インタヴュー
大原謙一郎(理事長)×岡部あおみ
大原謙一郎氏(理事長)© OHARA MUSUEM
01 大原の歴史、第3の創業
岡部あおみ:大原美術館は、理事長のお爺様に当たる大原孫三郎氏によって1930年に開館して以来、お父様の總一郎さんや藤田慎一郎氏など歴代の理事長・館長のご尽力によって、コレクションを充実させてきて、日本で一番最初に設立した近代美術館という大きな使命を担いながら、独自な歴史を刻んできた美術館だと思います。謙一郎さんの理事長の時代には、昔と違って日本の美術館状況はすっかり変わり、日本各地にありとあらゆる美術館が出来ている中で、大原美術館の特質をどう活かしていくのか、未来に向けてのミッション、それから地域を重視しつつどのような活動がありえるのかというようなことが大きな課題になってきたのではないかと思います。そういう流れの中で、理事長としては、今の大原美術館がどういうふうにあるべきか、そして現在は、例えば岡山や倉敷という地域において、どのような役割を担うべきなのかについて、まずご意見をお聞きしたいと思います。地方のとくに公立美術館が、財政的に苦しくなってきていますが、こういう状況をどう私立美術館の理事長という立場で、どう思われるかについてもご意見を伺えればと思います。
大原謙一郎:まず大原美術館のミッションですが、今、私たちの美術館は、第3の創業をやっているのです。第一の創業は、昭和5年、1930年。この時に孫三郎と児島虎次郎が考えていたのは、日本のいろんな人たちに対して、広く世界の美術を紹介したいということです。その背後には、虎次郎自身もそうですし、孫三郎もそうなのですが、日本に対する非常に深い素養があったからこそ、その上で、さぁ世界を紹介しようと、ある意味で世界と日本とを、ここで一つに出会せようとする気概があった気がするのです。そんな理屈は多分、孫三郎も虎次郎も考えていなかっただろうと思うのですけど。 虎次郎がとてもおもしろいのは、西洋で、西洋の文化をたっぷり見てきて帰ってきて、そうしたら中国に行くんですね。
岡部:そうですね。グローバルですね。東西を視野に入れていましたね。
大原:3回ヨーロッパに行って、中国には4回行っています。そういうことをベースにして、世界に日本を紹介する、日本を世界に紹介する、これを一つのミッションに考えていたと思うのです。ところが、第二次大戦という大変なことがあった。その後から、この美術館を運営していったのが大原總一郎。これがある意味で第二の創業だったと思うのですが、敗戦の中で焼土と化した国土で、もう一度日本がクリエイションしてきたものの成果、そして日本の生活の美しさを見直してみようという気持ちが強かったのだろうと思います。それから、世界大戦によっていずれの国においても大きく価値観が展観した、まさにその戦後に、新たな社会の中で新たな価値観を模索したアーティストと向き合いたいという気持ち。
それが、世界の戦後美術の収集にもつながり、同時に民芸の作家たち、あるいは日本の近現代の油彩画の収集になったのが、第二の創業と言える大きな変化だったと思います。
そして、今、21世紀になって僕たちは、美術館の文化的使命やミッションがすごく広がっていると感じます。ですから、ミュージアムはものを展示する壁ではなくて、実際に活動する主体なんだよということ、これが21世紀のミュージアムに課せられたいろんな使命だと思っているのです。制作をするアーティストの方を向き、その作品とも向きあい、そして同じように観客をも大切にする。美術館はその使命を広く求められるようになっていると思いますけども、そういう面では高階秀爾館長と私と考え方がまさに一致していまして、ミュージアムは、子どもたちに対してもそうだし、地域に対してもそうだし、社会に対してもいろんなメッセージを発しながら活動をしていくという、そういう活動をするミュージアム、ものを集めて展示するだけではなくて、活動するミュージアムを作っていこうと考えています。これが第3の創業の一つのポイントだろうと思うのですね。
02 倉敷の人々とのつながり
岡部:2000年ぐらいまではミュージアムショップもなかったわけですが、新設したミュージアムショップなどもたんに美術館でおみやげを買ってもらうというだけではなく、一般の人たちにもう少し、デザインやアートに関連した、ものを買うという行為を通して、ミュージアムの存在や活動を知ってもらい、積極的な関与と一つのクリエイティブな行為を実際に楽しんでもらうという意味もあると思うんですね。
大原:ショップという場で、べつの形で美術品との出会いを体験する人たちは結構いますし、そういう意味ではミュージアムショップの存在も大きいです。それから、いろんな意味のアクティビティのなかで、目立つものでは、子どもに対する働きかけがあり、年間で4千名もの幼稚園生が美術館を訪れ、それにチルドレンズ・アート・ミュージアムもある。僕たちとしては、これはとても大事で、うちのミュージアムと接してくれることによって、子どもたちが成長していき、“小さい頃はこれが好きだった”が、だんだんとこれがあれがという風に成長していくのが楽しみでもあります。その過程の中で面白いのが、ちょっとシャに構えたような高校生ぐらいの子がやってきて、例えばゴーギャンの前に来て急に素直になって「わしゃー、これは、子どもの頃、こう思っとったんじゃわぁ」と語り始める。そういう風な形で美術と接することによって、子どもたちが、少なくとも自己変革のきっかけにしていっていることを見るのはとても嬉しいことです。
岡部:武蔵野美術大学に、京都の大学に2年までいて3年で編入してきた、倉敷出身の澤山遼という学生がいて、同大の修士課程を2007年に修了した卒業生ですが、彼の美術に対するある種の信頼感とか感受性を見ていると、さすが倉敷育ちというか、倉敷にある大原美術館の存在が非常に大きな影響を及ぼし、彼の感性の育成に関わってきたように感じます。大学にはいろんな地方出身の学生がいて、東京出身者もいるわけですが、身近に優れた美術館が存在する環境で小さい頃から育つというのはそれほど多くはありません。今はたくさん美術館がある東京でも、身近かというとそうでもないわけです。その辺の距離感を、倉敷は大都会ではないということもあって、大原美術館の伝統とこれまでの活動が、地域の人々に及ぼす影響は大きいと思います。それに特に最近は活動がより広がってきているし、理事長ご自身の地域における位置という面も、地域に根ざした活動もあり、教育的なレベルで、非常に大きな貢献をされていると感じます。
大原:それは大原美術館が、民間の私立であるということも大きいと思います。上から与えられたものではなくて、これはオラが美術館みたいな気持ちを地元の方に持っていただいていることが非常に嬉しいですね。逆に僕達が、倉敷という地場に、オラが美術館と思ってくれる人たちをバックに持っているから、僕達は世界に自由に出ていけるという気もします。今よく言っているのは、世界の美術品がある、一歩外に出たら江戸時代の町がある。そういう町にある美術館だから、世界に対してもいろいろ発言を出来る。こうした地元倉敷、そして日本というものにしっかり根をおろし、そのうえでさらに世界へという視座があるからこそ、東京の国立近代美術館で、去年開催した「モダン・パラダイス」という展覧会でも、それなりの面白さがありましたし、私たちが最近はパリとローマで、棟方志功の展覧会をさせてもらい、これに対する反応もよかった。ローマでは、ローマ大学の先生が高階館長の講演に来てくれて、彼といろいろディスカッションしているのです。イタリア語でしているわけだから、僕は何のディスカッションをしているかは分からなかったのですけど(笑)、ところどころ、ローマ大学の先生の口から、志賀直哉やら柳宗悦が出てきたりするのです。かなり突っ込んだ議論をしているということは分かったんですね。そういう形で世界との対応も出来る。これは多分、足元がね、地元にきっちり足を置いているから出来るので、足元がフラフラしていたのでは、世界からも相手にしてもらえないと思うのですね。ですから地元と私たちがしっかりと密着しているということは、地元の人たちのためにも何かプラスになるかもしれないし、私たちが世界に出ていく、世界と対応を進める一つの足場にもなっているという両方あると思いますね。
03 理想のミュージアム
岡部:今日もまた全館の展示をすべて見せていただいたのですけども、コレクションのレベルが非常に高いので、今、戦後美術の市場価格が高騰してきているなかで、例えば大原美術館所蔵のロスコやポロックなどの作品も、今、とても高くなってきていますから、何十億という値段になって、ここの美術館の資産はすごいことになってきたと思いながら見ていました。そうした世界の動きを歴代の館長たちもきちんと予見していたに違いなく、藤田館長、小倉館長、高階館長と続き、理事長とも非常にいい関係が続いてきて、大原美術館という名前で、大原という一つの顔が見えます。常に顔が見える美術館ということで信頼も出来るというところがあるのではないかとも思います。これはミュージアムにとっては一つの大きなメリットというかアピール力だと思うので、今は大原謙一郎理事長の指針というか、気持ちのありようや考え方が大変重要だと思います。
大原:多分、理事長の仕事は館の経営をきっちりやっていくことで、みんなが一生懸命、一つの方向に、ミッションに向かって働いてくれるような、そういう基盤作りが一つあると思います。それからもう一つが、うちみたいなミュージアムの場合には、理事長が、ある志を体言しているということが重要。ちょっと大げさだけれども、そういう人である必要はあると思います。だから顔が見えるとおっしゃっていただくのは非常に嬉しいのですけど、本当は顔は見える必要はないので、高階館長の顔が見えていればそれでよいと思っています。 こうした、僕らは、この美術館は、高階館長と共通する志を、ずっと70年に渡って持ってきて、これからも100年、200年持ち続けるということが大事だと思うんですね。ですから、ある意味で、大原美術館は開館以来70年を経て、もうじき80年近い歴史になるのですけど、その中で培ったDNAを私が体現して、それと高階館長のベストミュージアム、理想のミュージアムはこれだよという理想とが、上手く組み合っていかれればいいと思います。
04 高階館長との運営
岡部:高階館長は最初、国立西洋美術館の学芸員として出発され、東大の教授として活躍されるといった国立の施設との関係が長いから、逆に政治的な面が強い環境で生きてこられて、ご自分がやりたい事がなかなかしにくかった場所だったとも思うんです。国立西洋美術館の館長になられてからも、おそらくいろいろ苦しい体験が多かったのではないかという気もします。このへんの事情は、高階館長に直接お聞きしなくてはならないことですが。数年前に大原美術館の館長に就任されてからは、ご自分の理想を少しづつ、みなさんとのコミュニケーションの中でスムーズに進めてこられて、どこかお幸せな感じがします。
大原:月曜日、休館日に、まるごと美術館といって、子どもたちに来てもらうような会があるのですが、高階館長もよくそういうところに顔を出してくれます。それから、アーティストの眞板雅文さんが、当館の中庭で竹を素材にした大規模なインスタレーション作品を作った時、その仕上げとして近所の保育園の子どもたちが集まって、そこに野草の種まきをしました。そうしたら高階館長は、一緒になって種まいて、本当に幸せそうだったですし、そういうことが本当にやりたかったし、やりたいんだろうと思うのですね。
岡部:日本の公立の美術館だと、なかなかそういうことはしにくいかもしれませんね。そういう意味も、幸せな時代になっているのでしょう。
大原:そうですね。それから館長自身の発案で、高階秀爾の美術教室を毎月美術館の展示室でやってくれています。「名作とは何か?」なんていう、とんでもない話もでて、そんな事言えるのは高階さんしかいないと思うのですが(笑)モナリザからはじまって、ミロのヴィーナスは何故名作かと。そうした西欧美術に関するレクチャーがずっと続いているのですが、そういうお客様とのふれあいをご本人もとても楽しんでいただいていると思います。
岡部:そうですね。もう一つは高階館長が来られてから、一挙に国際化してきた部分もありますね。大原理事長もアメリカで勉強してらっしゃるから、もともと国際性のある方だと思うんですね。それで理事長と高階館長の非常にいい二人の組み合わせを通して、これだけ国際的なコレクションを持っているのに、海外ではまったく知られていなかった時代も長かったわけですが、二人の方向性として新たな三段階目の創業として、大原美術館を外に出していくといった展開も開始したという気もします。
大原:それは、世界とのつながり、それから地元とのつながり、そういった全部を支えているのが70年間のこの歩みです。そういう繋がり、広がり、歩み、全部が一緒になって今の美術館の姿を作ってくれていると思うのです。そういう意味では非常に恵まれた美術館だと思いますし、それだけに能弁たれてじっとしているわけにはいかないな、ということでいろんな活動を始めているのですね。
05 県の財政、後援会
岡部:岡山県は全国的にも知られている程、財政的にすごく難しい県ですが、そういう中で倉敷にある美術館としては、地方財政や県政・市政との関わりは、どう考えられていますか。
大原:西日本はそういう意味では、お役所、お上中心の社会ではないですから、町中心の社会ですから、私たちも最初から岡山に頼ろうという気持ちはなかったです。今もなるべく、上に頼らずにやっていくという姿勢は持ち続けたいと思います。
岡部:反骨精神ですね。(笑)。
大原:まぁね。だから自由だと。
岡部:創立したときから両方ありますね。
大原:実際、倉敷の町も、いろんな地元の動きを支えてくれているのは町中のみなさんですから、時々、東京まちづくり専門家なんていうグループが来て、「行政の志にどうやって民間を巻き込むかが大変ですね」、なんていうけど、ちょっとそれ逆でしょ?と(笑)。 そういう意味では、岡山県も財政が大変ですから、例えばお客さんを呼んでくる、ということに対してはいろんな協力はしますけど、やはり、まずは自分たちでいろんなことを回していくということを考えます。ですから、ミュージアムショップも一つのアンテナではありますけども、アンテナであると同時に、収益事業の柱ともならなくてはなりません。とにかく館の経済的なことは、全部自分たちで賄う。で、あと例えば作品の修復などは、大原美術館の後援会にお願いするように、いろんな方のいわば、ご支援に頼るということにならざるをえないと思うのです。
岡部:美術館で後援会が始まったのも、謙一郎理事長の時代からですけど、主にどういう方が参加してくださっているのでしょう。
大原:地元ではいろんな企業の方が入ってくださっています。それから後援会から一歩進みまして、第3の創業をサポートする基金を作りたいと思って、今、おかげさまで特別公益増進法人の資格をもらいました。それを基礎にして今度は全国からのいわば企業、経済人の皆さんから寄付をいただいてやっていこうかなと考えています。個人会員は一口、一万円で、法人会員は10万円ということでお願いしています。今まで、何年間かやって、数千万円オーダーのお金は集まっています。これがあったおかげで、ロダンの彫刻を修復でき、展示室の照明も新たな機材を投入できたなど、通常の経費ではできないことがやれたのですね。
岡部:修復には特別な費用がかかりますからね。これからもそうした美術館にとって必要なことで、なにか新たな展開のためのステップの費用に使っていくんですね。
大原:はい。ですから、第3創業基金ということをいっているのはそういうことで、設備のリニューアルも、特に収蔵庫が古いので、もう70年前とは様変わりで、技術の進歩もありますし、椅子の管理もありますし、それから照明もいいのがどんどん出てきてますでしょう。
岡部:設備投資は高額になりますから、そういうもののリニューアルに使えれば本当にいいですね。
06 美術館の中央集権
岡部:今、日本の美術館全体を見ていかがでしょう。日本の美術館の状況はこれまでいつも冬の時代、冬の時代と言われ続けてきましたが、いったい何が足りないのか、改善するには何ができるのか。私たち東京にいるものにとっては、非常にいい美術館が増えていて、企画展も多く、そういう意味では、地方とのギャップが出てきているのではないかという気もします。
大原:差があまりにも大きいです。ですからようやく九州に国立博物館が何十年ぶりかで出来ましたけれども、何十年ぶりかは困るのですよ。いろんな地方がそれぞれ、日本の国は、例えば津軽は津軽で棟方の風土があるわけでしょう。それで、九州は九州で非常に多く文化があるじゃないですか。美術だけに関しても、多くの絵描きたちを産んでいる風土があるのです。それは、それなりに大事にしていかなくてはいけない。例えば九州なら、久留米の石橋さんが、どうして東京にブリジストン美術館をお創りになったんだろうか。まぁ、今、勿論久留米にも石橋美術館がありますが。それに神戸の松方さんがなさったコレクションがどうして上野の山にいっちゃっているんだろうか、神戸に国立西洋美術館をおつくりになったらもっとよかったのに。と、まぁ、そういう形で、地方に独自の歴史と文化が育つ拠点に美術館はなっていけばいいと思います。
岡部:そうですね。中央集権になりすぎるのはよくないです。お忙しいところ、ありがとうございました。
(文字起こし 田中みなみ)
インタヴュー 2
柳沢秀行(学芸課長)×岡部あおみ
日時:2007年6月
場所:大原美術館
柳沢秀行氏
Photo Aomi Okabe
07 大原美術館の学芸員になって
岡部あおみ:柳沢さんが大原美術館に来られたのは2002年でしたね。
柳沢秀行:そうですね。今、6年目をやっています。
岡部: 大原美術館は、コレクションとしては、今でも日本でトップクラスの収蔵作品が多数あり、近現代までカバーしながら、しかもアジアの古美術、エジプト、メソポタミアの古美術まで含み、民芸にまつわる稀有な工芸品も多く持っていて、常設コレクションだけで入館者を年間30万人以上集められるという日本では珍しい美術館です。ある意味では美術館の発祥の地、美術コレクションが始まるヨーロッパ的な面があり、巨大なルーヴルと大きさを比べれば、規模は小さいとはいえ、ジャンルの扱い方など、グローバルをめざしているところがルーヴル的で似ています。しかも倉敷という土地柄を生かして、米倉を使うという環境展示なんかでもパイオニア的な存在ですね。藤田館長の後に小倉館長の時代があり、そして高階秀爾館長へと交代し、大原謙一郎理事長がさまざまな改革を推進してゆく新体制になったわけです。柳沢さんが大原美術館へ着任したものも、高階館長と同じタイミングですね。
大原美術館の初期コレクションの分析をベースに、日本におけるモダニズムの導入とメセナについて、パリのルーヴル学院で約6年かけて私が論文を書き上げたのは1986年だったのですが、フランス語だったため、日本ではあまり読んでくださる方がいなかったので、小倉館長時代に、それを大原美術館の紀要第一号として2003年に全文和訳をしてくださったわけです。2001年に、私自身も大原謙一郎理事長から依頼されて、美術館の刷新プロジェクトにご協力するようになりました。
当時はミュージアムショップもなく、コレクションも収蔵庫や予算の問題があって増強できる状態にはなく停滞しており、長い伝統をもつだけに、抜本的な改革を必要としていた時期でした。柳沢さんが入られた頃から、現代の作品を少しづつ集めることもできるようになり、上品だけど古めかしいホームページのデザインも変えたりして、大原美術館のイメージはがらりと変わってきたと思います。そのへんのことに関して、とくに古い伝統をもつ美術館が21世紀に美術館の再生へと動き出して、成功した例として、その経験をまずお話していただければと思います。また柳沢さんは岡山県立美術館にいらっしゃって、公立から私立に移ったというキャリアをお持ちで、現在は多くの公立美術館が厳しい運営問題を抱えて苦しんでいるわけですが、大原美術館の可能性を、どう感じているのかもお聞きできればと思います。
柳沢:もともと日本の近代美術史研究が自分の立脚点です。大学の卒業論文で取り上げたのが松本竣介。まじめに歴史研究もしていますが、ただ、松本竣介について考えていると、どうしても身体的なハンディキャップの問題、それに戦争期でしたから社会と個人、そしてアーティストの関係をすごく意識せざるを得なかったんです。それゆえ岡山県立美術館にいたときから、オーソドックスな美術館の活動もしますけど、美術館が世の中でどういう機能を果たせるのかということを意識して、ときには美術館の外の活動も随分していました。
そういう時期でも、夫婦そろって倉敷がすごく好きだから(笑)、休日になると、倉敷に来ていたんです。それに美術史の勉強をと本を読んでいて、セザンヌのタッチは?、ゴーギャンの図像は?といえば、大原に行けばその作家の作品が見られますから、本当に足しげく通っていたんです。僕自身が卒業論文で取り上げた作品もありましたし。その時には、大原には素晴らしいコレクションがあるぐらいしか気付いてはいなかったです。ただここに移ってきて大原謙一郎理事長の話を聞いていて、日本の伝統的な景観の中にこの美術館があること、倉敷にあるということの重要性、意義は大きいと言われたときに、はっとしました。かなりのヘビーユーザーとして大原に来てはいたけれど、そこまで僕も見切れていなかったです。逆にいうと、理事長がこれだけ確固たる意志を持っているのに、それが美術館として、しっかりと外に発信できてない状況というのが、ちょっとこれはまずいだろうな、というのは一つ思いましたね。で、中に入ってみて歴史を遡っていくと本当に磨き直しという言葉が正しいと思うんですね。
最初の大原孫三郎さんと、児島虎次郎さんが、当時でいうと、とても尖がった活動でヨーロッパから絵を買ってきた。それから、大原總一郎さんが同時代の作品を集めていった。つまり、実は大原美術館というのは歴史を振り返ってみると常に同時代の美術にすごくコミットしていたわけです。それだけに、こんなに近くにいて、収蔵されている作品が大好きでいつも来ていた僕、それにそれ相応にはアンテナ感度はいいはずの僕にさえも、日本の伝統的な景観の中に、そうした作品たちがあることの意味とか、大原が歴史のなかで常に同時代とコミットしていたというところを発信しきれていない状況は、もったいないなと、さらに強く思いました。
ただ、大原謙一郎理事長には明確なヴィジョンがあったから、あとはそれにそって動き、その意思をそのまま外に流していけばいいだけなんだと、ふっと思いましたね。公立館にいると、展覧会をするにも作品を収蔵するにも何故その作家なのかとか明確な理由付けが必要でありながら、かえって公正にしようとするためにヴィジョンがぶれてしまいかねなかったり、あるいはその意思決定が、どこで一体、どうひっくり返ったのだろうということもありました。けれど、大原美術館は何しろトップが、それだけ明確なヴィジョンを持っているし、小さな所帯ですから意志決定が明確で、かつ早い。さらに、私が、よもや高階秀爾先生と一緒に仕事をさせていただくことになるとは思ってもいなかったんですけど、その高階先生が、もちろん研究者として素晴らしい方だと思っていたら、美術館館長としてもすごく素敵な方だった。そのうえ、理事長と館長がぴたっと同じ方向を向いていきますから、そうなった時に二人の美術館経営者、まあ、理事長と館長の二人がその専門を分け合っていきますけども、経営者の意志の強さ、ヴィジョンの明確さ、それから何か事を起こすための意思決定の早さ、これは、公立館にいた身からすると驚くべきクオリティーです。
これまでも、企業の方と仕事をさせていただくこともありましたが、企業の方はそういう自社のミッションや、そのための経営ということを、すごく強く意識してました。ですから、大原に移って、組織体としての動き方は美術館として考えるよりは企業のようなイメージモデルを持ったほうが、この館は進むんだろうというのが、ここに移って最初に思っていたことです。
岡部:月1回行われる連絡会議に、私もときどき臨席させていただいて印象深かったのは、そのスピーディーな決定ですが、しかもメンバーがわりとデモクラティックに意見を出し合えて、その席でじかに決定が出来るという透明感と、みんなが一つのヴィジョンの方向に向かって自覚的に関与できるという、少人数だから可能ということもありますが、デモクラティックな方向性がとても素晴らしいと思いました。そして現在ですけれども、柳沢さんが来られてからの21世紀の大原美術館の大きな変化の一つは、学芸スタッフが増えたことですね。
柳沢:よその学芸からすると、それをどこまで学芸員とするかの守備範囲はありますけど、一応、学芸員の肩書きを持っているのは6人です。そのうち2名は生涯学習課として、一般団体の対応などにあたります。それに学芸課としては、学芸員の肩書きこそありませんが、美術館として公益性を担保する教育活動、たとえば年間3000名を超える未就学児童を含めて、多数の学生団体の受け入れなどにあたるスタッフもおりますし、なんと言っても、大原美術館は入館券売り場から警備まで、みんなでそうした学生団体の受け入れにあたるのがすごいところです。
岡部:もともとの館を挙げての教育活動も維持し、そのうえで、企画・研究にあたるマンパワーが増強され、美術館活動が活発になり、外から見てもエネルギッシュに感じられるようになったとはいえますね。
08 美術館の入場者数
岡部:ここ6年間の変化を見てみると、例えば、全国で美術館がここまで増加してしまって、逆に地方財政が苦しくなってきているなかで、むしろ活動が制限されてきている公立美術館が多い気がします。一つの館の入場者も減ってきています。入場料収入を最大の予算源としている大原美術館にとって、入場者の推移は活動にかかわる大きな要因なわけですが、全国レベルと同様に10数年はやや減少しつつありましたが、ここのところは一定数の維持は出来ていますよね。もちろん、新幹線が開通してから、100万人にもなった来場者に比べれば(笑)、随分違うとは思いますが。
柳沢:瀬戸大橋が架かった1988年、これが一番、観光客の数、入り込み数が多く、今の三倍はありました。ただ、この10年ずっと下がり続けてきたとはいいながら、今ぎりぎりランニングコストを維持出来ているところで、まぁ、多少の貯金もあります。これ以上いったら、本当に給料の死活問題になるけども、というところまでは来ていましたけどね。ただ、この5年間持ち直してきて、昨年は40万人になり、もう一回息を吹きかえしました。ただ、僕がよそのいろんな演劇やホール経営の方たちと話していて思うんですけど、入場者というのは、美術館の自助努力だけでは何ともならないことがある。たとえば、愛知万博のときに、そちらに来場者が取られ2割減、今は逆に、岡山県が大々的な観光客誘致キャンペーンをやってくれたから、それで入り込み数が増えました。そうした大きな波があり、美術館はそれに全く無頓着ではいけないと思います。ただ我々が頑張ったから特に入場者が増えたという、そういう直接のチャンネルだけじゃ多分ないんですね。ただ、理事長が一番、最初に言って全くそうだと思ったのが、「我々はやりたいことがある。美術館としてやりたい事がある。お金儲けはその次だ。だけど、お金がなくちゃ、やりたい事は出来ないから、金は稼ぐんだ」と(笑)。非常に明確な論理ですよ。それに美術史研究者としてだけだって、自分たちが作った展覧会をお客さまに見ていただかなかったら全然意味ないわけですし。僕は、そういうことは前からすごく意識してきました。
09 教育普及について
岡部:柳沢さんがもう一つすごく力を入れているのは、チルドレンズ・アート・ミュージアムですね。小学校の生徒達を美術館に受け入れるのは、公立美術館がかなり手がけていますけれど、大原美術館はもともと10年以上前から近くの幼稚園児や小学校の生徒達を受け入れてきている。とくに幼稚園や保育園の園児の受け入れをしている館はまだ非常に少ないと思います。大原にはそれを実施してきた長い時間があり、それに新たに加えて、夏休みに短期間実施されるチルドレンズ・アート・ミュージアムのようなワークショップ系の普及活動をはじめたということが、影響力の面で大きいと思います。
柳沢:岡山県立美術館でのことなんですが、僕が美術史の研究者の立場で、かなり力を入れた展覧会を作ったんです。作品としては大変有名な作家の作品をお借りしたのですが、7000人しか入らなかったのですね。僕は7000人しかなんですけど、それでも県立美術館としては、3000、4000を踏んでいたから、7000人もだった。でも、僕は誰の為に展覧会を作っているんだろうと考えてしまった。業界の研究者に向けて展覧会を作っているんじゃなくて、もちろんそこにもちゃんと納得してもらうクオリティは維持したいけど、もっとたくさんの方に見てもらいたい、もっとみんなに知って欲しいという意識が強まってきたんです。ですから岡山県立美術館にいたときも、いわゆる教育普及活動担当ではなかったのですが、勝手にいろいろやっていたんです。それでその時から大原美術館が幼稚園生を対象にしているということと、あと、僕はすごいなと思ったのは、チケットを売っている女性たちが、園児の普及活動などの実際の担当にもなるという人事の活性化というか、重要な役割をみんながもつのはすごく良いことだと思ったんです。公立館だったら教育普及は教育普及の担当のものだけがやる、あるいはボランティアの気のきいた人、やりたい人だけがやっていたわけです。そうではなくて、大原の場合は職員をあげてやっているというのは、傍から見ていてもすごく良かった。しかし、館内で仕事をするようになって、それが戦略的にやってきたことでは実はなかったということを知りました。まぁ、とてもホスピタリティの気持ちがあって、ノックしてくれる相手にはどんどんいい形になっていくけど、一方こちらから捕まえにいくというのが、あんまりなかったのですね。
僕は美術館のお客様というのは、全ての人がお客様だと思っています。いろんな特性を持たれた方がいらっしゃいます。ですから、大原が、年齢でも今まで日本の美術館だったらほとんど手をかけていなかった園児にまでいっているのは、すごい財産です。一方ではその園児が手を引っ張って来る30、40代のお父さん、お母さん、も是非来て欲しい。僕の生まれ育った家族にとっても、美術館なんて普通、全然関係ない場所でしたから、いかにそういう人たちに我々が投げたいメッセージを伝えるかと考えたときに、園児の受け入れはすごい資産だったと思います。それを活かすためにもチルドレンズ・アート。ミュージアムをやりたかった。
チルドレンズ・アート・ミュージアムの対象は大人もだし、こどもに限定しない全ての人だと思ってます。後は僕なりに、日本の美術館の教育普及の活動で、本当にそれでいいのかと思っていることに対しての、僕なりの全部の回答を入れたつもりです。ただ、あれで全然オッケーではないので、本当はもっともっといろいろしたいんですよね。だから、先程、学芸が増えたってこともおっしゃっていただいたけど、人が増えたから仕事が増やせたのじゃなく、仕事の量を増やしちゃって、それをやるために必要な人の数が増えてきたという構造はあると思います。そうなると今一番足りないと思っているのが教育普及の人員です。
10 高校生と現代アート
岡部:これまでなさってきた経験から、実際はもっとやりたいということは、教育普及に関してだと、例えばどういう活動でしょう。
柳沢:団体の来館、学校団体の来館に関しては、今、ほぼパーフェクトな状況が出来ていると思うんですよ。担当の岡共仁子さんはじめ、みんなが本当によくやってくれています。岡さんによって一気に整備が進んだから、そこは安心して任せられるけども、学校団体というのは一つの限られた集団ですから、同じ年齢層の子でも、親子で来るとか、後はもっと遠隔地の小学生とか、そのためには、もしかしたらインターネットとか、もっともっと活用すべきツールがあると思うんですけど、未開拓なものがまだまだ多い。今は、圧倒的に美術館近辺の学校団体に手厚いですよね。
それから、もう一つは高階館長の美術教室とか伝統的な教養講座がありますが、知識集積を狙う観客層に対するような現在のプログラムは、本当に美術館のヘビーユーザーだけが対象ですから、おそらくお客様の特性分布を考えたら、まだまだ手がついていないところがあると思います。具体的に言えば、もう少し機動力をもって、土曜、日曜日の週末に作品にもうちょっとくっ付けていけるようなものが持ちたいです。遠方の方に対してどうするかというとこは悩ましいとこですが。
岡部:どこの国の美術館でも、中高生の10代の青少年は、自分から自主的に美術館に来られる年代になってきてはいるわけだけど、なかなかその層に来てもらえない所がありますね。大学生は現代アートなどには行く人もいますが、最近は携帯などへの出費もあり、お金があまりないので、交通費や入場料が難しく、大学生になるとお金の使い方が多岐にわたるようになり、なかなか美術館に比重がいかないという問題があります。大原美術館の場合、最近は有隣荘での現代作家の個展も開催するようになり、現代アートのイベントやコレクションを強化してきた中で、青少年や大学生などを、ある程度、コレクションや展覧会の形で惹きつけられてきたという実感はありますか。
柳沢:一つ直ぐにやりたいのは、高校生たちと現代美術を出会わせるという企画です。でも、一番、あの子たちってピュアだし尖がっている世代じゃないですか。今までだと泰西名画を見に来るのは、小学生、幼稚園生の頭だったらいいんだけど、中学校、高校生という感受性が尖がった鋭敏な時期の子たちには、出来れば現代美術に突っ込みたいんですね。ただ学校の先生たちにオーダーを聞くと、みんな秦西名画の知識を勉強させたいんだ、って言われちゃうんです。だから出来ればもうちょっと現代美術棟みたいなところをはっきり作って、高校生たちがそこに行って、「なんだこりゃ」というような状況は作りたいなというのはあります。そのためには、もう少し現代美術に特化するような空間を作らなきゃいけないだろうし、後、そこが扱える担当者はいるなって思いますね。
11 現代の若手作家との関わり
岡部:大原美術館の初期コレクションを手がけた画家の児島虎次郎が使っていたアトリエを、現代作家に使ってもらうという形で、新しく始まったARCOというアーティスト・イン・レジデンスの企画があります。最初は津上みゆきさんを招聘し、2回目から一般公募に開いて、応募者のなかから選んでいるわけですが、何ヶ月か作家の滞在を受けて制作していただき、その作品を公開、さらには買い上げもあるという流れですね。日本の作家が主ですが、彼等にとってはさまざまな意味で、非常にいいチャンスになっていると思います。
ARKO2005 津上みゆき 制作風景
© OHARA MUSUEM
ARKO2006 町田久美 制作風景
© OHARA MUSUEM
ARKO2007 三瀬夏之介 制作風景
© OHARA MUSUEM
柳沢:ですよね。現代といっても実は収集した作品はこの6年間すべて日本人ですから、ただ、これは僕自身もだし、スタッフたちも自問自答していることだけれども、どこまで手を延ばすのかというのを、今ちょっと、整理をつけたところなんです。今度、大阪を拠点に活動しているログズギャラリーに来てもらって、AM倉敷というような映像系、あるいはパフォーミングアート、イベント系の作家たちを入れ込む枠を作ったんです。本当はもっと倉敷という部分の足かせを取っちゃってもいいかなって思っていたんですけども、あまりそちらにシフトしすぎるのもどうかなと思ったんです。そうなった時にインターナショナルで、ぐるぐる回っている作家たちを、この倉敷で紹介するということばかりになると、それもまた難しくなってしまうかなと思います。現代美術の世界の中で、大原がそのトップランナーとして、情報をたくさん持っているよというイメージはあまりいらないかなと。逆に私たちの受益者は誰なのか、業界を向くよりも誰がお客さんで来てくれるのか、そこにとって意義あることは何なのか、というところに今ちょっと、揺り戻しているのかなというところですね。
岡部:そこはとても難しいところですね。今、とくに現代アートの分野は横断的になり、デザイン、サウンド、パフォーミング・アーツなどにもどんどん広がってきています。映像だけでもアートだけではなくてアニメーションから何から入ってくる状況が一つありますし、世界中で現代アートのトリエンナーレやビエンナーレも増え、日本でも増えてきていて、今度、北九州でも宇治港を舞台に国際ビエンナーレをやるという話もあります。現代の創造性を振興していこうという一つのミッションも重要だと思いますが、こうした世界の国際的な状況のなかで、例えば、大原美術館がどういうヴィジョンで、何を、どう、この美術館で、理念にあわせて、振興していくかは、つねに変化のある領域でもあり、立ち位置を決めるのは容易ではないですね。でも、今後、それぞれの美術館で非常に重要なポイントになっていくと思います。一回性の大型のアートイベントでは出来ないことが美術館には出来ます。そういう意味で、コレクションに繋げていき、コレクションは美術館の顔でもあり、キャラクターというか、特質にもなるわけなので、構造的にも重要で、慎重にやっていかなくてはいけない部分ではあると思いますが。
柳沢:大原美術館が50年代、60年代に大原總一郎さんが主導して動いていたときには、アンフォルメルやアメリカの抽象表現主義といわれる作家たちを買っていましたよね。その頃までは、おそらくインターナショナルな俯瞰図を描こうとすれば、まだ描けたのかもしれない。だけど今それは、僕は絶対描けないと思っているので、そうなったときに日本以外のところにどういう形で手をかけて行くのか。韓国の作家イー・ブルさんの展覧会をここでさせてもらって、イー・ブルという人との付き合いはすごい財産で、アジア圏の女性アーティストという、大原にそれまでなかった外国を入れられたけど、その先をどうしようかというとすごく難しいんですね。これは理事長も常々思っているとことですが、出来ることなら、この町を舞台にしたインターナショナルな現代美術展を開催するのが一つのゴールでしょう。美術館として収蔵とか、美術館として単独で誰かの展覧会をやるというよりも、ある程度、総花的にならざるを得なくても、そういった世界中のいろんな価値感を持ったアーティスト達にこの倉敷に来てもらって展覧会をしてもらうというのは、一つのゴールだと思うけど、それはすぐに出来る体力もこちらに今はないですからね。蓄積していかなければならないけども、それは多分、理事長も思っているし、僕もやれることならやりたいなと思っているところです。
12 海外に向けて
岡部;最近は、棟方志功の展覧会がパリで開催されましたね。もともと大原美術館にはミュージアムピース・レベルのすぐれたコレクションがたくさんあるから、貸し出し業務が多く、個々の作品はいろんな機会に海外で紹介されてきたわけですが、大原美術館の存在自体が海外で紹介されるってことは今まであんまりなかったと思うんですね。だから、こういう棟方志功のまとまったコレクションを通して、大原美術館の存在自体がパリで紹介されるという機会はとても良いことですね。こうした方向も今後は考えて行きたいのでしょうか。
柳沢:そうですね。ただどうしてもヨーロッパの作家たちの、ヨーロッパにとって非常に重要な作品が、あちらの展覧会に招かれるというのがまず最初で、それはゴーギャンであれ、シスレーであれ、今度、スーラージュも大きいな展覧会が開催されるので、そういう機会には是非積極的に収蔵作品を貸していきたいです。ただ日本が育んできて海外ではあまり知名度がない作家たちも積極的に出していくというのは、まぁ、労力とも見合わなきゃいけないんですけど、やっていきたい。あと、今、活躍されている方が、倉敷の大原美術館に行って良かったというような発言を世界中で言っていただけるように、そのための仕掛けはしたいとは思いますけど。
岡部:今活躍されている人たちとのコミュニケーションはとても大事だし、作家の方たちで、今は国際的に活躍されている方が多いから、そういう人とのコミュニケーションを積極的にしていくのは、美術館が国際性をもつ上でも重要です。でも国際性というのはもともと日本の美術館にとって一番のネックですね。最近は日本の美術館も蓄積が出来てきたから、例えばモネ展なんかでも半分近い出品作が国内の作品だったりして驚きます。かつては海外の作家の展覧会だったら、海外から作品を借りてきて展示をするのが普通でしたから。そういう意味では日本の美術館の蓄積と歴史を実感することが多いのですが、これからの次のステップは、そういう蓄積を元に、国際性をいかに伝えるかと、どういう風にネットワークを国内の他の美術館と作って、日本の作家を国際的に、いかに押し出していかれるかが大事かなと思います。そういう将来のヴィジョンに関してはいかがでしょう。
柳沢:日本国内のネットワークは全然問題なくて、もういくらでもあります。けれども、海外、ヨーロッパを主導しているインターナショナルなマーケットに、どこまで我々はコミットするか、しらばっくれているか、というのが今の課題ですけど、それも正直悩ましいですね。我々が一緒に仕事をさせていただいて、レジデンスしてくれたアーティストが何かしていくんだったら、それは出来る限りのお手伝いをしていきたいと思います。けれど、一気にそれを世界舞台の評価に乗せるというのは海外までは正直無理だろうなと。
もっとも、たとえばログズギャラリーだったら、北海道、青森では受け入れ先はあったけれど、だけどそれからスカーンと抜けちゃって西日本まで一気にくる。西日本に来ると学芸同士みんなネットワークがバチっと出来ているわけですよ。だから、どこかで、「あそこがやっていて彼が担当しているんだったら俺も行こう」という読みもあると思うんですね。もしかしたら大原でログスを受けるんだったらって思ってくださって、よその館も出来るぐらいのポジションは出来たかなとは思っています。それこそ、来週、公開研究セミナーをやらせていただいて丸亀と高知と淡路島から受け入れ担当者に集まってもらうんです。それは各地でのログスの出来事を、お互いに話し合いするというのが面向きですけども、実際にログズギャラリーが、この後さらに旅を続けるために、どこに誰がいるよというネットワークを彼らに提供しようとか、記録、ドキュメントをどう残していくかなどを話し合いたいと思っています。もちろん、ログズにしても腹積もりもあるでしょうけど、彼等がアーティストとしては、みんなに言い出しづらいだろうから、そこはうちが起点になって集まってもらって、どうですかと聞いてあげるとか、そういう国内レベル、西日本レベルだったらネットワークも相応のポジション取りも出来てきているけども、でも海外となると厳しいですね。
有隣荘2005秋特別公開 「やなぎみわ マダム・コメット」展
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有隣荘2007春特別公開 「岡田修二 モネ・水の記憶」展
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13 地方の美術館にとっての出版活動
岡部:もう一つ大原美術館で非常に優れているなと思っているものの一つは出版活動です。今まで、きちんと展覧会のカタログを作っていますし、私自身もおかげさまでフランス語の論文を和訳していただいたりしたわけですけど、出版を教育普及活動の中に位置付けてきちんとなさってきていますね。他の美術館の場合、図録はなかなか売り上げと繋がらなかったりして赤字になることが多いと聞きますが、出版物と経費の問題はかがでしょう。
柳沢:お金に直すと、おそらく売り上げ高では、捌けないと思います。最初僕が6年前に、ここに来たときは、図録を誰かにプレゼントするなんてとんでもないと、これはお金だろ、というかんじでしたし、図録で売り上げを黒にしろ、といわれてきたんです。ただ、有隣荘で開催する印刷部数の少ない企画展カタログでは、それはもうはなから無理だとわかってもらい、それが今の体制では、これは事業経費である、お金の形ではすぐには返ってこないけれど、我々にとっては宣伝効果もあるし、何といっても自館のドキュメントを作っていくのは必要なことなんだ、となってくれたから、すごくありがたいですよね。一方、といっても学芸も、あぐらはかかないで売れるということを考えて作ります。だから今非常にいい状態だと思います。あと、これは倉敷、岡山で美術館をずっとやっている人間の意地があるんです。みんな観にこないんだもん。(笑)情報の発信力は東京が圧倒的、特にマスメディアに絡んだら。それは大原になれば、まだ来てはくれるけど、岡山の県美なんて誰もマスコミは取り上げてくれない。その時に、それでも見に来てくれる業界の人というのは、すごく信用できたし、見に来れない忙しい人たちもたくさんいるから、そういう人たちの為にもちゃんとカタログを作りたいです。あとで、「えっ、そんないいのがあったの?」と言わせる、というのが一種の意地なので、これは絶対作りたいなというところはありますね。
岡部:ちょっと首都から遠い、なかなか行きにくい場所で、いい活動をしている美術館は欧米なんかでもいろいろあって、そういう所にある美術館にとってはカタログが命みたいなところはありますね。そうした出版物の蓄積が10年以上になってくると、それなりに行く人も出てきます。認知と評価に時間がかかるのはどこの国も一緒です。そういう意味で、大原美術館の新たな活動を伝えるカタログの試みもいろいろ増えてきましたし、今後は斬新な企画をめざして、だんだん来る人も増えてくるんじゃないかという気がしますけれど。
柳沢:そうなるといいですね〜。現場見てもらうのが一番ですからね。
岡部:ありがとうございました。
(文字起こし 田中みなみ)