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museum 東京国立近代美術館/THE NATIONAL MUSEUM OF MODERN ART, TOKYO
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Copyright © Aomi Okabe and all the Participants
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インタビュー

保坂健二朗(東京国立近代美術館研究員)×佐々木慶一・中村友美・早坂はづき(芸術文化学科3年)

日時:2008年12月9日
場所:武蔵野美術大学 岡部ゼミ室

01 大きな展覧会を我慢すればコレクションに予算を回せるのでは

中村友美:今回のインタビューは東京国立近代美術館という枠なのですが、美術館の経営や運営面よりも展覧会や企画を中心にお聞きしてもよろしいですか。

保坂健二朗:そのほうがよいと思います。美術館の経営に関しては、僕自身が把握している問題と幹部以上が把握している問題は違うので、答えたとしても真実味が無いことがあるでしょうし。もう一つより大きな理由もあって、それは、美術館の経営と学芸は混じり合わないところがあるということ。みなさんが学んでいる「アート・マネージメント」という学問は、そのふたつの間に立つ人たちを育てているのだと思ってはいますが、それはともかくとして、ここで言いたいのは、同じ質問でも、学芸サイドと事務サイドの答えは絶対違うということです。新聞や雑誌のインタビューを受けるときによく感じるのですが、表に出てくるのを期待されているのは学芸員で、けれど質問の内容は極めて事務的というか、経営に関してのものが少なくない。言い換えれば、美術館は、事務部門と学芸部門とが共同して運営しているということ自体があまり認識されていない。そういう認識を前提にして話を進めていければと思います。

中村:では、学芸員という立場から東京国立近代美術館(以下近美)ならではの試みがあれば教えてください。

保坂:難しいですね……(笑)美術館の運営としてどうしたって目立つのは企画展。企画展は普通単発ですけれども、シリーズ化して美術館の姿勢を示すこともできます。近美で今シリーズ化されている企画の一つは「現代美術の視点」というシリーズで、この前私が企画した「エモーショナル・ドローイング」で第六回目でした。もう一つは「写真の現在」というシリーズで、今までに三回開催されています。ただこうしたシリーズというのは多くの美術館がやっているので、それらを近美ならではの試みと言うのは難しい。  「東京国立近代美術館」は、厳密に言えば、ファインアートを扱う「本館」、応用美術を扱う「工芸館」、フィルムのアーカイヴ機能を持つ「フィルムセンター」という三館で構成されています。フィルムセンターという、かなりの大きさの映像部門を持っていることも近美の特徴と言えます。横浜美術館川崎市市民ミュージアム なども映像を収集しているけれど、あくまでも美術館の一つの部門としてであって、「美術館」の名の下にいくつもの「館」があって、それぞれが違った活動をしている美術館は他にほとんどないはずです。でも、あまりないだけに、対外的に説明しようとなるとちょっと複雑な話になってしまうのが問題でもあるのですが。  また、同じ国立でも、国立新美術館と違って近美にはコレクションがあります。だから、良くも悪くも僕らにはコレクションにふさわしいかどうかという尺度で作品を見る癖がついているように感じています。よく知られているように、美術そのものには、作品が巨大化する傾向があったり、権力や歴史から逃れようとコレクションできないような作品がつくられた時代もあったりしたんですが。でも面白いのは、NYのDia Art Foundationなどのように、そうした作品すらコレクションしてゆくという動きも出てきているということですね。所有したいという欲望と、それに対する反発の繰り返しで、美術や美術館の歴史は動いてきたともいえるわけです。  ということで、近美ならではの特色をひとつあげるとするならば、それはやっぱり、作品を購入し続けてゆこうとしていること、でしょうか。国内の公立美術館では作品購入予算ゼロという時期がありましたが、その頃も近美は作品を買い続けていました。なんていうと、「よくお金ありましたね、さすがは国立ですね」と言われてしまうのですが、一般論として申しあげますけれど、たとえば、大きな展覧会、費用のかかる企画展をやり続けることと作品購入とを天秤にかけて、大きな展覧会の方をちょっと我慢すれば、コレクションに予算を少しでも回せる可能性が出てくるはずです。実際にはなかなか難しいとは思いますが、問題は、収集し続ける意志をどうやって保持していくか、そのストラテジーを構築するところにあると思います。

02 美術の根本的なテーマによって同時代美術をみる

佐々木慶一:本館の企画展「現代美術への視点6:エモーショナル・ドローイング」(以下エモーショナル・ドローイング)では、現代のアーティストを表に出そうとする気迫を感じました。近美では、そうした土壌を今つくろうとしているのですか。

保坂:その質問は、「近代美術」館で、「現代美術」を扱う意義とはなにか、という風にも言い換えられると思います。確かに、「近代美術館なのになんで現代をやるのか?」と同業者からも言われます。大事なのは、「近代」を、たとえば1900年から戦後までと時代で区切るのは一つの考え方に過ぎない、とか、近代は時代概念でなく価値概念として理解されるべきである、といった認識をきちんと持つことではないでしょうか。「近代」を価値概念としての「モダン」という意味合いで捉えれば、今ここにいる私たちだってモダンである、近代的であるといえるかもしれないのです。その意味では近美が現代美術または同時代美術を扱うことは矛盾していない。  その上で、東京都現代美術館 (以下都現美)などとの違いは何かを考える必要があります。都現美は「MOTアニュアル」という若手作家を中心とした展示を毎年行っていますよね。あるいは、都現美にいた人が国立新美術館に移動して、そこでは「アーティスト・ファイル」というアニュアル形式の展覧会を開催している。それらと比較して言えるのは、近美はモダンとは何なのか、どのように定義できるのかを、同時代の美術を通じて考え続けているということです。「モダン」はときに新しさを意味しますが、モダン・アートと呼ばれるものの歴史的な蓄積がすでにある。それらと今のアートがいかに接合するか、またいかに離反するか、といったように、近美は同時代の美術に対して水平軸的に対峙しています。都現美などはどちらかというと垂直軸的で、今という時代をパンッと切った時の切り口がどんな感じなのかを見せるという手法だと感じています。今のアートの潮流、主流、特徴はこういう感じだと打ち出してゆくやり方だと言えばいいかな。 じゃあ近美はどうか。近美が開催している「現代美術への視点」という不定期のシリーズで、「エモーショナル・ドローイング」(2008)の前のテーマは「連続と侵犯」(2002)でした。これは実は、「伝統と革新」という言葉に置き換えられます。いままでの連続性、すなわち伝統と、それを犯して/侵してゆく革新。それより以前のテーマは「絵画、唯一なるもの」(1995)、「形象のはざまに」(1992)、「色彩とモノクローム」(1989)や「メタファーとシンボル」(1984)でした。情動、素描、伝統、革新、絵画、唯一性、形象、メタファー、シンボル、色彩、モノクローム……極めて基本的で重要な美術概念じゃないですか。そこからすると、近美が同時代の美術を扱う時は、美術の根本的なテーマによってそれらをみるというスタンスでやっているとも言えるでしょうね。

03 自分たちの立ち位置に関しては意識的

佐々木:「エモーショナル・ドローイング」では、作家さんの経歴にも現代社会の問題が表出されていました。時事的な問題とかかわりのあるアーティストを近美が後押しする意味とは?

保坂:僕個人の作品観かもしれませんが、優れたアーティストはつねに何らかの形で時代性を反映します。作品が時事的な背景を扱っていないにしても、です。アーティストといえども社会と無縁で生きていけるはずはないのですから。それに、変革を求めていようが求めていなかろうが、個人的なメッセージを対外的に放出するという表現行為それ自体がきわめて政治的だと思います。そういう考えを持ったキュレーターである私が作品を選んでいるので、時事的な問題にかかわる作品が集まっている、そう見えるのかもしれません。 おそらく近美は、コレクションの収集と展示においては、時事を反映していると思える作品を積極的に取り上げるスタンスはあまりとっていません。ですが、企画展はちょっと違う。今(2008年12月現在)開催されている「沖縄・プリズム 1872-2008」が良い例です。沖縄の美術館が沖縄をテーマにする際と国立の美術館が沖縄をテーマにする際とでは、視点はどうしたって違ってきてしまうでしょう。この違いは、沖縄に限らずどの地域においても生じてくるはずのものですが、「沖縄」の場合には、「日本」ないし「国家」との関係において、もうちょっと複雑な歴史、政治的な問題がある。でも、たとえそういう難しい展覧会だとしても、やらなければいけないと思えることは積極的にやる、そういうスタンスで近美の学芸員が展覧会を企画しているのは事実です。公立美術館がやるのと、国立がやるのとでは対外的に意味合いが違ってくる場合はあるわけで、そうしたときに国立は、普段以上にがんばってやらなきゃいけないし、実際にそうしています。そういう意味で、自分たちの立ち位置に関しては、近美は結構意識的だと思います。

中村:具体的にはどういうところを意識されていますか?

保坂:国立の美術館としてなにをやるべきかを視野にいれながら、展覧会の企画、ラインナップを考えていると言えるでしょう。が、現存作家を選ぶ場合はなかなか難しいですね。例えば地方自治体の美術館であれば、つまり各都道府県・各区・各市町村の美術館では、往々にして、地元の作家の優先順位が高くなる。あるいは地元作家じゃないとできない。でも実際には、そうしたことをほとんど考えなくてもよい公立美術館もあったりして、その場合には学芸員の責任感ある価値観に基づいて企画展ができるわけです。たとえば目黒区美術館では、この前丸山直文さんの展覧会をやったけれど、彼は目黒区とはほとんど関係なくて、今注目すべき活動をしている作家として選ばれていたはずです。 近美の場合は、地理的な束縛はほとんどありません。といって自由であるかというと、そうでもない。「近代」「美術」「国家」という大問題をつねに考えなければならないわけですから。外部から見れば、それは時に自意識過剰に見えるでしょう。しかし意識しないよりは、意識的であったほうがいいだろうと僕自身は考えています。

佐々木:それは「エモーショナル・ドローイング」の際にも意識されていたのですか。

保坂:あの展覧会を近美がやった理由のひとつには、アジアの現代美術作品を対象とした展覧会であるという点があります。以前「アジアのキュビズム」(2005)という、アジアにおける近代化の動向を対象にした展覧会をやったから、次はアジアにおける現代美術だろうとなるのは自然であり当然ですよね。 で、企画者となった僕は、アジアの現代美術を取り上げるけれども、アジアという言葉をことさらに強調する必要性は果たしてあるのだろうかと考えました。そして結論は、アジアを形容詞化することはむしろ避けるべきだというものでした。なぜって、アジアの美術と言った時に、「アジアからの」美術ではなくて「アジア的な」美術という風に捉えてしまい、しかもそうなると、作品の価値や内容とアジアというものを短絡的に結びつけやすくなってしまう。そしてたとえば欧米の美術との差異を強調してしまう。ヨーロッパなどで「アジア」「中国」「日本」と銘打った展覧会を見ていると特にそういうことを感じます。いまどき「ヨーロッパの現代美術」展って聞きませんよね?であれば、やや矛盾した言い方になりますが、アジアからの作品を紹介する展覧会をするのであれば、ある展覧会に行ったらクオリティがよくって、それはたまたまアジア出身の作家による作品だった、という風にならなければいけないと思ったわけです。地域性の問題は、その先に、自然に立ち上がってくれば、あるいは消滅してくれればよいと。

04 近美とアジアの美術

保坂:正直な話をしますと、アジアの美術という言い方をするだけで評価基準が甘くなっている場合があるように感じるんです。数合わせの為だとか、その国を代表する人を選ばなければという理由でハードルが下がっているのではないかと穿った見方をしたくなるときもあります。 したがって「エモーショナル・ドローイング」展は地域性を前提とせず、あくまでもテーマ本位、そしてクオリティ重視にしています。ちなみにあの展覧会には中国の作家が入っていないのですが、中国の美術のクオリティが低かったというのでは決してなくって、中国全土に比べれば本当に猫の額ほどでもないのですが自分たちがリサーチした範囲では、中国には今回の展覧会のテーマにあうと感じられる作品がなかったというだけのことです。 それと、もうひとつ言っておきたいのは、美術の領野における「アジア」という概念には、認識上、どうしても甘いところがある。特に日本は、「アジア美術」というときに、たいてい、西アジアのことはまるきり頭の中から抜け落ちてしまっている。例えば、トルコはアジアなのかとヨーロッパなのかいうことが最近EU加盟の件で問題になっていますが、トルコがアジアの展覧会の作品群に入ったことは、この日本においてはほとんどないわけです。

佐々木:これからの近美の方向性について教えていただきたいのですが。

保坂:近美は、展覧会も運営していますが、コレクションの活用やコレクションの形成を大きな軸としています。これは、企画展のスペース1300平米に対して、所蔵品展示のスペースに3000平米を割り当てていることからもわかるでしょう。その所蔵品展示において、今までは日本の近代美術を見せることを中心軸に据えて展示をしてきたわけですが、その中での海外の美術に関しては、戦前までであれば日本の美術に影響を与えた作品、すなわち西洋美術を組みこんでいき、戦後、あるいは1970年代以降であれば、そういった影響関係はなくなったものとして、もっと総体的に重要な作家や作品を見せるようにしています。そして実際のところ、アジアの美術はほとんど近美にはコレクションされていません。このバランスの悪さは、これから是正されていかなければいけないと個人的には感じています。それから展覧会に重要なのはリサーチですが、それをベースとしてコレクションというものが形成されていくだろうと思います。言い換えれば、いかにして自分たちのコレクションを相対化していくかということですね。絶対的な作品を見せるというのではなくて、常に自分たちのコレクションに対して懐疑的になって相対化していき、足りないところ、周辺領域を補っていくことが一つの指針となればよいと思っています。たとえば日本の近代美術というものを扱う時に韓国や中国との関係をどこまで考えていくのか、今までの展覧会で少なくとも近美ではほとんど考慮できていなかったのですが、でもこうした問題は、とりわけ韓国、中国、日本の若い研究者にとって、非常に関心のあるテーマとなっています。近美の同僚にもいます。「日本の美術」というものを語ろうとするときに、自分たちの観点からのみ語るのではなくて、他の観点も取り入れていくことは、今後重要になってくるはずです。


所蔵品ギャラリー(2F)


所蔵品ギャラリー(3F)


所蔵品ギャラリー(4F)
photo: Norihiro Ueno



佐々木:他の美術館と比較した時の近美の役割を教えてください。

保坂:六本木の国立新美術館に期待されている大きな役割のひとつは、一回で何十万人も入る大展覧会を開くことだと思うのですが、近美の場合、そうした役割を求められても、立地の点で不利です。ただ、その差を逆にアドバンテージにしていけばいいと思っています。大きな展覧会もたまにはやりますが、それ以外の場合にやらなければいけないのは、各学芸員の関心について問題意識に沿いながら、本格的に研究的な展覧会をしたり、何年かに一回は同時代の美術のテーマ展をしたりすること。各々の研究上の関心に立つならば、自ずと他館との違いは生まれてくるはずです。

05 感覚を研ぎ澄ましてさえいれば...

中村:展覧会のテーマ設定をする際に何故「今」その展覧会なのかということは普段意識されていますか。

保坂:今取り上げなければいけないとされるテーマと、自分のやりたいテーマが食い違ってしまうことは、ままあるでしょう。素直な気持ちで僕が言えるのは、展覧会は大きなリスクを背負って実現するものなので、自身が好きなテーマでないと最後まで企画を達成させるのは、精神的にも体力的にも非常に難しいということです。「エモーショナル・ドローイング」に関しても、今、世界でこれだけ悲惨な事件が多くおこっているのは、皆が人の気持ちを考えるレッスンができていないからであって、であれば、感情や情動を中心に据えた作品を通して、人が何を考えているか、どういうものに感動して、どういうふうに反応し、どういうものを作っているかということを感じる展覧会は非常に重要であるはずだ、だからこういう展覧会を企画しました、と言うことはできます。でもそれは事後的な説明であって、あるいは組織としてなぜこういう展覧会がオーソライズされるか、ということを考えたときにつくる説明であって、ごく個人的には、こういった世界に身を置いている以上、自分自身が感覚を研ぎ澄ましてさえいれば、自分が関心のあることは時代に求められていることであり、時代においても重要なことであるはずだ、という風に割り切っています。逆に言えば、自分の感覚と信念において企画した展覧会が「今なぜこれを」と言われてしまうのであれば、感覚が鈍いとして、猛省するべきなのです。 そもそも近美の場合、展覧会は決定してからできるまで3年から長くて5年ぐらいかかる。つまり、そんな先に求められていることなんてそうそうわからないわけです。近美は、トレンドセッターでありたいわけではない、だからとにかく自分達が重要だと思ったことをやっていく。

早坂はづき:学芸員が重要だと思った企画を優先にすると、来館者数の心配はないのですか。

保坂:少ない来館者数になってしまう展覧会をやっても、他でカバーして、年間トータルである程度入れば良いという考え方もできるのではないでしょうか。常にバランスが重要です。自分たちがやりたいことをやり続けるためにはもちろん何かを犠牲にしなければなりません。「犠牲」は、いわゆるブロックバスターの大きな展覧会の時に顕著になります。たくさん人が入る展覧会は良いと思われがちですが、ポピュラリティを出していくのは大変難しいことです。万人受けするためには、重要と思える複雑な部分をそぎ落とすことになりますから。そこでは、わからない部分をつくってはいけないのです。「ゴッホ展」を担当した時に、いろいろなテレビ番組、ラジオ番組に出演しなければなりませんでした。美術番組はまだ良い方だったけれど、お昼のニュース番組のワンコーナーに出た時に「印象派」という言葉をリハーサルで使ったら、プロデューサーからかな、「印象派」といっても視聴者はわからないかもしれません、他の言葉にかえてくださいって言われて。だから本番では「パリで流行した色がきれいな美術」だとか言い換えました。(笑)ある種のポピュラリティを得るためには、「わからない」とお客さんに認識させてはいけないわけです。そしてそういう場面においては印象派というような言葉すら使えません。わかりやすくしていくスタンスももちろん大事ですが、「印象派」を「色がきれいな美術」と言い換えた瞬間に、抜け落ちていくものがたくさんあるでしょう。でも、自分たちが重要と思える展覧会をやるためには、そこを我慢したり、納得したりしながらやっていかなければなりません。もちろん研究者としての矜持はカタログや紀要などで回復させます。ちなみに、大きな展覧会を運営する場合、担当学芸員の「裏」の仕事は、それこそ想像を絶しています。文字通り、人生の一部分の時間と体力を「犠牲」にしています。

06 人はなぜ表現するのか、それによってなぜ感動するのか

早坂:授業での映画や音楽・建築や文学といった話題の幅広さは、「エモーショナル・ドローイング」の作家さんの印象が偏っていないところと通じると思いました。

保坂:広く浅くですね(笑)。授業等で自由にやっていいと言われた場合には、自分の専門がファインアート、その中でも絵画だったとしても、敷居を低くして、広がりをもってアートを見ていく場にしたいと思っています。この大学はどうかわからないけど、意外とみんな閉鎖的でしょ。僕は西洋美術を大学で専攻していたけれど、クラシックを聴いているだけで音楽専攻の友人からは「クラシック聴くんだあ」と言われ、日本美術の展覧会に行くと日本美術専攻の友人から「見るんだあ」とか言われるわけ(一同笑)。  僕自身の個人的な関心はなぜ人は表現するのか、それによってなぜ人は感動するのか、ということなんでしょうね。「表現」が関心にある以上、そこに垣根をつける必要はないと思っています。  「エモーショナル・ドローイング」では確かに好きな作家を集めたのだけれども、ふるいにかけていく段階で、国や扱うメディア、つまり紙作品、インスタレーション、映像などのバランスは考えていました。「ドローイング」展というと、何も情報がないと「ドローイング」という固定した狭いジャンルを扱う展示だと捉えてしまいがちですよね。でも違うんです。東京都写真美術館でこの前「液晶絵画」展をやっていたでしょ。そのタイトルからわかるように、「絵画」というのは非常に包容力の広い言葉で、なんでも絵画と呼べる。そしてそのときには、絵画はジャンルとして1番最高位にあるというような含意をどこかで持っている。あの広さはずるい。でも、「絵画」がそのように言われるときには、どこか「上から目線」なのですが、ドローイングの場合は「下から目線」になれるんですよ。なんだかんだ言ってドローイングはみんなに、地域を問わずジャンルを問わず、世代を問わず共通している表現形式なはずで、であれば、なんでも「絵画」って呼べる土壌がある以上は、なんでも「ドローイング」と呼べもするのではないか……そんな意識から、あの展覧会ではできる限りいろんな表現を入れました。それは、僕自身のボーダレスなあり方への関心と関連があるのかもしれないですね。

佐々木:美術館を主軸にしながらも、現在『美術手帖』や『すばる』等雑誌での評論や大学の講義などもなさっていますが、今後やってみたい活動はありますか。

保坂:本を書くことです。言葉を生業としている者として、雑誌の評論や批評は作家がポンと打ってきたものに対してポンと打ち返す行為で、それはそれでとても重要だから今後もやっていくつもりですが、それとは別に、ポンポンとではなく、もうちょっときちんとしたかたちでドシっと受け止めて、ドンとまとめて出す批評をやりたいと思っています。その際、先程の印象派の話と矛盾するようだけれど、できる限りわかりやすく書くことも大切なので、そこに注意しながら挑戦したいと思っています。実際、いまある新書を執筆中です。美術の重要性があまりにも認識されていないという思いがあるので、美術をどれほどまでに重要だと思っているかを、まずは伝えていかないといけない。教養・知識としての美術ではなく、思考方法としての美術といったものをその本では書いてみたい。世の中にはわからないものがあって、わからないから重要だということを美術は投げかけているはずだ、というようなことを。

佐々木・中村・早坂:今日はお忙しい中ありがとうございました。

研究室終了時間となりインタビュー自体は終了しました。が、その後お話をする時間を割いていただき、インタビューでは聞ききれなかった疑問にも答えてくださいました。貴重な機会を、本当にありがとうございました。

(テープ起こし:佐々木、中村、早坂)


保坂健二朗 (ほさか けんじろう)
1976年生まれ
東京国立近代美術館研究員
武蔵野美術大学非常勤講師
慶應義塾大学大学院修士課程修了(美学美術史学)
2000年より現職
『美術手帖』『すばる』『東京人』などに寄稿


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