Cultre Power
gallery ヴァイスフェルト(旧レントゲンヴェルゲ)/Roentgenwerke
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Copyright © Aomi Okabe and all the Participants
© Musashino Art University, Department of Arts Policy and Management
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©岡部あおみ & インタヴュー参加者
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インタヴュー

池内務×岡部あおみ

学生:原田圭、笠井大介、笠原佐知子、清都千恵、竹内亜季、浅野直子、吉村一磯、
日時:2000年11月21日
場所:旧株式会社池内美術レントゲンクンストラウム南青山店

01 大森の旧レントゲン藝術研究所の誕生

岡部あおみ:レントゲン藝術研究所(レントゲンヴェルケの旧名)は珍しくドイツ語ですね。英語とかフランス語の名称はあってもドイツ語は少ないですね。

池内務:そうですね。「レントゲン」という名前自体も非常に覚えやすく、もとはX線を発明したヴィルフェルム・コンラット・レントゲンというドイツの科学者です。X線は、空気や自然の中にはない光なんです。電球専用の人工の光で、人の体を突き抜けて写真を撮ることが、アートの作用に非常に近いものだと考えて「レントゲン」という名前にしたんです。まず一回聞いたら絶対忘れない。面白いことに、ドイツ人が一番、名前の由来を質問するんですね。僕が確認している限りでは日本に五件ぐらいしかドイツ語の名前の画廊はありません。たとえば日本橋にある写真専門の「ツァイト・フォト・サロン」、福岡の森さんの名前を意味する「バルト」、京都の岸本さんの名をとった「ウーファー・ギャラリー」、北海道にハンブルグのギャラリーとリンクしてやっている展示室「アウステムクラムツバイ」などです。
 ほとんどの画廊がいわゆるアートの国だからと、日本語、英語、フランス語、イタリア語の名前で選んでいて、ドイツ語の名前の画廊は少ししかない。「レントゲン」という語は今はほとんど使われてないんですが、受動的な意味でのエネルギーを数値化する測定単位ですね。放射能の測定単位。それで、うちはコマーシャルギャラリーだという意味も含めている。

岡部:旧レントゲン藝術研究所が最初に大森にできたのは、何年で、創設の主旨はどのようなものだったのですか?

池内:1991年6月に羽田空港に近い大森のはずれで、古い倉庫を改造して画廊にして、トータル面積190坪の三階建て、当時、東京では一番大きいアートスペースでした。ところが梅屋敷駅から歩いてちょっとの大森東だから非常にアクセスが悪い場所でした。私の家は祖父の代からの美術商で、金沢の方で祖父が茶道具屋、古美術商をはじめたのがスタートです。父が変わっていて、古美術でも単に古いモノだけではなく、新しいモノにも興味をもったり、そういった人達と交流をしていて、自分も父からの自然な教育から美術商になることが自動的に決まっていた、いわば血縁なわけです。今も京橋の2丁目で私の父と弟が、「池内美術」という茶道具を中心とした古美術商をやっています。そこは完全に、れっきとした古美術の店で、そこの近・現代美術部門といった形で、レントゲンをオープンさせたわけです。
 その直前まで私はフラフラしておりまして、ずっと舞台の仕事をやってました。大学は全然美術とか、いわゆる商いの商学部とかではなく、演劇出身で、大学も演劇が専攻だったので、普通の画商さん達とはやや違ったスタンスで、どこか勢いで始めたみたいなところがある。大森で4年半、ほぼ5年の間に40回ぐらいの展覧会をやっています。その場所を選んだ理由は、空間が非常に魅力的で、非日本的な空間だったことで、もとは2階建ての倉庫に無理に3階をのせて、さらに強引にエレベーターをつけた不思議な建物でした。最初は、昭和33年築と聞いていたんですけれども、最後の完成は昭和45年ぐらいで、高度成長期の中で組み上げられたような建物で、内装を改造してつくったわけです。
 そこでの展覧会は、通常の1ヶ月間の展覧会だけではなくて、1日だけ、1晩だけですね、夜だけの展覧会を6回ぐらいやっています。DJをよんだり、いわゆるおなじみのクラブをギャラリーの中でやるようなことで、今風のダンスのチームも来たり、パフォーマンスと遊び場を融合させるような形でイベントを何度か組みました。実は、年1回なんですけれども名古屋のほうで「ナハトビジョン」という名前で今もずっと続けています。


「弘法の筆」2003/6   ©池内務

02 青山の旧レントゲンクンストラウムは茶席フォーマット

池内:その後、大森から青山へ移って名前も「レントゲンクンストラウム」に改称しました。青山を選んだ理由は、それまでは東京で一番大きイスペースだったので、今度は一番小さくしてやろうと。わずか4畳半だけの展示空間の場所で、言うなればそれまでは、ア−テイストのエネルギーを思いっきりださせるのをひとつのテーマにしていたんですけど、青山の空間に移ってからは凝縮する方向にシフトしたと僕は考えています。ただ、それも限界があったか、ア−ティストのエネルギーの方がそれを上回ったか、仕方なく応接間をぶち壊してこれだけの広さの展示空間で2000年秋からやっています。

岡部:それにしてもものすごく小さいですが、展示スペースはどのぐらいあるのですか?

池内:10数坪、全部で20坪強ですから、30・ぐらいだと思います。いわゆるコンテンポラリーをやっているわけではあるけれども、もともとが茶道具屋の家、古美術の家なので、それを残しておきたいというのがあり、ここも茶席のフォーマットなわけですね。入り口が少し小さめになっているとか。ここ、非常にわかりにくい場所にありますよね。以前に来た方はわかるかもしれませんが、これは、いわゆる茶席の寄り付きに至るまでの路地の部分を考えて欲しいんです。お客さんが、お茶席にはいるまでには、路地と寄り付き2つの段取りをふまないと茶席へは入れてもらえない。言うなれば、そこで日常を洗い流していただく、そういうコンセプトなわけです。ここへ来る目的以外を考えられなくなる。場所がわかりにくいから、一生懸命ここを探す。周辺にイッセイ・ミヤケがあろうが、コム・デ・ギャルソンがあろうが、そういったものを全部忘れてここを探さざるを得ない。そうすると、入った時にはここに集中できる。それをある種目的として、どこかわかりにくい場所、ないしは、わかりにくい入り口の構造を作ることを、前の大きい空間の時でもやっていました。以前は、非常に変わった形の、どうやって入ったらいいのかわからないような構造の自動ドアをつけたりした。中に入って初めて、作品と向き合う、画廊の人間と向き合う、そういう構造作りに常に留意していました。とにかく、常に何かしら極端でありたいというようなことがあり、青山に移ってきた当初は、東京で最も小さい展示スペースを売りにしていたわけです。

岡部:青山に移られてからのスペースの変化はわかりましたが、スタッフ及び経営方針の変化は、スペースに応じてあったのですか?

池内:基本的にはないですね。ア−ティストのエネルギーをいかに上手に引き出していくかが画廊の役目だと思っていますから、そうすることで、それをお金に代えていく、経済に転化していくのが、いわゆる単純にいう画廊の仕事ですから。基本的なスタンスは変わっていない。ただ、その仕事がだんだん大人の仕事になってきたというか、以前は美術部の部室みたいな感じで今もそういう所が無いわけでもないんですが、青山に来てからは、悪く言えば保守的、まあ、保守的という言葉が良いか悪いかはわかりませんが、少し堅い仕事の進め方になってきました。
 ここの空間だけで見せきれないモノは、他のアートスペースなり美術館で見せていく作業も出てきますし、当然、そういう風になってくると業務が繁雑になってくる。それまでは僕が先頭を切り、それを山本が補佐していく構造だったんですが、あまりに無駄が多すぎるので、それぞれがアーティストを担当してコントロールしていく。橋本という女性がいまして、今年の夏頃から入った人ですが、彼女も非常に能力のある人で、今後ディレクター3人体制で、1人の仕事に対して常に2人が付くような構造をとっていきたいと考えています。さらに国内を3つの地域に分けて、それぞれの地域の担当者を決める営業活動の構造をとってます(現在のクンストヴェルケになってからスタッフも変化している)。

岡部:現在のところはスタッフは3人ですか?

池内:そうですね。3人にプラス、内野、彼女はwebサイトの管理です。webの中も1つの画廊と考えていきたいと思っています。実際、アートのサイトでうまい、かっこいいと思えるぺージはほとんど無いですから。どうやって他と差別化したり、いかにアクセス数、ヒット数を増やしていくかなどが今後の課題になってくるでしょう。いわゆるバーチャルではなく、リアルな意味でのギャラリーへどれだけ人を引っぱってこれるかのノウハウとはまた違うもので、DMをまけばいいものでもないし、リンクの貼り方も相当研究しなくてはならないと思っているんですが、なかなかですね。

03 同世代作家の村上隆やヤノベケンジとシンクロした

岡部:大森にいた頃にお話ししたとき、池内さんが押し出したいのは、若手の同世代のアーティストでしたが、同世代作家を中心にやりたいという方針は今でも変わっていないんですか。

池内:変わっていないです。その辺ははっきりしていて、お宅でやりたいとか、プレゼンテーションでアーティストから電話がかかってきたりするとき、ちょっと声が老けてるなと思うと、年齢確認を必ずします。僕が1964年、昭和39年の生まれですけど、僕の上10年、下10年を一つの責任範囲として考えていて、それ以上それ以下の作家は、他の画廊がやればいいじゃないかと、お任せすると。そうしないと、それぞれの世代に対する責任が、だれもきっちりととれていけない。商売がうまくいくから、見映えがいいからと、どんどん年齢を広げていってしまうと、画廊の色みたいなものが薄まっていくんじゃないかなと思って、一番分かりやすい世代感、同時代感を大事にしています。その僕が画廊を開けたのはバブルがはじけた頃で、いわゆる80年代的なアーティストは一つ区切りがついていて、90年代的なもの、村上隆やヤノベケンジを筆頭とする作家達などと、うまくシンクロした感じで、時代の要請だったと思いますね。

岡部:大森のレントゲンでインパクトのある展覧会に参加なさった村上隆やヤノベケンジさんなどは、その後、日本だけではなく海外でもすごく目立つ活動をなさっているわけですが、今でも彼らは池内さんのギャラリーと関わりがあるんですか。

池内:ええ、なにかしらあります。うちでの個展はやらなくなってもそれなりに連絡は取り合ってますし、グループ展なんかで引っ張ることもあります。日本の場合は、まだ「縄張り」と言いますか、がちがちの住み分けは確立していないと判断しています。少しずつそういう風になっていくのかもしれませんが。イギリスの場合はアーティストと画廊が契約の形をあまりとらないようです。アメリカの場合は、資本主義がバックになって、それ以外信用できるものが何もないことで契約の形をとっていると思うんですけど。うちの場合はずいぶん前から展覧会ごとに基本的には、契約書を交わしています。

岡部:最初からレントゲンに所属しているアーティストという枠は作られないわけですね。

池内:それをやろうと思ったら大変な資本がかかって、人一人を世に出して育てていくためには全面的にやらなくてはならない。家賃からスタジオから下手すれば、食費から。アメリカはそういうスタンスをとっていますけど、日本の場合にはまだまだそれは難しい。マーケットがないですから。

岡部:一応展覧会ごとの契約でも、ある程度、繰り返してやりたいアーティストもいるわけですよね。それぞれのディレクターが各自、何人かのアーティストを担当して個展などの企画をなさっているのですね。

池内:小谷元彦、ヤノベケンジなどに関しては山本が、渡辺英弘なんかは僕、あと海外のアーティストが何人かいるんですけど、その場合は、語学的な問題があったりするんで、彼女がやったり、僕がやったりと、バランスをとりながらやってます。

04 椹木野衣氏の「アノーマリー」展の予算

岡部:かつてのレントゲン藝術研究所の活動の頃から全部お一人でやられているんですか。親会社のお父様はまったくタッチしないで?

池内:全然タッチしていないです。悪く言えば、やりたい放題。

岡部:とくに大森時代など、基本的には作品を売るといったディーリングはあまりなかったわけですよね。運営は親会社に頼る形でなさっていたわけですか?

池内:収支はもう真っ赤。本当に持ち出し、持ち出しですね。

岡部:メセナみたいですね。でも活動資金を出してくれている間はまあいいかなというスタンスで?

池内:そうですね。本当に幸運だったとしか言いようがない。

岡部:青山時代からはここのスタッフで自分達でなんとか運営ができているのでしょうか。

池内:なんとか内側でやってますね。まだ、完全とは言えないんですけど。(六本木に移転してからは完全に独立)

岡部:昔の大森のスペースは広いけれども、不便だったので家賃は安かったのではないかと思うのですが。

池内:安くないです。月当たりの経費が人件費から電気代から合わせて月400万円かかっていました。 

岡部:いやー、大変! 企画も全部入れてですよね。

池内:滅茶苦茶なことです。はっきり申し上げて。例えば椹木野衣さんの「アノーマリー」展なんか企画一本で1千万円とかいうような形でお金をつくってやった。8年前の展覧会ですけれど、作品が売れたのがついこの間が初めてだったんですからね。

岡部:すごく時差があるんですね。椹木野衣さんがキュレーターとしてデビューなさったのも、大森のレントゲンレントゲン藝術研究所ですよね。

池内:展覧会としてはそうですね。うちがオープンして、椹木さんが『シュミレーショニズム』の本を出されたのも1991年の6月の終わり頃だったと思います。その辺は全部シンクロしていたと思う。世代的にも彼とは近いですし。

岡部:全面的に何かこれがやりたいと思うと、インスタレーションを新しく作ったりするのもすべて資金を出して作家にやってもらっていたのですか?

池内:ええ、そうです。ほとんど新作ですから。いわゆるセカンダリーとかといったことは、ほとんどない。

岡部:大森の場合、建物のイメージがすごく強かったので、スペースにインスパイアされて作る時もあっただろうし、作りたくなるとか。

池内:空間との戦いがものすごく大事だと思うんです。それは、ギャラリーのディレクターもそうだし、美術館の学芸員もそう、作品を作るまでがアーティストの仕事で、インスタレーションも含めてそれを展示するのは、ディレクターないし、キュレーターの仕事だと僕は考えますね。だからケンカもありました。そういう事では、当然ぶつかり合うし、暗いだの明るいだのといった単純な照明の話からね。

岡部:ラディカルなインスタレーションも見ましたが、そんなことをしたらすごく危険だとかいうこともありましたでしょ?

池内:危ないのは、本当にもう諦めてますからね。だから、消防法と道路交通法と建築法は無視していましたね。消防署の査察は結局、閉める一年ぐらい前に一回だけあっただけで手が後ろにまわらなくて済んだんですけれど。実際ヤノベ君のキャタピラをくっつけた作品が画廊の前を走って、道路表示をズタズタにしちゃったとか。滅茶苦茶やってましたね。それがちょうど、でかい10トンぐらいのトレーラーで運ばれてきて、車から降ろす瞬間の映像があるんです。キュレーターだった椹木さんが絶叫してるんです「危なーい、危なーい!」って。ただそういう無茶なバカ騒ぎをやったおかげで、未だに来続けてくれる人たちがいる。それなりの知名度にはなったと思います。

岡部:一応親会社の資金援助で続けてこられたわけだけれども、池内さん自身は実体験からいろいろ学ばれて、考え方も少しずつ変わってきたとか、ここに移るような方針ができてくるようなご経験をなさったわけですね。

池内:それは変わります。当然年をとってくればいつまでも遊んでいられない。例えばオープニングパーティーで画廊の中で徹夜とかなっちゃう。朝まで飲んだくれてて、朝5、6時にハッと目を覚ますとお客さんが周りの床で寝ている。ソファーをばらばらにして、クッションにして寝てたり。そういう意味では、60年代の騒ぎとあんまりかわらなかったかもしれないですね。

岡部:そこから卒業したみたいな感じですかね。年齢的に。

池内:そうですね。やっぱり、やっとかないとダメかな。いわゆる深夜のクラブ活動も随分しなくなりましたし。昔はもう本当によく遊んでたんですけど、結婚したり、子供ができたりするとそういうこともあまり出来なくなる。

05 ヴィデオが百万円以上で売れる

岡部:同世代という年齢以外で、池内さんの好きな作品の傾向とか、選ぶ基準はどのようなものですか?

池内:何時の間にかできたんですけれども、まず人物像的なフィギュラティブなものはほとんどない。これだけ世の中に人間がいっぱいいて、毎日人の顔を見ているのに、これ以上見なくてもいいだろうと。あえて排除しているわけではないんですが、自然に結果的にそうなりましたね。あとは、手で作られる極限のものが見たいということがある。これだけ磨けるとか、これだけきれいな絵を作れるとか、ある種の職人技的な部分で、勝てなきゃダメだと思う。よく引き合いに出すのは、何年か前にワタリウムの企画で開催された街中を使った大規模な「水の波紋」展で、外苑前の所にドイツの車BMWのショールームの中に展示された作品があったんですね。

岡部:ええ、見ました。

池内:全然、自動車に勝てない。僕はそれはアートとしてまずいんじゃないかと思う。例えばその車のショールームに置かれたとき、この絵を買おうか、BMWかメルセデスを買おうかと迷えるぐらいのものがないとダメ。つまり今の感覚からすると、ある程度工業製品的なクオリティーみたいなものが、どうしても必要になってくる。ないしは、奈良美智みたいにその裏の手もあるかもしれない。ナイーブな線で、手の味をむしろ武器にするような方法ね。音楽もある種真っ二つに分かれている。テクノ系は下がってきたようですけども、雰囲気的には、いわゆる昔流のフォークっぽいのが結構出てきてる。僕なんかは聞くに堪えないですけどね。ある種の優しさとかは、手作りっぽい。ああいうの大嫌いなんですがね。当然、時代が、そういう風になってくるんだとは思うんですけど。僕としては、「本当によく手でここまでつくったねぇ」というようなものもあり、カリッカリに新しいのもちょっと引っ掛かる。だから、デジタルで、コンピューターで作ってプリントアウトされた作品だとかは、全然信用していないです。webサイトのも、あれは情報としてでしかなく、それ自体が完結してると言ったら、それはもう大嘘。

岡部:手がけていらっしゃる作家達は、わりと売れていますか?外国へのディーリングもあるのですか?

池内:そうですね。おかげさまで。外国でも評判いいですね。1999年にイタリアで大きい賞を取って以来、特に小谷元彦君なんかは、急激に押してきています。こちらではあんまり知られている賞ではないんですけど、現地では非常に評判の高い賞で、イタリアを中心にうけていますね。(小谷元彦氏は2003年のヴェネチア・ビエンナーレの日本館に出品)

岡部:小谷さんの作品、とても面白いですからね。一部は写真でもあるので、売れやすいということもあるかもしれませんね。

池内:うーん、写真だから売れる、インスタレーションだから売れないといったことは、僕はあんまり一概には言いたくないです。確かに、1998年ぐらいから写真はある種のブームもあるんでしょうけれども、地位を得た感じはしてます。いわゆる美術におけるメディアとしての地位を得た。かつては、油絵ならいいけど、アクリルじゃいやだというのがあった。アクリルが一段下がる感じがあったわけですね。それが、今は全然関係が無くなっている。一つのメディアの地位が作られたと思います。今はみながヴィデオなどの動画に走ってます。世界的な傾向として動画を作りたがるアーティストが非常に多い。でも、ハリウッドに負けてちゃダメだ。

岡部:ヴィデオとか、映像インスタレーションなども売れてるんですか?

池内:売れてるんです、ヴィデオのエディションもの。ヴィデオ一本で、百何十万円でも売れてます。

岡部:ディーリングの相手のクライアントは、どういう世代の人でどのような方がいらっしゃいますか。

池内:個人コレクターに関しては40代、50代ですかね。30代もいるか。極端に若い人もいますけどね。

岡部:平均して多いのは同世代よりはやや上の方々ですかね。

池内:そうですね。それに、美術館も対象になります。

岡部:繰り返し買ってくださる方などは、自由業の方が多いのでしょうか?

池内:いや、そんなことはないですよ。公務員、サラリーマン、会社経営の方もいらっしゃいます。いろいろですね。コレクターに関することは、美楽舎さんに聞かれた方がよろしいんじゃないでしょうか。180人ぐらいいるコレクターのチームがあるんです。ホームページもあります。

岡部:面白いですね。最近できたんですか?

池内:いや、伝統があります。現代美術ばかりじゃなく、むしろ現代美術の人達は少なくて、日本画だとかのコレクターが中心になってスタートしたみたいです。勉強会やったりしてます。

06 生活の充実を求めるコレクション

岡部:1度、ここで完売していた個展を見たことがあります。

池内:うちに限らないですけどね。なんか最近いい感じになってきたんじゃないかな。

岡部:完売をよく見るようになったのは、ここ1、2年かしら。なにが原因でしょう。

池内:1999年以降、とくに2000年からじゃないですか。もう、景気ものが底をうったということかな。アートは景気が良くなって、一番最後に興味を持つ。アートはかつては、景気が悪くなって一番最初にやめるものだった。バブルのしっぽぐらいになってきて初めて、アートを買うことにみんなが目を向け始めた。でも今は、決してそういう訳ではない。景気が良くなってきたのと、いい感じで連動している。すごく欧米的になってきたんじゃないかと思うんですよ。だから、前のバブルの時に、痛い目にあった人達は、もう美術品は全然買ってなくて、その次のジェネレーションですね。かつては投資ないしは、投機のためにやっていた。今はもうそうではない。自分の個人のレベルでの生活を豊かにしようと思った人達が買うようになっている。

岡部:生活の豊かさを求める気持ちが表れているのでしょうね。

池内:そうですね。景気が悪かった頃は、家具屋さんの家具や雑貨に、いわゆる雑貨レベルで雑誌が随分特集を組んでいた。景気が少し良くなってきた段階で、例えば『カーサ・ブルータス』が月刊誌になって、家具だとか、いわゆる自分の体のサイズとアクチュアルなものがすごく近くなってくる。そういう時代になってきているんじゃないかと思いますね。

岡部:そう。生活感覚に対して、充実を求め始めたみたいな気がしますね。

池内:前みたいな上っ面のものではないと信じたいですけどね。まだ前の時の恐怖がありますからね。美術業界もそれでさんざん何度も痛い目にあっているんですけど、誰も勉強しないってみんな言う。昭和48年頃から、僕はその当時は知りませんけれども、メーター一万円って言われてたんですよ。ある画廊さんで絵買いますよね。20メーター隣の所に行く間に値段が二十万円上がっている。多少大袈裟ですけど。そういう風に、絵画への投資、絵画投機の時代があった。その次のバブルの時代は、とにかく札片切って海外のオークションで落としまくって相場を滅茶苦茶にしてしまった。その上、作品を棺桶に入れろ等と言うバカ者もいましたし。そういうことはもう本当におきて欲しくない。今は、アメリカの景気が非常に良いですから、そのおかげで、何でこんな値段が付くのといったことは起きています。相場がズッコケ始めているところはありますね。

岡部:価格がバーンと急上昇したりするのですか。

池内:そうですね。オークションのメインのシーズンは春か夏と秋に一回ずつありますけども、ちょうど先週が、ロンドンもニューヨークもオークションだった。本当に良かったみたいですね。ほぼ半年に一回ぐらいしかシーズンは来ない訳ですから、その時にドカンと値があがったりする。

岡部:バロメーターですね。オークションでも仕事をなさるのですか?

池内:売ることはあります。ただ、半年のストロークは、僕は長過ぎると思う。オークションとギャラリーの仕事は、根本的に違うものです。その辺を崩しちゃったのもバブルのときの日本の画廊なんですよね。画商がでかいつらしてオークション会場に行って、パネル上げているのはみっともない、格好悪い。フジテレビがスポンサーやって日本のテレビでも中継とかしてましたけどね。

岡部:一時は流行みたいになってましたよね。今の良くなってきている状況は、基本的には、現代美術を取り巻く現状が前に比べると少しずつ安定してきたともいえるわけですか?

池内:いや。やっぱり世代ごとに違う。今、僕らのジェネレーションで現代美術と言っているものと、20代の人達が現代美術と言っているものは、もう既に違うはず。僕らよりさらに10年前とかになると、確かにカテゴリーとしては現代美術になるのかもしれないけど、いわゆるエッジなのかということになったら、それは嘘。順繰りに年くってくると、経済力との関係もでてくるんじゃないかと思います。

07 外国ではミック・ジャガーが画廊に来る

岡部:日本の現代美術を取り巻く状況で、現在、池内さんが考えている問題は、どういうことでしょうか?

池内:あまり学術的には考えないんです。非常に職人的に僕は仕事をしていて、それが逆に良くなかったりもするんですが、例えばマーケティングはまかせっきりなんですよ。それに対する判断はつけられるんですけども。現代に限らずですけれども、美術館はやっぱり問題でしょうね。美術館のコレクションのシステムや構造はすごく問題がある。どこへ行っても同じ作家のものだし、コレクションの主旨がよく分からない。それで人が来ないと嘆いている。人を呼べるような展覧会を組もうとすると、行政が黙っていない。行政の問題になってくると、本当はさかのぼって教育の話になってきます。
 僕らが小さい頃、図画工作の授業があり、絵はこういう風に描くもんだと教える。人の顔は肌色で塗りましょうとか。ところが近代以降は、べつに肌色に塗んなくてもいい。そうすると、近代以降のことは日本の美術教育では無視されてしまうと言えるんじゃないか。その辺から全面的にひっくり返さないと、本当は勝ち得ない。外国の美術館に行くと、ちっちゃい子供が、先生が「シッー!」ってやりながら、それでも十分古いですけど、カルダーの前で首をひねったりしている。そういうことがないと、やっぱダメじゃないかという気がします。アートスペースの問題は、当然ハードウェア的な部分もあると思うけど、日本の場合は、ハードウェアの建物で作ってて、中身の部分がね。東京都現代美術館を見に行ったドイツの大学の先生がうちへ来たんですけれども、「素晴らしい美術館だね」というので、「建物がだろ?」って言ったら「うん」って言って終わちゃった。アクセスの悪さはどうしようもない。ヨーロッパだと、「こんなに駅から近いの!」という美術館が山ほどある。日本で駅前の美術館は丸亀の猪熊弦弦一郎美術館ぐらいじゃないですか。でもあそこは香川県のはずれですから。

岡部:あそこまで行くのは大変ですけど、考え方が素晴らしい。逆に立地条件やアクセスが悪いと、良い美術館でもなかなか来てもらえないという部分がありますよね。

池内:そうですね。だから、マニア化しちゃう。好きな人は、本当に好きですから、毎週日曜日になると、この展覧会を見たってズラッーとメール送ってくるコレクターの方もいますよ。もう60歳近い方じゃないかな、でも個人的に精力的にまわられて、自分でもホームページを持って、感想文を毎週日曜日の夕方送ってくるんですよ。こういう状況のまんまだと、そういう風に尖鋭化しちゃう。
 イギリスの場合なんかは本当に相互作用で、展覧会のオープニング・パーティーにミック・ジャガーが来たりとかが、わりと日常的に行われている。このアート、カッコイイとなると、メジャーなミュージシャンとかがワッと行ったりする。その辺の交流がとれている。ブラーバンドご存知ですよね。ブラーの一番新しいアルバムのジャケットは、ジュリアン・オピーですからね。今、白石コンテンポラリー・アートでやっている個展シリーズだと思うんですけど。そういう風にきっちり渡りがついてる。

岡部:異なる領域の芸術の横の連携がかなりあるんですね。

池内:日本の場合は経済が前提になっていますから、音楽は莫大なお金が簡単に動きますが、アートの世界はむしろ無視される。だから、奈良美智さんなんかは本当にレアケースですよね。

岡部:本のカバーやCDジャケットなどもなさってますからね。

池内:そうそう。村上隆さんは逆にそのマニア化を逆手にとって、もっとマニアな世界の所でアプローチする、いわゆるオタクの世界とか。そうすることで、ポピュラリティーを得ようとしている。それぞれが世界を創っていこうとしているわけです。

08 フリーペーパーのフェイバリットの由来

学生(吉村):画廊の人達が集まってなさっているフリーペーパーのフェイバリットは、どこの人が手がけているんですか?

池内:変な話なんですけど、フェイバリットは飲んだ勢いで始まったんです。ハヤカワマサタカギャラリーで飲んだ二次会かなんかで。いわゆるギャラリーガイドは各都市にあるんですよね。ロンドンは2種類あったかな、ケルンにも、グラーツ、バーゼル、ウイーン、ニューヨークになると本になってますけど。ほとんどディレクターが同世代で、1960年代中盤の生まれの人達ですから、話題が通りやすいといったことで、企画画廊の仲間うちではじめた。仕切りはオオタファインアーツでやってくれてますが。

吉村:あれ見て、結構いろいろ行けて助かります。

岡部:前に、無かったことがむしろおかしかったとは思いますがね。

池内:そうですね。みなさん持って歩いてますからね。

岡部:みんながお金を少し出し合っているんですか?

池内:もちろん、そうです。月か、ワンシーズンいくらぐらいですかね。実際のコストはたいしたこと無い訳ですから。みなさん大学の2年生ってことは、20歳ですね。いやー若い。

吉村:レントゲンさんが扱っている作家さんで篠田太郎、渡辺英弘を見たんですけど、かなり良かったです。

池内:ありがとうございます。

岡部:もし資料があったらお願いします。来たことのない、初めての学生もいるので。

池内:ええ、わかりました。  
  (テープ起こし: 竹内 亜季)


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