イントロダクション
倉敷にある大原美術館は、日本初の近代美術館として1930年に開館した。大原孫三郎の支援を受けて、画家の児島虎次郎が20世紀初頭にフランスやベルギーなどで収集活動を行い、1921年に倉敷の小学校で「第一回現代フランス名画家作品展覧会」が開催された。東京でも近代美術館はまだ設立されていなく、海外の現代作家展も珍しい時代だったから、列車で長時間かけて訪れる人もいて、遠い岡山県で目にした世界的名画のコレクションへの感激が語り伝えられた。
開館当時から変わらない本館の門構えは、ギリシア・ローマ風の列柱のある古典様式で、小ぶりながらもヨーロッパの美術館の伝統を受け継ぐ意気込みをみせている。戦後は、息子の大原總一郎が先駆的な日本の洋画と近代彫刻、世界の戦後美術、日本民藝運動を主導した作家たちのコレクションを行い、白い漆喰の壁が美しい倉敷の米蔵を改造した工芸館も誕生した。 ここの空間は芹沢けい介が床張りなどの装飾を手がけ、棟方志功の版画、濱田庄司、バーナード・リーチ、富本憲吉、河井寛次郎の陶芸、東洋美術の展示室に、独特な展示ディスプレイが施されている。
黒田清輝の薫陶を受けてベルギーに留学した児島虎次郎は、後期印象派の点描画を学んだが、帰国してからは東洋美術にもいそしみ、中国、エジプト・オリエントなどの古代美術も購入している。美術館の前にかかる橋や自分のアトリエ「無為堂」も自らデザインしており、文学にも傾倒しながら当時のトータル・アートの流れを汲む卓越した活動を行った。かつて児島が使っていたアトリエに若手作家を招くARCOというアーティスト・イン・レジデンスが近年実施されるようになった(津上みゆき、北城貴子、町田久美、三瀬夏之介)
各地に美術館が設立され、日本が美術館大国の道へと突き進むのは藤田慎一郎館長の頃だ。藤田館長と守田均学芸員の時代が続き、90年代になると経済不況のあおりを受けて、日本では美術館の長い冬の時代を迎えた。三代目の理事長となった大原謙一郎は、創立70年を祝い21世紀に向けた第三次創業に着手する。2002年には国立西洋美術館での豊かな経験がある高階秀爾館長が着任し、岡山県立美術館の若手学芸員の柳沢秀行も大原美術館に移った。これまで以上に地域を重視し、幼児・子供の美術館教育に力を入れ、現代の創造性をコレクションの充実につなげ、老朽化した施設の設備や作品修復に後援会からの寄付金を当てるなど、新たなマネージメントの方針のもとで、学芸部スタッフも増員され、ヴィヴィッドな活動が展開する。
美術館の刷新に、私自身もお手伝いをすることになり、「横浜トリエンナーレ2001」に出品されたジュン・グエン・ハツシバの映像作品『Memorial Project Nha Trang,Vitnam 2001』を日本の美術館でもっとも早く購入することができた。これを機会に購入活動も再開した。戦前に建てられた落ち着いた日本家屋の有隣荘で開催される現代美術の個展(福田美蘭、中川幸夫、田嶋悦子、やなぎみわ)、私自身も企画にかかわらせていただいた「会田誠・小沢剛・山口晃」の三人展などを通して、ユニークなコンテンポラリー・アート・コレクションが形成されている。
首都に大型の公立私立美術館が設立され、多くの興味深い企画展が活発に行われている今日でも、大原美術館に遺されたコレクションの光輝ある歴史にかわりはない。日本における美術館のはじまりとその困難な軌跡を知るものにとって、大原美術館は、人間の長年の営みによる文化の奇跡にも似た実践の類まれな実例といえるのではないだろうか。
(岡部あおみ)