イントロダクション
伝説の「アノーマリー」展。
村上隆やヤノベケンジら、そうそうたるメンバーを集めて椹木野衣が企画した展覧会。それをプロデュースしたのは「レントゲン藝術研究所」の池内務氏だった。30代のディレクターを筆頭に、1991年から5年間続いたレントゲン藝術研究所のアナーキーで爆発的なエネルギーは、バブル崩壊に揺れていた東京に、大きな風穴をあけた。
同世代のアーティストが、同世代の評論家やキュレーターやディレクターやミュージシャンやパフォーマーらと、とんでもなく大掛かりな展覧会やイベントを催す。DJ、ダンス、一晩だけの展覧会など、当時の華々しいレントゲン藝術研究所は、まるで21世紀を画して創設されたパリのパレ・ド・トーキョーの前身ともいえるほど、斬新なアートスペースだった。
奇妙奇天烈なインパクトをもつ飴屋法水の作品に出会ったのもレントゲン藝術研究所。池内氏は独創的な役者の個性をすばやく見ぬく演劇人のような目をしている。90年代の前半を飾ったこの類稀なスペースで、思う存分に羽を伸ばし、遊び、戦った若者たちが、今や世界の舞台で暴れている。
巨大な大森の倉庫をスペースにしていたレントゲン藝術研究所から、たった四畳半
の青山の「レントゲンクンストラウム」に移転するという極端さ。さらに吉祥寺に一
時移転したあと、「レントゲンヴェルケ」という名称で、六本木の画廊街コンプレッ
クス(Complex)に蘇った。
2005年にさらに改称されて、ヴァイスフェルトとなったが、インタヴューをさせていただいた当時は最少の空間をめざした「クンストラウム」の時代だった。現在は親会社の株式会社池内美術の現代美術部門という位置から独立し、組織を組換え、新たな体制でギャラリーを運営している。「背水の陣ではじめたせいか、なんとかなりつつある」。一人立ちした六本木の池内務氏の言葉。
つねに他者とは違う道を求め続けた、暴れんぼうの古美術商のせがれから、厳しいリアリティに根をおろしてみんなと一緒に再出発を決意した、ひとりの成熟したギャラリストへの変貌。
演劇を専攻していたせいなのか、豊富な体験のせいなのか、池内氏はすばらしく話上手だ。新たな境地を、鋭利な視線を、硬質な思考に練りこめて、あの達者な口調で、またいつか話していただきたいと思う。
(岡部あおみ)