが彼の姿なのだ。私はインタビューが終わった何日もあとに、ようやくその事に気がついた。
自身の作品の複写を多用し、どこかで見たことのあるようなキャッチーなテキストを並べたてる。その行為は思想やコンセプトは無視され、田尾の日常の中で偶然によって生まれたものばかりだ。それが私たち若者に不思議な共感と小さな笑いを呼び起こす。また、彼の溢れ出る作品というか衝動そのものは時にブログ、時にYoutube、と今最も身近なメディアから発信される。果たしてどこからがフィクションなのだろう。ただでさえ分からない田尾の作品をさらに曖昧模糊とさせる。自分探しを迫られる若者とネット社会ーという現代社会の図式の中にオカメプロの活動を当てはめてみても、なかなか面白いのかもしれない。けれど、この人の前ではその全てが無意味で無効だ。これはまるで行き場を探がす、現代アートの所信表明の一つとも言えないだろうか。正直なところ、この所信表明を、そして田尾創樹の作品を、どのように評価していけばいいのか未だ答えは出ないままでいる。捉えどころのない田尾創樹、どう思うかは読み手のあなた次第。それでもやっぱり、素直に青いままでいられるオカメプロに嫉妬にも近い共感を抱いてしまうのは私だけだろうか。
(瀬野はるか)
田尾さんは、田尾創樹。いい名前です。タオソウジュという響きがとても良いし、創樹という名前はよくできているなと感心してしまいます。樹を創るという。
田尾さんは、彼方此方をうろうろぐるぐるして、気の向くままいろいろな樹の、いろいろな枝や何かをとってきてくっつけたりしている。しかもあんなにばらばらに見えるそれぞれの作品は、たった1本の樹から枝分かれしたその枝そのもの。とってつけたものに見せかけて、枝の一本、花の一輪をとってみても血が通っている。
田尾さんは、たくさんの名前や肩書きを持っている。オカメプロ社長、太頭丸山、クチビル、パーフェクトダンサー、レディオタイガー、古川ペニー、など。そのいろんな名前で音楽のユニットを組んでみたり、ラッパーをやってみたり、漫画を書いてみたり。そのあたりの詳しくはオカメプロのブログを見てもらえればわかると思うが、たくさんのそれらしい触手で自分を覆い隠しているように見せながら、その実、その触手の先までが自分自身に他ならないということを誰よりもわかっている。そしてそれらしい触手というのがまた、(語弊をまねきかねない言い方ではあるが)"ふざけてやっている"感が満載なのに、とても、心の底から、いいのだ。総力傾けて真剣にふざけているとでも言ったらいいのだろうか。
田尾さんは、実感の伴わない小難しい思想のような、しゃらくさいものを必要としない。全力で走っているような顔をして歩いているのではなく、全力で走っているような顔をして全力で走っているのでもなく、歩いているような顔をして全力で走っている。"なんかこういうのやったらおもしろいと思ったからほんとにやってみた"という真摯な適当さを崩さない、神聖さとすら言えるようなうつくしさを持っていると、私は思う。
(須田百香)