イントロダクション
岡本太郎の世界がどんどん広がっている。安定した常識的な時代に、つねに背を向け、何歩も先を歩いてきた太郎さん。生前の岡本太郎は、どこか飛びぬけた奇矯な変人という扱いを受けていたように思える。有名人だったが、枠に嵌めようにも嵌められない、その形容しがたいエネルギーを、「アートの力」だと認識していた人は一体どのぐらいいたのだろうか。80年代後半だったと思うが、川竹文夫というディレクターが千里の万博公園にある「太陽の塔」を中心にNHKの美術番組にまとめた。おそらくそれが日本で開始する岡本太郎賛歌のファンファーレだったのではないだろうか。
1986年に、パリのポンピドゥー・センターで開催された『前衛芸術の日本 1910−1970』展に出品していただくために、美術館のスタッフとともに、現在、記念館に改修された岡本邸を訪ねた。ギョロリとした大きな眼で達者なフランス語を話す太郎さんと、かいがいしく世話を焼いてくださった敏子さんの姿が今でも忘れられない。二人のコンビは太陽と月のようだった。
パリを拠点とした前衛芸術運動アブストラクシヨン・クレアシオンのメンバーとして活躍し、さらにパリ大学のマルセル・モース教授との出会いを契機に、縄文をはじめとする民俗学への岡本太郎の貢献は、フランスでも知られている。だが、著作や制作など、多岐にわたる多才な太郎氏の創作活動を総合的に評価できる機会は、日本でもかぎられていたといわねばならない。1998年に青山の旧邸宅が岡本太郎記念館としてオープンし、翌年、川崎市岡本太郎美術館が開館して、やっとその全貌の一端を目の当たりにすることができた。太郎さんという人間から発散しつづけたエネルギーが眼に見える貯水池となって迎えてくれている。
その原動力となったのは、記念館理事長として、ギャラリー・トークにも意欲を燃やしてきた故岡本敏子さんだ。太郎氏と長い時間をともにした敏子さんは、太陽が消えた後、太陽光と月光をあわせもつエネルギーの化身となった。
かつてない不安な時代が到来し、人々が原点に戻って、既成の価値観とはべつに、人間の生存の意味や生きるための糧を探し求めるようになり、どんな時代にもびくともせずに輝き続けたひとつの太陽の軌跡に、多くの人々が心を寄せるようになった。それが、「ブーム」と言われる心の波間にひそむ本当の意味に違いない。
(岡部あおみ)