インタヴュー
山本豊津×岡部あおみ
学生:大学院1・2年生8人、学部3・4年生4人
日時:2007年6月14日
場所:東京画廊
01 東京画廊って?
岡部あおみ:今日は東京画廊の山本さんにお話を伺います。山本さんは、武蔵野美術大学の建築学科を出られてから、お父様が始められた東京画廊の仕事を引き継ぎ、弟さんの田畑幸人氏とともに新たな展開をなさっています。銀座の都市計画や界隈の開発などにも大変関心がおありだと聞いています。東京画廊が開廊したのは、銀座でも、今の立地より西にある場所で、もの派の作家たちの展覧会をはじめ、現代美術のメッカ、拠点として、日本の現代アートシーンをずっと支えてきた老舗の画廊です。こちらに移転された経緯などをまずお伺い出来ればと思います。
山本豊津:簡単に言うと家賃が高くなってしまって…。以前の画廊があった並木通りのあの辺はブランドが出て来たから。銀座ではかなり植民地化が始まっていて、外国のブランドがみんな自社ビルをもって進出して来たんです。実はこの秀和ビルも外資のもので、このビルもオーナーは外国人です。銀座は、戦後以来の植民地化が進んでいます。
岡部:銀座で長く画廊の仕事をされてきているので、どうしても「銀座」という場所にこだわりがあり、家賃の問題があっても、他の界隈には行きたくなかった訳ですね。
山本:「全銀座会」という街の催事を少し手伝うようになって、街づくりに入ってしまったので、まさか六本木に引っ越して銀座の街づくりをやる訳にはいかないから離れられないでしょ。それから、僕はここで50数年育った訳ですから、銀座というものの持っている魅力を簡単には手放せないなと。僕たちのやっている美術商という仕事は、絵を見せて売るだけでなく、アフター・ケアー。そのお客さんと「どういう風に楽しく過ごすか」という遊びの部分のインフラが銀座は一番充実しているんですね。例えば、六本木や赤坂では食べられないような100年ぐらい続いている古くて美味しいお店が銀座にはあります。そういうものは手放せないですね。
岡部:ここの界隈にもギャラリーがありますが、だいぶ変わってきていますよね。
山本:貸し画廊がもっと安い家賃の京橋に移ったんですよ。今、京橋が貸し画廊のメッカになっていて、中央通りや並木通りでやっていたギャラリーがこっちの方に移って来ています。
岡部:銀座という街自身へのこだわりには、現代アートとの関わりもあるのでしょうか。
山本:日本の近代は基本的に銀座から始まったんですよ。みなさんご存知のように、銀座の最初の街づくりはイギリス人が設計したんです。日本初の鉄道が横浜〜新橋でしょ。西洋文明が、あの時は飛行機がないので船でやって来て、海から上がって、それが横浜に降りて、鉄道で新橋に運ばれた。だから、新橋界隈は中華料理屋さんが多い。それは横浜の中華街の人たちが、鉄道でやって来て新橋に勤め始めるようになったからです。丸善ってお店が今、あるじゃないですか。あれも、もともと横浜に店があったのですが、銀座に移って来て、福沢諭吉が「近代日本をつくるためには、どうしても洋書が必要だ」と言ったからです。早矢仕有的(はやしゆうてき)さんという人に、「お前は本の輸入をやれ!」って丸善(もとは、丸屋商社)が始まったんですね。みなさん、ハヤシライスって知っていますよね。ハヤシライスの「ハヤシ」は、その早矢仕です。だから今、丸善の屋上に行きますとハヤシライスを食べられます。ハッシュドビーフライスを早矢仕さんがやって、ハヤシライスという名前が付いたという逸話があります。そういう歴史が銀座にはあるから、絵を売る時にはお客さんと歴史の話が大事なんです。「なぜ画廊が銀座に多いのですか?」って言われた時にも、歴史の話が出来ると近代の話になるわけでしょ。近代の中に僕たちの美術が成立しているんで、僕たちの下の世代の小山登美夫君とか佐谷周吾君とかが銀座にこだわってないのは、近代ではなく現代から出発しているからね。
東京画廊会場風景(2007年西澤千晴個展、東京)
©東京画廊
02 東京画廊ともの派
岡部:東京画廊で、菅さん、李さんの展覧会とか、70年代、80年代にもの派の方々の展覧会を私は観させて頂いて来たんですけど、彼らが東京画廊でデビューした当時は、東京画廊のように作家を自主的に企画し、押し出す画廊はまだ非常に少なかった訳ですね。かつての画廊の状況と今のシチュエーションの比較はどうでしょう。
山本:私の父、山本孝は、もともと近代美術を始めたんです。いわゆる「洋画」ってやつです。父が西洋のものを扱うようになってロンドンに行った時、アンフォルメルとか抽象表現主義の洗礼を受けた結果、60年代にそういう展覧会をたくさん企画します。それまで日本の画廊は個人の展覧会をほとんどやってないんです。主にグループ展ね、絵描さんから絵を集めて展示即売会っていうのをやっていて、個人の作家を全面に出してやるのは、たぶんヨーロッパから日本に入って来て、それをうちの父が、戦後間もなくから始めたんです。今でこそ作家個人の個展をやるのは、珍しいことではないんだけど。そういう個展をやることで、東京画廊は結構話題になった。実際には、日本人の個展よりもヨーロッパ作家の個展を企画して、それが結構売れたんですよ! 例えば有名なルーチョ・フォンタナは、最初の展覧会でほとんど完売。そしたらヨーロッパで、「アジアの東の端っこにある日本でこんな新しい絵が売れた」って評判になって山のように展覧会をやりたいって人が来た。その頃イタリアでもあんまり売れなかったのが売れたと、噂になっったんですね。イヴ・クラインの大きい作品が売れたり。外国の作品の企画をたくさんするようになったんですが、そういう画廊は、東京画廊と私の父と別れた清水さんの南画廊だけで、この二つの画廊が双璧になって競争したんです。父がヨーロッパ型、清水さんがアメリカ型でサム・フランシスとかをやって、日本のアーティストも二分割された。宇佐見圭司さんや中西夏之さんは南画廊、東京画廊は李禹煥や高松次郎。日本のアーティストも父と清水さんの所で二つに分かれ、競争関係になったのが面白かったんではないかと思います。その頃、日本の作家は、絵を売って生活できる人は少なかった。それが今、小山君たちの世代になるとアートで充分生活できる感じになりましたが、若い画商さんはほとんど日本で売っていない。ヨーロッパ・アメリカで絵を売って、生計が成り立つようになった。うちも、「FIAC (フィアック)」というパリのアートフェアで、60〜70年代には出していたんだけど、当時は1ドル360円だから、どんなことやってもペイしない。今でこそ、輸送費、滞在費、飛行機代が安くなったけど、あの当時はヨーロッパでアートフェアに出すのは大変な経費が掛かったんで、かといって日本の美術がヨーロッパで売れる訳じゃないし。そんなのが、私の父と今の時代の違いですね。
岡部:特にもの派をサポートされてきた所があると思うんですが、もの派の作品は、その場の仮設のインスタレーションが多いですから、結局取り払って、作品自体がなくなって消えてしまうものが多いですね。図面やデッサンがあって、一応売れるものもあるけれど、こうした仮説性の強いアートに対するコレクターはどのように育っていったのでしょうか。もの派に関するコレクターは少なかったでしょうね。
山本:もの派の68〜72年の間にやった仕事は、ほとんど売りもんにならないんです。関根伸夫さんなんか、画廊に油土を2トンぐらい積んだだけだから(笑)。でも、もの派をやった最大の理由は、「脱欧米」。「どうやって欧米の美術の文脈から離れるか。我々のオリジナリティーをどう考えるか」というのが一番のテーマだったと思うんです。それで父は、もの派に走ったのだと思います。李禹煥さんの最初の個展は『from line』と『from point』だから売れるの。実際、もの派の展覧会はグループ展でいろんなことをやって来たんだけど、個人の作家は結構売れる。関根さんも70年代以降は、「環境美術」という会社をつくった。再開発や街づくりが広がったから、彫刻を売るというのがビジネスになったんです。70年代前半当時、僕のアルバイト先が都市計画事務所でしたので、その時お世話になった先輩からそういう情報をもらったんで、浜松のアクトシティーや野村不動産の横浜などの大きなプロジェクトに、彫刻の仕事を入れさせて貰いました。
岡部:関根伸夫さんのパブリック・アートが興隆した影の力が、山本さんだった訳ですね。
山本:いいえ、パブリック・アートは関根先生がむしろ切り開いていた後に付いていったようなものです。僕は、画廊に後発で入っているから、自分がこの画廊で仕事をやるには、先輩に言われた「お前これもってけ!」とか「あれやっとけ!」とかを聞くだけでしょ。1年ぐらいここで仕事をしていると人の小間使いになっちゃう。父は「何しろ!」っとか言わないから、自分が画商になるには、建築学科卒の経歴を生かして、環境中心にやった訳ですね。
03 東京画廊が脱皮する瞬間
岡部:いつ頃から画廊で働き始められたのですか。
山本:81年。それまでは代議士の秘書。選挙やってた!
学生:(笑)
山本:街づくりに興味があるのは、選挙をやってたから、かなりの田舎まで見てきたので、日本という国がどういう状況にあって、その中で東京がどうなっているかが自分の中で分かったので、今、街づくりに大変興味をもっているんですね。
岡部:昔の画廊からこちらに移られたのは、北京にアネックスの画廊を設立されたのと同じ時期ですね。それが東京画廊にとって新たなステップになったのではないでしょうか。
山本:すごくいい点を突いています。バブルがはじけて画廊が停滞期に入るんです。また父が病気になったり、僕が社長を継ぐまでに先輩たちがまず画廊を継いでいくんだけど、父が強烈な個性をもっていたので、彼の個性から抜け出すのが難しかった。父が亡くなってしばらくして東京画廊も停滞期に入って、都市環境の仕事もだいたいなくなって来ていたんですね。いろんなことを考えている時に、小山登美夫君とか若い連中が海外に行って仕事し始め、アートフェアを手伝いながら脇で見ていて、「そうかぁ…。僕たちも小山君たちにくっついて、外に出た方がいい」と思ったんですね。よく言うじゃないですか、「老いては子に従え」ってね。1989年頃から弟が中国が面白いと言っていて、「中国を舞台にして、一つの世界性がとれるんじゃないか」と考えて、 2001年に移転して、海外のアートフェアにどんどん出すようになった。停滞を抜け出るために、今までうちのテイストじゃない、もの派などとは違う若い作家をやろうと。例えば、現在「瞬きを紡ぐ」(2007年5月30日〜6月23日)という個展をしている渡邊陽平君は、弟が「GEISAI」で見つけて来たんですよ。村上隆君から僕に電話があって、「山本さん、GEISAIに出ない?」って言われ、東京画廊と「GEISAI」ってどうなの!?と思ったけど、少し若い人に従って、僕たちもそういうのを見てみようって思った。でも弟は、一日居ただけで頭痛くなっちゃった(笑)。ロックコンサートみたいなのやってるし、音はバンバンあるし。でもまあ、村上君の「GEISAI」に行ってみて、「こういうものが若い人にウケるんだなぁ」と。今まで、東京画廊は重厚長大だったからね。
岡部:石とか鉄板とかのイメージですからね(笑)。
山本:それから少し離脱して、もっと軽いものをやらなきゃいけないということになって方向転換。一挙に軽くなったから、昔のお客さんは多分腹立っていると思うんですよね。「ここへ来てあの二人は何を考えているんだろう?」って言うのもあるしね。でも実際に、僕たちが取り上げた作家たちが海外で売れる。もうドメスティックに重厚長大なものを追っかけても生きていけない。それが東京画廊のイメージを変えたんです。
岡部:これまで東京画廊をサポートしてきたコレクターではない、新たなコレクターを開拓することになる訳ですね。
山本:僕がコミッティを受けている今年の「アートフェア東京」で一挙に変わりました。もうコレクターのほとんどが、30代の半ば過ぎぐらいになりました。だから当社は、間に合った訳ですよ。今の作品が全部完売になっているのは、そういう風に世代が変わったということですね。私の父からのコレクターは、みんな80代になっているから、むしろ絵を買う側ではなく売る側です。
04 これからのアートを見据えるために…
岡部:そういう昔馴染みのコレクターの人たちと関係を保ちながら、転売などにもご協力されている訳ですね。アートフェアに関しては、海外のアートフェアと「アートフェア東京」の差が大きいと思うんですけど。
山本:いやもう、海外とは雲泥の差ですが、今年の売り上げは、今までになく驚異的な数字になりました。今まで、みんなに「出てくれ! 出てくれ!」って誘って、みんな出てなかったんだけど、今年のアートフェアが大成功だったから、掌返すようになったんです。売り上げは、10億超えたんですよ!! まあ、みんなで今日まで続けてきて良かったなって思っています。
岡部:そうすると、これからの日本のアートマーケットの未来は、明るいんでしょうか?
山本:いや、暗いでしょ!!
学生:(笑)
山本:「なぜ暗いか?」ってことには大きな問題があって、アートというものを国家のプロパガンダに使ってないのは、日本だけなんですよ。
岡部:そうですね。戦後は使ってないですね。
山本:どういうことかと言うと、ヨーロッパは凌ぎを削っているでしょ。例えば、フランスがポンピドゥー・センターつくってパリが中心になると、それを脇で見ていて、ドイツもパリからどうやってセンターを奪うかってベルリンにものすごい大資本かけてアート・センターつくっている。それを脇でみながら、ブレア首相が肝いりでテート・モダンをつくった。今ね、世界は宗教中心でもう動かなくなった。何故かって言うと、宗教には対立があって、世界の人たちがみんな集まって誰でも観られるのはアートしかないんですよ。例えば、キリスト教会にイスラム教の人は来ないじゃないですか。ということは、教会が街の中心で、広場にあったけど、そこに集まってから市場に行くという構造がもうなくなって、宗教がその役割を失った。その代わりヨーロッパでは、アート・センターをつくっている。世界中の人はアート・センターにまず行ってから街に出て行くという風になっている。その構造は、1970年代のポンピドゥー・センターの成立が大きいと思うんですよ。日本は、街のセンターに美術館がなくて、全部公園の中にあるでしょ。極端なことを言うと動物館の横に美術館がある。そういう状況は、まだ「博物館学の世界」なの。食べ物で言うと、時価のものがないという状況が未だに続いているから、美術館にそういう活力が生まれない。テート・モダンにはビックリしたんだけど、学芸員だけで50人いるんですよ。彫刻の学芸員だけで5人です。それに加えて、オープニングの時にプラスαで外国からスペシャル学芸員をそれぞれ雇うでしょ。そうすると、とんでもない仕事が出来るんですよ。日本の学芸員は、二人とか一人とかの数で彫刻から絵画から何でもやらされる。そんなの不可能ですよ。
岡部:最近、テート・モダンは南米のコレクションをしようと、その領域のスペシャリストを入れたりして、すごいですね。
山本:世界の中枢でアートが動いているから。その点日本は、三百何十億円も掛けて、新国立美術館をつくって、どうすんの!? 僕は、あれで絵を買った方がいいと思うけど。建物ばっかり建ててるからね。建物は、建てても人が来ないと意味がないじゃない。飛行機の格納庫をつくっているんじゃないんだから。「中で何をするのか」という意志がないと、墓場みたいになっちゃう。日本の中にまだ意思が生まれない、というのかなぁ。
Btapspace07 (2007年もの派展・BTAP、北京)
©東京画廊
05 国家戦略としてのアート イギリス、ドイツと中国
岡部:先ほど山本さんが仰った、「アートが、いわゆる日本の場合は政治に使われていない」というのは、戦後に関しては確かです。例えばアメリカなどは、国威発揚とか米国イメージの宣伝などにも戦中戦後ずっと使われて来ています。そういう意味では、主に公立の施設ですが、美術館が県や市のさまざまなシンボルとしてつくられて来た日本の場合、美術館は政治に使われて来たと言えると思います。それが建築中心主義に陥った原因でしょう。意外かもしれませんが、ポンピドゥー・センターなんかは、ポンピドーが主導したから政治的と感じられますが、ヨーロッパ全体の社会や文化的な状況の中から必然的に生まれて来た要素が強く、内部には政治に使われないだけの多くの強力なスタッフがいて、むしろ政治を使うという方向なのですね。
山本:今、すごく良いこと教えて頂いたけれど、日本の場合の政治はドメスティックなの! 公共事業の一環として美術館があるんですよ。ポンピドゥー・センター、テート・モダンは外交なんですよ。だから政治が世界へ向いているのと、政治が国内に向いているのとの差ですね。
岡部:大きな差がありますよね。
山本:やぁ、すごいですよ!
岡部:特に日本の公立の美術館は、それまでの文化的土壌やインフラのなかから生まれたのではなく、市政何年とかの記念や、バブルのお金で、ポンと政治的に創設されてきたケースが多いから、文化の蓄積といった地域への還元や人類への貢献といったミッション(理念)が最初からDNAに組み込まれていないというか、最初の創設の時点で、こうしたハンディがあって、根づくのが難しいのだと思います。開設されれば、学芸員だけではなく、地域のボランティアもみんなすごく頑張って支えていくのですけどね。
山本:いやもう仰る通り! 僕も思うんだけど、日本の場合は第二次世界大戦で負けたために、対外的な文化政策が封じ手になった。みんな文化を語らなくなってしまった。それで、文化を支えている技術だけで文化というものを補填しようと思ったのが、大きな落とし穴だったのかもしれない。
岡部:先ほどの「日本のアートマーケットに未来はない」という所に戻ると、山本さんのご意見だと、それは日本のアートに政治的繋がりがないからというところに論拠があったように思うのですが。
山本:言い換えると例えば、北京に私の弟が画廊を開きましたが、そのオープニングの日に、先進国の大使館はほとんど来ました。アメリカ、ドイツ、イタリア、フランス…。僕たちは宣伝していないのに、イギリスの雑誌は、画廊がオープンする前に許可なく撮影していたんですよ! 友人から「おまえの画廊、出てるぞ!」「工事中なの?」って言われてビックリしたんですね。イギリス人の情報の速さは、すごいです。その時はまだ中国に知り合いはあまりいなくて、200人分しかカタログを準備していなかったけど、オープニングには1000人来たので、足らない。1000人分配ったら、破産するから止めた。外国の大使館は来ましたが、日本の大使館の人が来たのはそれから2年後ですよ。うちから目と鼻の先に日本人が住んでいるマンションがあるのに…。そのくらい日本というのは、世界の情報を何にも把握してないね。
岡部:海外在住の大使館や領事館の方々は、自分たちがいる場所で何が起きているか、特に文化がどう変わって行くかにすごく繊細ですね。アンテナを常に張ってます。だからそういう場所に、東京の画廊が進出したと言えば「これは今後アートの仕組みが変わるサインかもしれないぞ!」と思い、すぐにみんな「行ってみたい!」と思うでしょうね。だけど、日本の場合はそういう部分にあまりアンテナを光らせていないから 「別に興味ない、たかがコマーシャル画廊だろ。公的な立場の私たちには関係ない」という意識があるのではないんでしょうか。文化と経済と政治が日本の場合、繋がっていないですよね。でもヨーロッパとかアメリカでは、公使官とか大使館の人の中に現代アートに非常に詳しい文化担当官がいて、文化の変化を見ていかねばならないという使命感がありますから、その辺が違って来ますね。
山本:たぶんね、そういう人とかが集まるパーティーが、一番情報が拾えると思っているんですよ。
岡部:文化の縮図が変わるということは、自分たちが今度どういう風に動いていくかを考えなければならないサインだから、みんな政治的に動く訳ですね。
山本:もう一つ、国家が何をするべきかについては、テート・モダンのオープンのときの話があります。テート・モダンがオープンする1年ぐらい前に日本の美術関係者全員が、英国大使館に呼ばれ、お茶とお菓子とサンドイッチが出て、まあアフターヌーン・ティーだけど、「テート・モダンは何なのか」というビデオを見せられた。それから帰って来て、そこに招かれた日本人は、みなオープンしたときには、テート・モダンに行きました。英国大使館は、こうしたことを世界中の大使館で実行したと思う。9ヶ月で400万人の人がテート・モダンに行った。これが国家です!! 結果、ブレア首相がロンドンの南側を再開発したら、400万人の人がホテル、飲食店、買い物にみんなお金を落とすことになった。それで再開発は大成功に終わり、街づくりが出来る。だから如何に、政治的なプロパガンダが大きなチカラを持っているか。たかがサンドイッチと紅茶だけで、招かれた人みんな自分の金払ってテート・モダンへ行ったんだから。それが国家というものだと思ったね。
岡部:芸術と文化をどうサポートしていけばいいか。自分たちの国の芸術文化の振興をどのような形で行うかですよね。
山本:東京都現代美術館をつくる時に、あの施設を半分ぐらいのサイズにして、半分の予算で日本の大使館が世界中で「東京メトロポリタン美術館が出来るから来て下さと、東京に少なくとも何十万って人が来て、お金落とすでしょ。それが国家の意思。それを今、ベルリンがやってる訳。それが日本にはないんですね。
岡部:日本は戦前の植民地政策の問題があったから、そうした文化政策を戦後はしないことをモットーとして来た訳ですが、それをいつどのように回復できるかが、現在の課題ですね。
山本:ところが、中国は共産党という一党独裁だからそれが出来る。中国政府は、まさに今やっている。それから韓国も出来る。中国と日本の狭間にあって、自分を如何に活かすかって考えている。そうすると日本がまた、ボコっと沈むんですよ(笑)。
岡部:今、北京の東京画廊では、日本の作家も出品されているようですね。中国の作家でソンドンという人の個展もまず東京画廊で開催されて、その後で、韓国の光州ビエンナーレに巡回した展覧会を観たのですが、中国の若手作家のデヴューのきっかけを中国で日本の画廊がつくるというのもすごいですね。
山本:弟が用心したのは、最初から日本を持ち込むのは難しいということ。東京画廊は、衣の下に鎧を付けてないという意思表示です。まず中国の作家を取り上げ、それで中国の作家の人たちが「戦前の日本が文化をもち出して来て押し付けるのではなく、東京画廊は、中国の美術に非常に興味をもっている」ということに3〜4年かけたんですね。案の定、中国の画廊は商売に走る画廊がほとんどだから、東京画廊は中国の中で安心して付き合ってもらえるようになった。アーティストが安心して付き合える画廊という評判が立つと、日本のアーティストをもって行ける。ファンドゥーっていう中国の若手の評論家が「もの派が出来ないか?」という環境が生まれ、5年を経て中国にもって行けた。そのテクニックは西ドイツで習いました。西ドイツはベルリンを再開発する時に、最初にホロコースト・ミュージアムをつくったでしょ。あれが大事なんです。ヒトラーの時代にヨーロッパを統一しようと思って、侵略を始めるんだけど最終的に負けて、ドイツの土地は小さくなった。それをどうやって奪還しようかと、武器を使っては無理だから東側に経済圏を拡げようとしている。西側にはフランスがあるから、西側には出て行けない。ポーランド・チェコなど、ロシアから分離した所をEUに抱き込んで、大ヨーロッパの中心がベルリンだという構造をつくろうとしている。それで、ヒトラーを再来させないという誓いのために、ホロコースト・ミュージアムをつくったのだと思う。だから西ドイツを誰も批判しない。あれは日本も見倣った方が良い方法だと思いますね。
岡部:戦後の処理がドイツと日本では全然違って、ドイツはきちんとやって来ていますからね。
山本:東京裁判が良いとか悪いとか言っているわけではなくて、日本人が第二次世界大戦を総括しないと、世界的にはほとんど通用しない。
岡部:いろんな政治的な問題が尾を引いていて、たぶん中国でも活動されるのは大変ではないかと思います。
山本:小泉首相の時、日本関係の場所に火を付けられたりするトラブルがあったけど、画廊は何もなかったんです。あれはプロパガンダで、東京画廊は、日本のものを売り付けている訳じゃないと分かっているから、別に問題ない。中国もなかなかしたたかです。5年で画廊が70軒になった。北京オリンピックまでに壊す予定だった工場があった所を、壊すまでに4年あるからと工場の人が貸した訳です。そしたら、2軒、3軒って増え、3・40軒にもなった。中国では、土地から人を追い出すのは簡単なので、これからどうしようかと考えている時に、北京の市長が来たんです。北京って、意外に見る所が少ないでしょ。故宮のコレクションは台北にもって行かれているし。そうするとオリンピックで世界都市に名乗りを挙げたとしても、世界的な観光の名所が少ない。だけど、画廊が3・40軒も集まっているから、ポンピドゥー・センター、ニューヨークの近代美術館、グッケンハイムなど、世界のありとあらゆる美術館関係者が見に来る訳。中国はここはとても大事なインフラだってことに気付き、残すことになり、「芸術特区」になった。日本だと有り得ない。どんなに効果があろうとつぶすと思うし、役所が図面引いた通りにやるでしょ。
岡部:それが政治性ですね。私は1年間アメリカに行っていて如実に感じたのは、中国の美術やマーケットが加熱していて、戦前の作品まですごい値段で売れていることです。中国、あるいはアジアの現代美術のアートマーケットの加熱はどうでしょう。
山本:どこでも起こるお金の流れがあり、最初に値段が上がるのが土地、それでもお金が余ると証券へ行き、それ以上に余ったお金が美術に行くんです。1兆円なんていう不動産では大したことない金額が、美術に流れただけで日本はバブルになった訳です。それと似たような構造が中国で今起こっています。中国は土地にお金が流れない。共産党がもっている土地だから「あす、そこ立ち退き!」って言われたらおしまい。中国は何千年という歴史の中で、自分が土地をもっていてもしょうがないと分かっているから、そのお金が全部不動産以外に行っている。
岡部:私が中国に調査に行った6年ぐらい前ですと、30代の若手不動産会社の社長さんが大金持ちになっていて、コレクターでもあったのですが、建物や家を買うのがブームでしたけれど。
山本:もうそれも収まっちゃった。
岡部:しかも物価が安いから、作家同士が形成した北京郊外の芸術家村などは、300万円ぐらいで当時はすごく巨大な邸宅兼スタジオが出来て、お手伝いさんがいるような悠々とした暮らしぶりの中で制作をなさっていて、驚きました。美術評論家の栗憲庭(リー・シェンティン)氏の家も立派でしたし、アーティストの方力鈞(ファン・リージュン)など、日本の作家が見たら本当にうらやましいすばらしい生活でしたね。
山本:方力鈞は稼いだお金でレストランを経営し、すでに3軒目で、今は大理でホテルまでやってるらしい。日本のアーティストじゃ考えられない(笑)。
岡部: 訪問したのは2000〜2001年ぐらいでしたが、その時から、今高騰しているアートマーケットのきざしがあったということでしょうね。
山本:想像ですけど、如何にお金を持って外へ出るかを考えていると思います。香港が中国本土に返還になる時に、お金持ちのほとんどはオーストラリアとカナダへ動いた訳でしょ。全部資産を動かした上で、今戻って仕事をしている。日本人だけだと思う、年金でこんな問題が起こっていても、資産が外に出ないのは。韓国も外に資産を出してもっていますよ。日本人だけが特異なんじゃないかな。胡錦濤主席の婿がアメリカの投資会社の人で、一説によると資産の一部をスイス銀行へ持ち出していると雑誌に書いてあった。
岡部:中国のアーティストやコレクターにも、米国のご夫人がいる人がわりといますので、一人っ子政策を抜け出すためだと思っていたけれど、外国人との婚姻は資産分割のためもあるのかもしれませんね。今までは、中国でアートを買っている人たちはまず欧米のコレクター、それから中国の若手の不動産をやっている人たちなどで、それ以外は、なかなかコレクターが育たないという感じだったのですが、今はだいぶ変わりましたか。
山本:今は、中国のコレクターがだいぶ増えて来たのと、欧米の動向を見ていると、これから500近い美術館を中国がつくる予定です。次に文化政策に入ると思う。
岡部:美術館建設ブームの予兆があって、戦前までの作品なども売れているのですね。
山本:台湾の故宮博物館からコレクションを戻すことは非常に難しいから。清までの古美術品は台湾の故宮にある訳だから、清以後をコレクションする以外ないじゃないですか。そのコレクションをして初めて中国は、ちょうど1966年にアメリカのホイットニー美術館が現在の場所に新館を作って移転したようなことと同じことが起きるんじゃないか、って思うんですよ。ニューヨーク近代美術館は、アメリカの歴史の中でいうとヨーロッパに対するコンプレックスの固まり。ホイットニー美術館の新館が登場し、ポップ・アートが出て来て、世界の美術史にアメリカが浮上する。自然の流れで言うと中国は現代美術をもう一回買い戻して「中国現代美術大故宮」みたいな、スゴイものをつくるんじゃない。
岡部:ポンピドゥー・センターが、上海に進出する予定ですし。
山本:グッケンハイムはどこに行くのかな?
岡部:グッケンハイムは、具体的な拠点としてはまだ決めてはいないようです。一応、コレクション展を巡回させたり、中国コレクションを補強したり、いくつかの布石は打ってますけど。
山本:798に、グッケンハイムが来るらしかったんですけど、ベルギーのお金持ちが美術館をつくるって、隣の大きい建物を押さえた。
岡部:そのベルギーのコレクターと一緒に仕事している中国のキュレーターを知っています。
Xiedaospace04 (2007年もの派・BTAPアネックス、北京)
©東京画廊
06 さて、日本はどうする?
岡部:アート・シーンが確実に変わりますね。ここで、話をちょっと戻すのですが、日本のアーティストを見ていると、サポートを国から欧米並みにはされない中で、ギャラリーは頑張っていますが、コレクターもあまりいないし、欧米に比べるとやはりかわいそうな立場です。みんな自力で何とかしなくてはならず、ないならないでやらざるを得ない状況ですし、これから先、日本のアートの将来はどうなっていくのでしょう。
山本:日本人はこれから国をどういうふうに考えるか真剣に考えるべきですよ。日本には可能性がすごくある。今、コムスンで問題になってるけど、例えば介護ビジネスは、アジアが日本を模範にするだろうと思う。私の母の介護に中国人の留学生が来ていたんだけど、その人と話していたら中国もあと20年経つといわゆる「介護の世界」が重要になるって。今のうちに日本で、介護システムを学んで国にもって帰れば、起業出来ると言っていました。私たちが、アジアの中でとりあえず先頭に立って近代化してきたノウハウ、たとえばサムソンが、日本の東芝とか松下のものを写して日本を超えるような企業になったように、日本のもっている潜在的な能力を自覚するかどうかだと思うんですね。しかし現実では、ほとんど日本の国家は自覚していないで、ほっといたんですよ。
岡部:自覚する、させるような方法を取ってきませんでしたね。人気テレビ番組だった『プロジェクトX』ではないですが、日本の製品をつくって来たのは日本のありとあらゆる技術であって、そういうノウハウはすべての分野で、ものすごく発展していると思うんです。それを自国の中で使うことで満足していて、海外へ展開しようというヴィジョンがあまりないですね。 あるいは、逆に海外で発展させてはいけないといった自己規制が働くのかもしれないです。
山本:僕はね、頭が幼いのだと思う。ここには女性の方が多いけど、日本の男性は頭が幼いと思う!
学生:(笑)
山本:世界に視野を向けてモノを考えていない。自民党の代議士の所に居たけど、世界ということを考えて、日本を考えている人はほとんどいなかった。そういうことを考えている企業が、いくつかはあるけど。トヨタだって、今回GMを抜いたでしょ(2007年4月現在)。先頭に立つということは、社会的責任が重なり、環境問題とかを背負わなければいけない。二番手にいると負担は軽い。われわれは、今日までN o.2・3で楽をしてきたから、それが一挙に表に出てエラいことになる。日本の男性にそういう認識が欠けている。今日も銀座通り連合会の青年部の人と話をしたんだけど「今の男性に最も欠けているのは、バカバカしいことを考えないこと。女の人に出来ないのは、男の人のバカバカしさ」。 例えば、バクチで全部失っちゃうとか(笑)。そういうバカバカしさが、男の人に全然なくなった。それが男の強みだったのに、男の人がおとなしくなったというのか、遊ばない。まじめすぎる!? それで、セコいじゃない(笑)。
一同大爆笑 !!!
山本:ここに男の仲間3人(参加男子学生)いるけど、男はバカバカしさと途方もない世界をどっかでもたないと全部女の人にもっていかれる。女の人は放っておいても大丈夫で、アジアに行っても女の人は頑張っているよ〜!!
07 学生からの質問
岡部:ここで、山本さんに質問がある人はどうぞ。今日は、たくさん面白いお話をして頂きたいですから。
学生(学部4年女子):今、政治の姿勢で日本と海外とではすごく差があると伺ったのですが、日本の若手のアーティストの姿勢でも差がありますか。
山本:政治と同じで、美術をつくるということは、誰に観てもらうかを念頭に置かないと。以前は誰に観てもらうかは、隣のおじさん、先生、両親とかそんなもんだった。だけど、これから美術を目指す人は言葉が通じない人たちに観せなければならなくなった。その人たちがパッと観て何なのかが分かる表現をしないといけない。若い人に言っておきたいのは、一目で分かるものをつくらなければならない。それが美術の最初の突破口。それを僕は、自分の自然性の中でつくるのではなく、意識化することだと言っている。自分が何故ここに三角形を描いたかを一つひとつ意識して自分で観ることを訓練しなければいけない。僕が例えば作家にその作品の「どういうとこがどうで、こういうことがこうで」と話すと、意外と描いた人は自覚していないことがわかる。自覚がないのは、世界性をもたないということ。これからのアーティストは是非、自分の描いたことを言語化し、自覚化することね。それも、出来るだけシンプルに一目見た人にもすぐに分かるように仕上げなければならない。それを常々考えないと。だから、村上隆君が優れているのは、日本の中で世界に通用するコンテクストを拾ってきて制作しているから。浮世絵とかマンガとか、外国人がパッと観た時に分かることを目指している。そういうことが、これからのアーティストに求められている。政治もそういうことなんだろうね。
岡部:日本の作家は、つくることに全力集中して、制作について言語しないままで突っ走ってしまうので、純粋なんだけど、その後どうなるのかあまり考える習慣がないですね。自分の中で創作欲を自己完結させてしまって、外部とコミュニケーションをとる努力をあまりしないので、当然売れない。作家がどれだけ全力を投入しても作品も消えてしまうわけですね。そこをもう少し改善して、余力をもって考えられるようになれば、コンセプトも明確化して、作品が外に出る可能性が増えますよね。
山本:自分の無意識の中でつくっていると雑音が多くなる。雑音の大事な面も邪魔になってしまう。意識化して雑音を排除しないとパッと観た時に分かりにくい。その雑音を排除することが大事。私は、東南アジアへよく行きますが、彼らにどうしても現代美術が出来ないのは、無意識の自然性の中にどっぷり浸かっているからで、世界性がもてないのね。
岡部:幸せなんですけどね、その世界の中にどっぷり浸かっていられるのは。つくることだけに集中していられる訳だし。
山本:世界がやってこなければ幸せ。日本もペリーが来なければ幸せだったけど、ペリーが来てしまったから(笑)。
学生(院1年女子):今お話を聞いていて、自分だけで分かる作品ではなく、つくることを意識しなければいけないと思ったんですが、それは作品だけじゃなくて、作品に対してアピール、説明のようなもの、自分で説明できる力が必要なんだなって思いました。先日トーキョーワンダーサイトのグループ展に行ったんですけど、司会者に「誰か説明して下さる人いますか?」と言われても、誰一人として話をする人がいなかったんですよね。“観れば分かる”という感じで。作家の話を聞いて、違う観方が提示された方が、広がって、その人にとっても良いアピールになると思うんですが…。
山本:そこにいる作家たちに説明が出来ないのは、簡単に言ってしまえば、その作家たちは自分を好きなのであって、美術が好きなのではないからなのね。美術をやっているように見えるけど、自分が好きなだけ。自分を解って下さいと言っている。だから説明ができない。例えば、ワンダーサイトの今村さんに頼まれて若い作家の話を聞いたんだけど、「何が好きで描いたの?」って聞くと、「シンメトリーが好きだ」と答えた。じゃあ、「何でシンメトリーが好きなの?」って聞くと、「対称的だから」と答えた。「イギリス式庭園は非対称だし、フランス式は対称。日本式は非対称。では、対称的な世界と非対称な世界とはどういうことなの?」って言うと、対称に関する言葉が、彼の中に何もない。ただ見て描いただけ。隣に行くと、キュービスムっぽい絵が描いてあった。「何故、キュービスムなの?」って聞くと「ピカソのキュービスム時代の絵が好きだから」。何故あの時代にキュービスムが出来たかの背景については知らない。僕だったら、人にキュービスムを説明するぐらいは出来る。それで、「今までの人はこう言っているけれど、私はキュービスムをこう思うんです」という所までいけば、美術が好きだと言える。それがない。だから彼に「私にキュービスムが好きと言う限りは、キュービスムのことをもう少し勉強してからにして欲しい」と言った。そうしないとピカソの焼き直しみたいなのを観たって、批評しようがない。自分が好きなことと、美術が好きなことを分けて考えていない。美術が好きだったら、例えば自分が好きなロシア構成主義の図録を買って、全部見てどう出来て来たかを調べる。それがないと美術が好きとは言えない。そうして始めて人と会話することが出来る。だから僕は、そんな作品には1000円とか500円しか値段付けない。100円ショップだってもうちょっと説得力のある商品があるよね(笑)。生きていくためには、社会と自分を考えなければならない。美術とは社会と関わる問題だから、「自分は美術が好き」と「自分が何をするのか」をはっきり明確にしないといけない。自覚化するということは、美術をすることは、社会とのコミュニケーションを確立するためで、相手方に理解してもらうことがない限り、それは価値を有しない。それを理解してもらえないと売り物にもならない。売れるとはそういうこと。アーティストは自分の絵を大切にしない。何故かっていうと、自分が自然に生み出しているから、描き直したり、捨てたりする。買った人は、お金出しているから絶対に捨てない。だから美術は、アーティストの所よりも買った人の所に残る。これは大事なこと。だから、お金に換算しない限りモノは残らない。それをちゃんと絵を描く人たちに教えてあげなければいけない。多分、学校の先生の多くは、作品の制作に集中しているから、美術の社会的価値の構造を教える時間がないんだと思う。
岡部:今日は、山本さんにいろいろ貴重なお話を伺いました。
山本:いやいや、話半分で聞いて下さい。今度は、もうちょっとまじめな話をね(笑)。
学生:(笑)
岡部:今日は長時間本当にありがとうございました。
(文字起こし:大黒洋平)
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