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museum 東京オペラシティアートギャラリー/TOKYO OPERA CITY ART GALLERY
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Copyright © Aomi Okabe and all the Participants
© Musashino Art University, Department of Arts Policy and Management
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©岡部あおみ & インタヴュー参加者
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インタヴュー

片岡真実(東京オペラシティアートギャラリー旧キュレーター、現森美術館学芸員)×岡部あおみ

学生:井上美奈、浦野直子、江上沙蘭、岡田江利香、笠原佐知子、鈴木さやか、松本彩、光井彩乃
日時:2000年5月12日
場所:東京オペラシティアートギャラリー

01 開発事業としての東京オペラシティの裏舞台

岡部あおみ:オペラシティの運営と事業主は複雑ですが、オペラシティアートギャラリーとの関わりのみに絞って簡潔に、話していただけますか?(詳細はデータ編を参照)

片岡真実:オペラシティの開発は隣の新国立劇場を作る用地が確定した段階から始まります。80年代後半に新国立劇場を初台に建てることが決まったときに、新宿の副都心の開発がここまで進んでいなかったので、周辺にアーティスティックな場所が特に無く、そうした場所が作りたいと、周辺の地権者に声をかけたんですね。もともと商店街がいっぱいある場所だったので、それぞれの地権者に声をかけつつ、日本生命やNTT都市開発などの大きな会社のディベロッパーがそれらの小地権者をひとつにまとめて現在のいくつかの事業者に分かれていったという経緯があります。もうひとつは都市計画上の問題で、新国立劇場を建てる建設費が充分ではなく、建物の空中権の容積を特別に隣の「東京オペラシティ外部」に移管し、400億から500億くらいの規模のお金を民間の「外部」側が国に払い、国は新国立劇場を建設することができ、民間側は中央のタワーを、これだけ巨大に建てることができた。このタワーのテナントの賃料で左右にあるコンサートホールとアートギャラリーを運営するという、もともと不動産開発事業として始まったプロジェクトです。現在の事業者は文化庁、日本生命、NTT都市開発、小田急電鉄、第一生命、山大鉄商、相互物産、寺田小太郎、京王電鉄、昭和シェル石油の9社、オペラシティの全体を開発した会社になります。文化施設部分を所有しているのは日本生命から相互物産までの6社で、京王電鉄と昭和シェル石油は文化施設には出資せず、寺田小太郎さんは、アートギャラリーにコレクションを寄贈する形で文化施設に参加しています。
東京オペラシティの9社全部が出資している部分は「東京オペラシティビル株式会社」というビル管理会社がテナントの管理、レストランやショップの管理をしています。コンサートホールとリサイタルホールは貸しホールとして音楽事務所やオーケストラに貸し出しているのでその管理、それからアートギャラリーの方は「財団法人東京オペラシティ文化財団」という私が所属しているところが365日、年間を通して借りていますので、その貸し出しとハード面での文化施設の維持管理を「東京オペラシティアーツ株式会社」が運営をしています。「ICCインターコミュニケーションセンター」は、タワーのテナントの一つで、事業者すべての直接管理ではなく、NTTの広報宣伝部分の一部分になってます。

岡部:片岡さんが属している「財団法人東京オペラシティ文化財団」で、どれくらいの人が働いているのですか?

片岡: 16,7人だと思います。理事会に属している理事長と事務局長のうち理事長は非常勤で、事務局長は常勤です。事務局長の下は総務部と事業部に分かれていて、総務では総務と経理、事業部はコンサートホールに関する営業、広報・宣伝、アートギャラリーのキュレーションと4つの部門に大きく分かれています。

岡部:アートギャラリーの「インターナショナル・アドヴァイザーズ」に知人が入っているのですが、あとはどなたですか?

片岡: 3名の方で、前ストックホルムの近代美術館のデイヴィッド・エリオットさん(現森美術館館長)、フランスのジェルマン・ヴィアットさん、ニューヨーク近代美術館のロバート・ストーさんです。

岡部:ここの財団には設立事業社からの出向の方がいるわけですね。

片岡:デザイナー組織には、理事長、事務局長それから事業部長が日本生命からの出向者、総務部長がNTT都市開発から、それ以外は財団のプロパーの職員または契約社員です。

02 天井まで11メートルもある展示室の設計とキュレーター稼業

岡部:片岡さんはここで初めてプロパーの職員として入られたのですか?それ以前は関連事業者の会社に関わっていらしたわけではないのでしょうか?

片岡:私自身はこの文化施設の計画が1990年から始まって、そのコンサルティングをしていた日生基礎研究所というシンクタンクがあり…これは日本生命がいちばん大きな所有権を持っていた日本生命の会社で…そこで文化施設の計画作りを親会社に対してだけじゃなく、自治体などにもコンサルティングをやっていて、その一環としてこのオペラシティのプロジェクトには1992年から関わり、アートギャラリーの担当をしていたんです。方向性を検討したりする計画段階にオープンするまで7年くらいいました(笑)。

岡部:ということは建築や内部スペースのディスプレイなどにも関わってきたのですか?

片岡:ええ。すでに基本設計が大体できていて実施設計もほぼ固まっていたので、大きな枠組みについてではないですが、最終的な導線の確認、インテリア、内部のディテールとか配線関係は管理に加わっています。

岡部:かなりご自分の意見を入れていただけたという感じですか?

片岡:かなりディスカッションできたと思います。設計は新国立劇場がもともと国際コンペで、東京都現代美術館を設計した柳沢孝彦氏の「TAK」“建築計画研究所”で、そこに設計を依頼しつつ、NTTの設計部、「NTTファシリティーズ」と、街区全体の都市計画のコンサルタントをしていた「都市計画設計研究所」の3社が「東京オペラシティ設計共同企業体」を作り、ジョイントベンチャーで設計・管理全体が進んでいました。施工の代表は竹中工務店で、今の組織もそうですが、設計も計画もどこを切り取ってもいろんな会社からの寄せ集めだったんです。

岡部:最近建設された美術館やギャラリーに比べてもかなり天井が高いですね。最初の設計段階から決まっていたんですか?水戸芸術館よりも高いでしょう?

片岡:そうですね、ライティングのところが6mで、実際にいちばん高いところで11mあります。水戸は高いところと低いところがありますけど、うちはほぼ同じ高さで、箱としては大体決まっていたのですが、途中で企画展示室だけが二層吹き抜けになり、上階の寺田ギャラリーは3mの普通の天井しかないんです。途中で予算の関係もあり、トップライトをなくそうとか、吹き抜け案が消えかけたこともあったんですけど(笑)、下で現代美術の企画展をやって上のフロアではコレクションを見せるという方向性が決まるのと平行して設計も固まっていったんです。

岡部:全部で展示面積は何・くらいありますか?

片岡:ギャラリー1のほうは約210・、ギャラリー2のほうが420・、それからコリドールという廊下の部分が大体90・、上階はギャラリー3とギャラリー4とあわせて350・くらいです。それに同じく90・のコリドールがついている。

岡部:人員としてはキュレーターが2人で、アシスタントキュレーターと役割分担はどのようになさっているのですか?

片岡:学芸の部屋にはキュレーター2人とアシスタントキュレーター1人、位置づけとしてはアルバイトで組織図には載っていないのですが、広報担当が1人とカタログの編集アシスタントが1人で、計5名で動いています。それで年間企画展を4本やるので、キュレーター2名で交代で担当し、アシスタントキュレーターと広報とカタログの編集担当は必ずこれにつくので、アシスタントの人たちはみな働き詰めになり(笑)、しかも上階の収蔵品展もやっているので、企画が担当でないときには上の収蔵品展を一つ作ります。

岡部:つまり必ず毎回ですね(笑)。

片岡:そうそう。展覧会のオープンした日に100mを泳ぎきって、一瞬足をついてまた後ろを向いて泳ぎ始めるみたいな(笑)、そんな暮らしですね。

岡部:コレクションは何点くらいあるのですか?

片岡:コレクションは2700点くらい。半分以上がペーパーワークなので引き出しに入ってます。

岡部:現代を中心になさるわけだけど、何か企画展の方向性はあるのでしょうか?

片岡:「東京オペラシティアートギャラリー」をどういったアートスペースにしていくかということを、予算のことも含めつつ7年かけて検討してきて、既に90年代の初めに「東京都現代美術館」の計画もありましたし、今ほどいくつかのアートスペースがクローズしていく状況ではなくて、箱としては都内にはスペースが100ほどもある状況だった。そういったときに東京なり社会全体でみたときにいまだに必要とされるもの、作って意義のあるものとは一体なんだろうということをコンセプト的に考えて、また予算の枠が決まってきまして、新国立劇場とコンサートホールがまず開館し、そこが武満徹氏を中心として独自の現代音楽系のプログラムと決まったので、バランスも考えて現代美術でいくのがいいのではないかと。ただし、東京都現代美術館のような大きなお兄さん施設(笑)ができる計画も既にありましたので、欧米のクンストハーレ、オルタナティブスペースのような感じですか、日本ではアーティストが個展をやるまでに60才70才まで待たなければならないという状況があるから、今とても元気があって活躍しているアーティストで、コマーシャルギャラリーで個展をやっているに留まるには惜しいアーティストを国内外に関わらず取り上げていこうということで…。特に言葉としてのコンセプトはもうけなかったんですけれど、大体の層としてはそのあたりを狙っています。日本のアーティストは海外できちんと認められて展覧会歴もあるアーティストにも関わらず、日本で未だにきちんと紹介されていないアーティストを個展形式で紹介していこうとも考えました。

岡部:展覧会の企画の方針は財団の事業部長や事業局長に相談しなくても大丈夫なのですか?

片岡:ええ、一応報告はしますけれど日本生命からの出向者なのでビジネスサイドでの判断をすることはできても、キュレイトリアルな判断はする立場ではないので、事実上は今2人キュレーターがいて一応私がチーフということでアートギャラリー内の予算管理も全てやっていて、その予算の範囲内でプログラミングできるのならそれでいいと。

03 予算1億、プロのアートマネージャーはアメリカでも修業

岡部:全体の予算はどれくらいなのですか?

片岡:今、オペラシティアーツ株式会社の方に家賃を払わなければならないかたちになっていて、家賃がかなり大きいのと多少の人件費とかあるので事業者から年間もらっている協賛金が1億です。その中で家賃と人件費と全ての年間のプログラミング経費とを出していかなければならず、具体的な予算としてはその1億円プラス入場料収入とカタログ販売と助成金などを加えた1億6千万から7千万くらいの間で年間予算を組んでいます。

岡部:来館者は年間どれくらいですか?

片岡:いちばん初めの「感覚の開放」という展覧会はかなりのヒットで2万4500人くらい。それで大体1千7,800万円ほどの収入になる。予算上は入場料収入は1本の展覧会で1千万から1千200万円くらい。3回目にやった宮島達男の展覧会は開館展と同じ2万4000人くらいで、興業的には結構パチパチパチって感じだったんですけど(笑)。

岡部:黒字ですものね(笑)

片岡:ええ。逆にもらっている1億円だけでやっていこうとするとかなり小さな規模の展覧会しかできなくなって、伊達にというか変にというか展示空間のスケールが大きいので(笑)、ある程度のものを入れないと見栄えがしなくて、展覧会のインパクトが消えてしまうのです。目標としては1日250人くれば1千万ちょっとの収入にはなる。事業者からの協賛金が1本、1千万から1千200万円くらい充当できるので、自律収入を含めて平均1本2千500万円くらいの予算で展覧会を作っています。

岡部:この前のオランダ展は新作が多かったので、資金がかなりかかったのではないですか?オランダから協賛金をいただけたのですか?

片岡:ほとんど新作ですね。展示にすごいお金がかかって…。オランダ展は協賛金や助成金をもらった展覧会としてはとても優秀な展覧会で(笑)、建国400周年の特別予算がついて、4本の助成を申請して4本とももらえちゃったんですよ。モンドリアン・ファンデーション、オランダ大使館、芸術文化振興基金も。そのとき開催したシンポジウムにはポーラの財団が助成をしてくださって、あわせて650万円くらいの助成金の収入があったので、入場料収入とあわせて全体で2800万から2900万円ぐらいになりましたが、トントンでしたね。50万円足りなかったくらいですが、途中でやりたいものがだんだん膨らんでしまって、展示が大変だったのでどうなることかと思ったんですけど、助成金をもらっていたので何とか。

岡部:片岡さんはマネージメントもプロですね。研究員、リサーチャーとしてだけではなくて運営・管理のことも勉強なさっていた経験があるのですか?

片岡:ええ、組織図も山のように書いていたりしていましたけど、あとはリサーチの予算を自分で管理していたり。オペラシティのコンサルティングは継続した仕事だったので、数千万円単位のリサーチでした。あとディレクターを篠田達美さんがなさっていた有楽町の東京国際フォーラムのアートワークの運営もやって、金額的には大きなプロジェクトで、購入予算は全部で5億8000万かな?しかもいろんな人の動きもあったのでかなりな規模のプロジェクトでした。

岡部:総額にすると10億円くらいでしょうか?

片岡:そうですね、10億まではいかないですけれど、人件費などを含めると多分7億円くらいはかかっているでしょうね。

岡部:お金の管理の経験があったわけですね。

片岡:そうですね。やってみてどんなものかな(笑)、と思いながら手探りで実際やり始めたんですけれども。

岡部:現代アートには東京フォーラムのアートワークの頃から関わっているのですね。

片岡:ええ、具体的にアーティストに会って仕事をし始めたというのはそうです。

岡部:実際に篠田さんと一緒にアーティストに会ってお金の交渉もなさったのですか?

片岡:そうですね。でもその頃は後ろについてフムフムと言って覗いていただけですけれど(笑)

岡部:大学を出られてすぐにシンクタンクに入られたのですか?大学はどこですか?

片岡:愛知県内の大学を出て2年くらい、その頃は名古屋にいたので名古屋の小さなギャラリーに勤めていたのです。今はなくなってしまった、特に現代美術という訳ではなかった画廊です。大学のときに1年間アメリカのペンシルバニア州の大学に留学してました。愛知にある教育大学の美術科だったので、そこのプログラムで留学したんです。特にミュージアムスタディということではなくて、大学の頃はキュレーターという仕事があることも知らなくて(笑)

岡部:教育大だったら、ミュゼオロジーとか博物館学は受講なさらなかったのですか?

片岡:学芸員資格が今は教育大でも取れるんですが、当時は取れなかったので。通信で取ろうと思うと仏教大学か玉川大学しかなく、2年間画廊にいる間に仏教大学の通信で取ったんです。

岡部:アメリカでは何を勉強なさったのですか?

片岡:美術史を取りましたし、教育大なので小・中学校の教育課程にあるくらいの実技は一通りやらなければならないので実技系のものも取っていました。例えば版画などは特にやってみないとどういうプロセスになっているのか分からないところもあり、やっておいて良かったです。日本の大学ではかつては、リトグラフなどはできなかったんですよ。それをアメリカに行っているときにリトのコースを取ったり、日本ではできないものを補充しました。

岡部:名古屋に戻って画廊に2年くらいいて、ご自分としては画廊を経営しようという夢があったのですか?

片岡:いえ、そういうのは全然(笑)。全然なくて、多くの人は地元の先生になっていくんですけれど、留学してしまったこともあって自分の知らないことがいかにたくさんあるかということに気付いてですね(笑)、今既に知っていることをもとに何かをやっていくというよりは、知らない部分にも入っていきたいなと思って、画廊にいれば勉強にもなるかなと。

04 自然体なヨーロッパのアートスペースの運営に惹かれる

岡部:アメリカに行ったことが画廊に入ったことに影響しているわけですね。

片岡:そうですね、当時は、ジャスパー・ジョーンズが初恋の人だったんです(笑)。

岡部:素晴らしいものね。今は違うんですか(笑)?

片岡:今はいろいろ浮気を(笑)。画廊にいたのが1988年、89年くらいでバブルの全盛期、それで作品を価格で、市場価値で見るようなことになってしまって、当時はジャスパー・ジョーンズが本当に高くなって、日本画の画商さんの方とかも突然画廊にやってきて、「ジャスパー・ジョーンズって人がいいらしいんですけど、おたくにありますか?いくらでもいいから買いますよ」みたいな人が登場したりした(笑)。オークションカタログとかで昨日まで3000万円だったのが今日見たら6000万円みたいなことが普通に横行していたので、商売はちょっと違うかなということを考えたんですよね。私のいたギャラリーのオーナーはコレクターの人で、ギャラリービジネスを特によく知っていて始めた訳ではなかったし、わたしも大学をでてすぐで、誰にも何も教えてもらえなかったので、なんとなく様子を探りながらやっていたって感じでしたね。わたしのこれまでの人生において結構多いパターンですけど(笑)。

岡部:名古屋は、河原温さんや荒川修作さんの出身地でもあって不思議な都市ですね。

片岡:そうですね。当時は南條さんがディレクターをはじめた高木さんのICAナゴヤもあったんです。実際にアーティストが来て仕事をして、新作を作っていくというスタイルがあることはその頃まだ珍しかったし、アキラ・イケダギャラリーもまだ元気で海外のアーティストがたくさん来てましたね。その頃はまだNY派だったのですが(笑)、今はもう少しヨーロピアン、オリエンテッドになってきています(笑)。

岡部:どうしてヨーロッパのほうに傾斜しつつあるのでしょうか。

片岡:最近のことですが、イギリスに大きなムーブメントがあったことにも影響されていると思いますし、運営のスタイルとして企画展を中心にするクンストハーレ的な活動を自然にしているところがヨーロッパには多いのかなと思って。それで、オランダとかベルギーとかドイツとかに行きはじめるようになり、ラディカルに声高な活動をしている訳ではないんですけど、何て言うんでしょう、淡々と自然体でこういうスペースを運営しているところが普通に町の中にある。むしろ、そういうふうになりたいという願望もあります。東京には、パーっとできて急にいなくなったペンローズインスティテュートとか、東高現代美術館とか、いいプログラムだったんですけど結局長く続かなかった現代美術のスペースがありましたから、ここもどうなるか保証されてはいないんですけど、華々しくオープンしてすぐにしぼむよりは、きちんと定着したいなという気持ちがあります。

岡部:地道にやって行きたいという…

片岡:そのスタイルを考えると、自然にやっているヨーロッパの感じの方がいいかなと。で、アメリカももちろんオルタナティブスペースがあるんですが、NYは市場での動きの面が強くて、アーティスト自身も消費されているような印象があります。

岡部:NYは外国のアーティストが多いですよね、日本人を含めて。

片岡:アーティストの方もわかっていて制作をするならヨーロッパがいいけれど売ろうと思ったらNYに行かなきゃいけないと。だから、NYはアートマーケットの中心でかならずしもアートシーンの中心ではないというのがヨーロッパの人たちに共通した認識だなと思って、私も共感するところがあります。とはいえNYには行かなくちゃなと思いながら2年くらい行ってませんね。

岡部:プログラムもヨーロッパと日本が中心になっているのですか?

片岡:「出会い」展もそんな感じで、具体的には6組のアーティストのグループショーで、アン・ダームスがベルギー、プラメン・デジャノフ&スウェトラナ・ヒガーはウィーン在住。ヤン・ファーブルがアントワープ在住、イリヤ・カバコフはNYで、島袋道浩くんと野村誠くんは東京ですけど、島袋くんは一年くらいずっと旅をしているので住所不定。渡辺英司くんは名古屋のアーティストで、ジュン・ヤンは中国生まれのウィーン在住と、たまたまウィーンから2組とアントワープから2人呼ぶことになっていて結果的にそうなっています。アメリカのこともアップデイトしなきゃなとは、思っているんですけど(笑)。アジアのアーティストもとても元気があるし、全部を網羅することはとても無理なので、あまり無理をせず、ある程度は成り行きに任せて(笑)。どこどこの国のアーティストとか外国人アーティスト展とかいうのではなくて、「出会い」展もそうですが、なるべく混ぜたグループショーにしたいと、年代的にもかならずしも若手ばかりではなくて、少し前の世代のアーティストにも若手と一緒に仕事をしてもらうことで新しい光を与えるというかまた別の角度を見せたりもしていきたい。観客や街の中の人達と具体的に出会ってそのプロセス自体を作品にしていくタイプの人たちと、いろんな素材だとか世の中で起こっている現象だとか、企業という美術とは直接的には関係ないと思われているような分野の人達とか、あらゆる人達とかモノとの出会いですね。

05 広報担当が雑誌社などに説明しに押しかける

岡部:これだけの大きなスペースで個展をやれるのもすてきな機会ですよね。宮島達男さんの「メガ・デス」展もすごく感激しました。

片岡:あれはヴェネチアにいくことが決まる前に個展の開催をお願いして、うちの壁面とヴェネチアと両方ちょうどいいサイズのものをつくろうということになって…。

岡部:ただいつも自主企画なので、大変ですね。

片岡:ちょっとヘトヘトしていて(笑)。ずっと自主企画で開館展から「出会い」展までで7本目ですが、その後、イギリスのオックスフォードの近代美術館がつくった巡回展で「ヒッチコックと現代美術」という展覧会をやることになっています。自分達でちゃんとリサーチを続けてする時間もとらなければならないし、情報を消費するだけで終わってしまうので。アーティストのミーティングで海外に行くときに、次の情報を得てくることしかできなくなってしまいますから。少し充電期間を入れたいので、「ヒッチコック…」展の後、ジェローム・サンス(現パレ・ド・トーキョー・ディレクター)とホー・ファン・ルーというフリーのキュレーターたちがソウルから巡回させる「マイ・ホーム・イズ・ユアズ、ユア・ホーム・イズ・マイン」という展覧会を開催します。これは日本人を含めた10人くらいのグループショーです。巡回展の新しいスタイルで、コアのキュレーターがいながら、巡回する先のローカルキュレーターともコラボレーションして、作品をかえたり新しいアーティストを組み替えたりするんです。

岡部:巡回展も展覧会開催の実務としては同じですから、やはり大変ですけども。

片岡:あとは新聞社との共催も、どういうかたちでコラボレーションしていったらいいのかを模索しているところです。名義後援、名義共催は2回目にやった「難波田龍起」展と宮島達男の展覧会が朝日新聞社との共催だったんですが、ほとんど名義共催で、記事を書いてもらったりする媒体にはなっているんですけど。

岡部:入館者はどのような人たちが多いのでしょうか。若い女性が多いですか?

片岡:女性が74%。4分の3が女性で、30才までで大体の75%。おもしろいのは、情報ソースが新聞からの人は8%しかいないことです。たとえば朝日新聞社から宮島達男の個展のチケットがまわって見に来たおばさんたちもいたんですけど、全部見終わった後で「ところで宮島達男さんて方の絵はどこにあるの?」とか探してる人もいて(笑)。あと部屋が暗いので「暗いところは駄目だわ、私」と言って全然見ないで出ていってしまう人もいた(笑)。やっぱりミスマッチなんですね。だから情報ソースは、おもにテレビ、雑誌、口コミで、大体会期が2ヶ月ちょっとくらいにしているので、口コミの影響が後半部分には出てきます。最初はテレビ・雑誌辺りにどれくらい出るかで入場者数が左右されます。

岡部:雑誌その他に、広告は出さないのですか?

片岡:広告はほとんど出していません。「ぴあ」くらいで、そのかわりプレスリリースを毎回つくって、プレスリリースは大体700件くらい送り、宮島達男の個展のときは、たしか80件か90件くらい小さな情報欄に載りました。積極的な広報をしていこうと、担当を設けていますので、プレスリリースを発行した後で、説明をしに押しかけて行ってもらっているんですね(笑)。それはおそらく公立の美術館ではほとんどやっていない図々しさだと思うんですけど(笑)

岡部:主にメインの雑誌社みたいなところに行くのですか?

片岡:美術関係の雑誌は行きますけれど、実際100件近くなると一般誌のほうががほとんどで、一般の女性誌とかファッション誌のアート欄みたいなところにいかに重複されて重なって載るかで、違ってくる。10件とか15件では全体には広がっていかないのですが、80、90件のレベルになったときに何冊も雑誌をパラパラっと見ますよね、そうすると複数回見るので記憶に残っていくと思うんです。そこに達するまで数字を頑張る。うちでやっているようなタイプのプログラムだと「美術手帖」を読む人はほっといても来ます(笑)。来館者を1万5千人、2万人に持っていこうとすると、美術コアのオーディエンスのもうひとまわり外側のドーナツ状のところにいる人達もターゲットに入れないとならない。

岡部:アウトリーチですね。一回押しかけて書いてくれたり、見たりしたジャーナリストたちはもう押しかけなくてもリリース送るだけで書いてくれる人が増えるわけですよね。

片岡:そうですね。電話がかかってきて「写真送ってください」と。担当を一人にしぼっていることで、人間関係もだんだんできはじめています。

岡部:ボランティアはいるのでしょうか?

片岡:今、受付と看視は「サントリー・パブリシティ・サービス(SPS)」というサントリー系の人材派遣会社に委託していて、全部しきっていてもらっているので、ボランティアは募ってないのですが、ボランティアがうまく機能するためにはボランティアに来る人のモチベーションを保たなくてはならなくて、そこまでのいいケアができるかどうか今のところ自信がない。展示のお手伝いをしてもらうこともあるのですが、基本的には私は有償アルバイトを好むタイプですね。

学生:宮島達男さんの展覧会を見に来たんですけど、新作で展覧会を行うときには、制作費やアーティスト・フィーをどのぐらい支払われるのですか?

片岡:結構複雑ですが、ヴェネチアビエンナーレの予算は3千万円でしたが、国際交流基金系の催しは大体、制作費枠がなく、新規制作費が出せないのです。しかもビエンナーレですから、2年間建物を使っていないので、パビリオンの補修に1千万円ほどかかってしまう(笑)。ということで、ほとんどアーティスト持ちだったんです。うちでも展示するという前提で、うちでの制作費を前払いするというかたちの契約を結んで、アーティスト・フィーと制作費込みで1千万円くらい支払っていますが、ほとんど制作費に消えていると思います(笑)。それでもし売れた場合にはその何割かは戻してもらうという契約です。

岡部:売れたんですか?

片岡:いや、売れてないです。

岡部:勿体無いわね、ああいう作品こそ買えばいいのに。外国に渡ってしまったらとても悲しい。

片岡:ただ34mの壁面が必要なので。

06 難波田龍起氏後援のプロジェクトN

学生:結構ここには来ているのですけれど、美術館によって大体チケットが毎回同じじゃないですか、ここはチケットの形が違っているので、おもしろいなと気になっていて、その辺は気を遣っているんですか?

片岡:チケットは、水戸芸術館もそうですが、どのように認知してもらうかという広報活動の一環で、チラシとポスター、招待状関係、チケット、カタログは基本的にセットで同じデザイナーに頼むことにして、ビジュアルデザインを統一しています。

岡部:最後の質問になりますが、常設展スペースに日本の若手作家の仕事を紹介するプロジェクトNはどのようにオーガナイズなさっているのですか?

片岡:プロジェクトNは寺田小太郎さんが集めたコレクションのコアのアーティスト難波田龍起さんが、難波田龍起さんも1997年10月に亡くなりましたが、1996年に文化功労賞に選ばれたときにご本人が亡くなるまで国から年金がもらえて、350万円ぐらいですか、残念ながら翌年に亡くなられたので2年間分だけでしたが、それに幾分かの寄付金を遺族の方がくださって、難波田さんのご意見で若い人をサポートするにための資金として使っています。プロジェクトNは難波田の“N”、一応期間限定で5年間でお金がなくなるまでやります(笑)。5年後にもし、偉い人が登場して「続けてやりなさい」ポン、とお金を持ってきてくれたら続くかもしれないです(笑)。

岡部:あれは常設展示の担当になられたときに手がけるのですか?

片岡:選ぶのは3人ですが、アシスタントキュレーターが一応窓口をしています。ここで発表することがキャリアにとって重要になると思われる人、廊下部分なので消防法の規制で立体インスタレーションはできないため、また難波田龍起さんが平面の作家ですから、やわらかな基準ですけれど、平面作家を中心にしています。作家の情報収集は、やっぱり世代的な問題があり、アシスタントキュレーターは今25才なので、25才前後のアーティストの情報はすごく集まるので、少し幅を広げますが、キュレーションのトレーニングの意味もあるので、作家のやり取りの窓口は彼女に担当してもらっています。3人で選んだ後、理事会メンバーの世田谷美術館の大島館長と神奈川県立近代美術館の酒井さんと寺田小太郎さんと理事長を含めた内部的な選考委員会で最終的に決めています。

岡部:寺田さんは何をなさっている方なのですか?

片岡:寺田さんは「サンデー毎日」とご自分では言ってましたけど(笑)、特に働いてらっしゃらなくて、不動産収入です。もともとアートギャラリーができたところに昔は住んでらっしゃって、山手通りの一部分もお持ちだし、昔は初台から杉並の近江八幡まで他人の土地を踏まずに行けたというお家です。今は新宿の界隈にいろんな土地がまだ点在していているらしく、ちょっと検討つかないですね(笑)。寺田ギャラリーの入り口にプレートがはってありますけど、確か応仁の乱のころに近江の国から出てきて、寺田小太郎さんで16代目、400年か500年続いているファミリーです。

(訪問日時2000年12月5日、インタヴューのテープ起こし:江上沙蘭)


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