Cultre Power
cultural institution abroad ジャパン・ソサエティー/Japan Society(塩谷陽子/Shioya Yoko)
contents

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Copyright © Aomi Okabe and all the Participants
© Musashino Art University, Department of Arts Policy and Management
ALL RIGHTS RESERVED.
©岡部あおみ & インタヴュー参加者
©武蔵野美術大学芸術文化学科
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インタヴュー

日時:2006年7月6日
場所:ニューヨークのジャパン・ソサイエティ

01 幼いころから音楽と身近だった

   

岡部あおみ:塩谷さんは主にジャパン・ソサイエティでの舞台公演のプログラムがご担当ですね。

塩谷陽子:そうです。ただ2005年の4月からはフィルムのプログラムの責任者も兼ねていますが。ただ映画はしろうとなので、スタッフを使ってプログラムの方向性とかマーケティングとかの戦略を練って指導するだけです。ゼロから全部やっているのは舞台公演ですね。

岡部:昔から音楽にお強いとか、ご家庭の環境などもあったからでしょうか。

塩谷:音楽だけというわけではなくて、それこそ物心つく前から、いろんなジャンルの舞台ものを日本でものすごくたくさん見て育ってますね。家族の環境ですね。うちの父親と母親がアマチュアですけど、オペラの声楽を習ってて、声楽を習ってた所で知り合って、結婚したという夫婦なんです。私はよく揶揄って、「西洋音楽・・主義」の権化のような家庭と言いますけど。西洋音楽とかオペラとかバレエとか見に行くだけじゃなくて、日曜なんか朝からオペラのレコードがガンガンかかっていたし、父親にしょっちゅう伴奏させられてたし。アメリカに来てからも、仕事という文脈ではなくライフワークの範疇で、ものすごく沢山観てますね。

岡部:それでは毎日、夕方から夜にかけてもともかくお忙しいでしょうね。

塩谷:夜は忙しいですね。ほとんど潰れてます。でも、この仕事に就いてからは義理で観に行くようなものも非常に増えました。日本人の関係のものは、とりあえず観とかなきゃという感じで観に行くものが多いから、そもそも出る回数も増えました。でも、この仕事にいるから週に5日間は観に行くけど、この仕事にいなくても週に3日間は絶対観に行くでしょうという言い方をしていますね。ただ、例えば8月の半ばくらいは観にはあまり行かないですし、でも、ヨーロッパに行ったりすると、あるいは日本に行ったりすると、昼にあっちで観て夜にこっちで夜観て1日複数公演、というような風にもなります。ですからまぁ平均すれば週に3.5から5公演の間くらい観ているという感じになりますか。

岡部:それはかなりすごい。そこまで観ている人は少ないでしょう。

塩谷:だから、仕事だという意識ではできない仕事ですね。だまってても観に行く人じゃないと、こんなつらい仕事はないですよね。

岡部:昼間も仕事して、夜もまた行くわけですから。

塩谷:そうなの。だからよく「夜の商売」だって言って笑うんですけど。

岡部:東京芸大では、音楽学や音楽理論をなさっていたんでしたよね。お父様の伴奏していたのだから、ご自分でも演奏なさるんですね。

塩谷:所属していたのは楽理科というところです。ピアノは、もちろん必須ですから弾いていましたが。

岡部:作曲家とか演奏家になろうと思われたことはないわけですか。

塩谷:中学1年のときに絶対向いていないと確信しましたね。一応、中3くらいまでは、多少、指も怪我してはいけないと思って、ボールを扱うような運動は避けていた。それでもやはり私は《体育系》の人間なので水泳部に入っていたんですけど。水泳部に入った一番大きな理由はやっぱり、ボールを扱うのはやめとくかなとか、ラケットも片手だけで握るから両手のバランスが悪くなるとか言われたので、そういうのではないのと思って水泳部にしたんです。演奏家が絶対に向いていないことがよく分かってから、高校からはバスケット部でした。

岡部:ご両親もあきらめたという感じだったのでしょうか。音楽好きのご両親が一番期待なさっていたのでしょうし。

塩谷:親はそうでもなかったかな・・・でも当時の日本は今の日本の音楽教育とは違うので、親が鬼のようにならないとだめでしたね。子供がいろんなことに興味があるような状態ではだめって言うのがかつての日本の西洋音楽教育でした。だから所詮そういうものに育って欲しいとは思わなかったので、プロになって欲しいと思っていなかったようですが。

岡部:ただ自分たちのように、音楽好きであればいいというような感じですかね。

塩谷:そう。でも親の影響が逆に働いて、私は30代前半くらいまで19世紀のオペラなんてほとんど聴いただけで鳥肌立つくらい嫌いでした。本当に。だから、20世紀のオペラは父親が聴かなかったので、アメリカに来てからは20世紀のオペラは何度もよく聴きに行きました。父にとっては知らないものだったようですけれども。だから、アーロン・コープランドやベンジャミン・ブリテンのようなオペラはよく聴きに行きます。19世紀のオペラは今でもだめなものはだめですね。

岡部:そうですね。オペラはとくに肌に合う、合わないがあるようにも思います。

塩谷:でも、30代後半から、これは親に後から感謝していることですが、Voiceという楽器に関してすごく耳があると思いました。自分の価値観、審美眼というのがものすごくはっきりあって、こういうのなんて言うんでしょう、自己満足というか、エリート主義と言うのかもしれないけれど、ちょっと気持ちがよくなりましたね。

Japan Society
ジャパン・ソサイエティ
©Japan Society

02  ニューヨークへ

岡部:ニューヨークにおける芸術家の支援システムについて、塩谷さんがお書きになった『ニューヨーク-芸術家と共存する街』の本のなかでは、舞台芸術家だけではなく、むしろニューヨークにいる美術作家に多くの比重が割かれていますが、アートの分野にも興味があったわけですか?

塩谷:はい。前夫が彫刻家で、私はずっと大黒柱でしたから、美術というインダストリーの中で美術作家がどうやってモノになろうとするかということは、興味があったというよりもむしろ私にとっても同様のサバイバルでした。一蓮托生というような感じでしたから。そもそもニューヨークに来た理由は、いろんな理由が重なっていますが、80年代の当時のアメリカは、イケイケのアートブームだったのに、一方の日本は相変わらず「年功序列・歳の順」のような「順番待ち」の世界で、40万円くらい出して2週間銀座の画廊を借りるという風な方法しか世に作品を出す機会は無かった。前夫は日本で育った普通の日本人ですけど、生まれた場所だけニューヨークで、二重国籍だった。米国籍があるってことは、私もすぐにグリーンカードを取れるわけです。だから要は、法的に日本でもアメリカでも、どちらにも住める選択肢があるのだから、行くかって言って26歳のときに来たんですね。

岡部:貸し画廊で個展するために、かなり前から予約するというシステムですよね。コンテンポラリー・ギャラリーで、自主企画で芸術家を押しだしていくようなところは、当時は本当にわずかしかなかったですからね。

塩谷:「コンテンポラリー・アート」という概念自体が、今から考えると存在していなかったですよ。例えばパルコ・ギャラリーに80年代の冒頭にアンディ・ウォーホルのシリーズが来ましたが、「今作られたもの」が、湯気が立った状態で置かれているなんていうのを見たのはほぼ初めてのような気がするし。大学のときに西武美術館で見た、例えば、ジャコメッティの本物がずらっと並んでいるなんていうのは80年とか81年に初めて見た。でもジャコメッティなんて言ったら、今の感覚で言ったらコンテンポラリーじゃなく、モダンアートですよ。でも「現代のもの」を見たという珍しい体験として眺めていた。同じ時期に、デイヴィット・ホックニーのプールに飛び込むシリーズとかが西武美術館に並んでいましがた、あれも《いま一番新しい》コンテンポラリー・アートだってことでながめていましたから、世界のコンテンポラリー・アートの動きとの間に莫大な時間差がありました。だから本当の感覚で言ったら、当時の日本は「コンテンポラリー・アート」という概念すらなかったわけで、そこで何かをすること自体、完全に呼吸が出来ないという雰囲気が我々2人ともしていたのですね。

岡部:結局2人とも初めてニューヨークで生活をすることになったわけですから、最初は大変だったでしょうね。

塩谷:若かったですから、「日本でこれを捨てて行くぞ」っていうほどのものは何もなかったし。5、6年して日本に帰ったとしてもまだ30代の前半だったのだから、あまり構えもせずに来ただけです。

岡部:アメリカには少なくても、コンテンポラリー・アートを支えるインフラストラクチャーはあるわけですから。日本ではまずそれを作りながらやらなくてはいけない。

塩谷:だから、日本のアーティストたちはみんな偉いなぁとよく言ったものです。ニューヨークにいればいるほど日本の状況がますます馬鹿馬鹿しく感じられて来ましたから。単に比較の問題として、帰る理由を見出せないという状況で、我々は長々と米国に住んできたわけです。当時は本当に基本的な問題が根本的に違いすぎました。バブルの境目で、日本でメセナ協議会ができたのは90年頃ですよね。当時のメセナ協議会が出していた機関紙では、海外のいろんなサポートシステムを探るといった記事が掲載されていましたが、見ている所はメトロポリタンオペラだとか、リンカーンセンターだとか比べものにならない巨大なところばかりで、いくらそれらを眺めても日本にとっては実質的な参考には何もならない報告書や本ばかりでしたからね。う。

03  コンテンポラリー・アートのサポートとデモクラシー

岡部:こうした日本の状況を見ながら、ニューヨークでアーティストたちは一体どう生きているのか、生かされているのかといったプロへの道への地道で具体的な方法や生活の仕方などを探求なさったわけですね。

塩谷:そう。当時の日本では魚を釣りたいと思って一生懸命クジラを釣る方法を探しているようにしか見えなくて、まずどの魚はどんなエサを食べるのかということから、自分の近所にはどんな魚がいるのかを見ないで、クジラの研究ばかりしていても仕方がない。ものすごく不毛な議論とリサーチばかりしていると思ったんですよ。でも、たまたまラッキーで、当時AERAの副編集長だった人がすごくよく分かってくれて、「私はコマーシャルなもの文化の環境にはまったく興味がなく、ハイアートが社会でどう機能しているかが書きたい」とって言って書かせてもらえるようになったんですね。あそこはオピニオンを書く場所ではないので、あくまでジャーナリストというか第三者のものの言い方で書くんですけど。5、6年くらい書いていましたかね。

岡部:そのAERAの連載をまとめて出版なさったということでしょうか。

塩谷:そうではありません。要は、一人称で書けない媒体なので、そこに書けないものが、本当に私の一番言いたいオピニオンの部分。報道としては書けなくて溜まっていったオピニオンを本に書いたんですね。AERAの記事を書かなかったらあそこまでいろんなことを書かなかったと思うんですけど。逆に言ったら、溜まったものを出したので、あれを出した後に、次は何を書くんですかってよく言われましたけども、言ってみれば便秘状態のようなものを出しただけなので、次から次にというふうには思ってなかったですね。ただ私は非常に天邪鬼な人間で、あれを出したあとに、いろんな人に面白いと言われたりとか、この本を基に喋ってくれだとかおっしゃってくれる方もいらして、それはとっても嬉しかったんですけど。結局、私があそこで書きたかったことを一言で言うと、少なくともアメリカにおける芸術援助というのはデモクラシーというものが根源であるということ。そういうことによって、何故コンテンポラリーのアーティストをサポートしなくてはいけないかという論拠ができるという話をしていて、日本には論拠がないから、かたや伝統美術や伝統芸能はサポートしていたけど、論拠がないものなのでコンテンポラリーをサポートできない時代があまりにも長くあった。つまり、「論拠」を提示しないとお話にならないという時期にあれを書いたわけです。ですが、あれを書いてからもう10年近く経っているわけですね。材料を集めた時期から計算したら15年くらい経っています。今、論拠が確立されたかどうかは別にして、もう語るべきことが全然違うと思います。でも今何かを書くとしたら、一番興味があるのは、「デモクラシーが芸術をダメにする」という話ですね。

岡部:確かにそうですね。それが今、アメリカで現実化しているという事実ですね。

塩谷:あの本は、芸術をめぐる米国の状況の半分だけを、日本人に分かりやすいようにピックアップして、当時の日本の状況の改善に役に立つであろうという視点から書いたのであって、デモクラシーと芸術という関係から言うと、残りの半分は完全に毒の塊みたいなところがある。次に書くんだったら、前にここに書いたのと全然逆のこの「毒」のことを書きたいですね。

04  投資によるマンハッタンの変化

岡部:あの本ではニューヨークで実施されている芸術家サポートに関するポジティブな面だけが書かれてます。それでも現状が厳しくなっていることなどは書かれていますが、最近はまたさらに、実情は変化してますよね。

塩谷:私はよく、「腑抜けたニューヨーク」と呼んでいるんですけど、例えばニューヨークに留学したい人たちから、文化庁とか、アジアン・カウンシルに出す助成金申請の推薦状を書いてくれという話が多いんですが、私には、なぜ今ニューヨークに来たいの?という疑問があるので、「ニューヨークじゃない方がいいんじゃないの」って言ってます。日本みたいなうるさいところにいて、疲れたから好きなことだけをしたいという人にはニューヨークは向いているかもしれないんですけど、創作のインスピレーションをと思う人には向かないと思う。

岡部:私もそう思います。今はあまりにもコマーシャルリズムに牛耳られてしまっていますから。

塩谷:ものすごい消費の町の権化で、英語的で言うと「Money Driven」、日本語で言うと成金主義というか、「お金がすべて主義」。本当にお金の牛耳られ方がひどいですから。

岡部:貨幣主義ということでいうなら、昔からでしょうが、それがデモクラシーという美辞麗句をとっぱらって、露骨に現実的にすごい威力を発揮しているのはとくにここ10年ではないですか。

塩谷:そうですね。庶民にとっては全然実感がないけれど、世界にダブダブお金が余っていると言われていて、そのダブつきの一番のひだはニューヨークにあるわけです。だから簡単な話、投資が盛んで、例えば家賃もあまりにも高すぎるから、アーティストだったり、アートに近いようなかたちの仕事だと、ランニングコストが高すぎるんですね。ダウンタウンのミートパッキングエリアなんかは、今はギャラリー街の一番の南端ですから、今はすごく家賃が高い所になっていますけど、例えば、7、8年前はあのへんはゲイクラブが多かったんですよ。10年ほど前に、SMクラブとかゲイクラブになっていたような所で、毎月第一水曜日だけ結構有名なダンサーなどが出てくる催しがありました。ダンス・カンパニーなどにはゲイの人たちが多いから、ネットワークがあるわけ。普段はかなりいかがわしいクラブなんですけれども、毎月第一水曜日だけは、プロのよく知られている人たちや若手のダンサーたちが出演して、自分で作った小品を見せる場所だった。観に来るのは、ダンスの業界人などインサイダーだけでしたが。始まるのが夜の11時くらいで、終わるのが12時半。周りは食肉工場だらけで、夜は危険ですからみんなものすごく急いで歩いて帰ってきて、七番街くらいまでたどり着くとホッとするという風な地域でした。でも、こういうエッジな“尖った”ことが起こっていた場所も、なんだかんだ言ってマンハッタンのダウンタウンだから、普段生活している場所から歩いて5分ほどの所なわけですよ。ところが、昨今、その手のとんがったものを見ようと思ったら、クイーンズやブルックリン、ウィリアムズバーグまで行かなければならない。このへんはまだ地下鉄がそばまで来ているからいいんですけど、ブッシュウィックとかレッドフックの近くなんかは交通手段が何もないですからね。

岡部:では車の無い人は無理ですね。

塩谷:だから、バスですが、週末の土日だと、バスの運行もあやういから、ものすごい根性出さないと行けないわけですよ。

岡部:相当精神力と体力が必要になりますね。

塩谷:そう。だから、結局かつてのような影響力やパワーは持ち得ないわけで。そんな催しがあると知っても、簡単には行けないから足が重くなる。連携もしにくくなっている。結局、「様々な潜在的なムーブメント」というものが散在してしまって、化学作用みたいなものが起きにくい。物理的にアクセスが簡単でないということは、モノを生む場所としてはものすごく不利ですよね。

岡部:ラディカルな試みが存在しても、地理的に散在してしまって連携できないという現在のニューヨークのクリエイティヴィティの弱体化は、東京などの大都会で、どこに行くにも遠くてアクセスしにくい拡張型の大都会での活動がなかなか全体としてパワーをもちにくいということにもつながるかもしれませんね。ただ、マンハッタンの場合、ヴィジュアルアーツに関しては、たとえば、チェルシーの凝縮度などを見ると、逆に集中した部分のありますね。もちろん、それがいいとは限らないわけですが。

05  ギャラリー幻想とベルリンの可能性 

塩谷:チェルシーのギャラリーのあり方にも、やっぱり行き過ぎたコマーシャル現象が見られますね。ギャラリーが扱っているのは、美大の学生の青田刈りか、ヨーロッパの30代後半から40前半くらいのすでに欧州ではエスタブリッシュされたアーティストか、そのどちらかですものね。

岡部:そう、内容が限られてますね。チェルシーが大衆的な場所になってきたので、わかりやすい絵が多く、売れそうな作品が多くなっていますね。

塩谷:そう。だから例えば、30代後半のローカルなNYのアーティストなんていうのは一番どこにもお呼びがかからないですね。でもそうしたアーティストを見捨ててしまったら、ローカルなアートヴィジョンは一体どこから生まれるか。そういう人たちが次の時代をひっぱっていく人たちなのに、取り上げられているアーティストを見ているだけで、これじゃあだめだと思いますね。だから生活するだけでもものすごく大変なのに、現代美術の作家たちはよくみんなここで頑張っているなと思います。私が来た80年代の終わりごろには、日本の美術関係者たちの間では「ニューヨークでは、ギャラリストが無名の作家のスタジオ訪問をする」という伝説が生きていまして、来てみると、すでにそういうものは昔の話なんだと知りました。が、それでもまだノンプロフィットギャラリーの人たちは、当時はまだ積極的に無名の作家のスタジオ訪問していました。今はもうほとんどないですね。

岡部:今はアメリカの美術市場めがけて、世界中から沢山若手作家が集まって来て、ギャラリストもポートフォリオを見るだけで大変のようですね。生活が大変とはいえ、NYにいるアーティストの数は減っているどころか増えているように思えますし、NY幻想は、まだまだ十分に生きていると思います。

塩谷:そうね。実際パリだって、アートのパワーがなくなってからも、沢山の作家がパリに行ってましたもんね。

岡部:それと同じような幻想効果が現在のニューヨークにもあると思いますが、マーケットにひかれるという現実的側面が、パリとは違うのではないかしら。だけど、こうした状況が分かっているアーティストたちはみんなベルリンに行ってますね。

塩谷:もう今は完全にそうですね。街を歩いたら空気が違いますもの。だから、実は私はこの前あるアーティストの推薦状を書いていたときに、その人がインスピレーションが欲しいとか、どんな風にアーティスト同士が出会って、語り合ったりするとかを知りたいと言うから、「じゃあここじゃなくて、ベルリンを勧めるわ。」と言ったんです。

岡部:ただ問題は、やはり語学です。ドイツの人は英語できるけれど、拠点にするにはドイツ語をマスターする必要があり、これからドイツ語を頑張ってやって永住するならべつだけれど、作品制作の大事な時期に、それだけの時間と労力を投資して、本当に役に立つのかみたいなところでみんな迷う。逆にニューヨークだと英語なので、アート界なら世界中で通用するし、支援や流通のすべてのインフラが可能なような気がするわけです。チェルシーだけで300-400軒もギャラリーがあるのだから、1軒ぐらいには入れるのではないかという数の魔法もある。そのかすかな希望が、まさか400あるギャラリーでまったく顧みられないなんてことは想像もつかない。だけれど、実際には、とくに外国人の場合、そういう不可能性は非常に強い。ニューヨークのギャラリーに入れるのは、本当に類まれな幸運だということですね。日本だとまず企画で作家を押しだすコマーシャル・ギャラリーの数が非常に少ないから、10軒あっても、みな既に扱っているアーティストがいて、最初から入れないと思ってしまうわけです。

塩谷:あとロンドンなんかもそういう意味では多少楽かも知れないんですけど。ただ、マンハッタンのように場所が集積していないから、人と出会のが難しい。私が美術作家かコレオグラファーだったら、絶対ベルリンに行くと思います。

岡部:私もそうですね。ミッテという旧東ベルリン地区で開催されるのですが、2004年に引き続き、今回も2006年のベルリン・ビエンナーレを見に行ってきました。私はパリに長く住んでいましたから、ベルリンの壁があったときにも何度か行きましたが、壁がなくなってからのベルリンは、大都市なのに、どまんなかに大きな空白がある一大解放区になって、全然違いますね。

塩谷:ミッテの方には、アリの巣みたいに、こっちにあっちにいろんな人が沢山いて、人と会ったり、情報を得たり、どんどん変わっていく現代の中に自分がいるんだというエネルギーがものすごいです。

岡部:街の変化と自分自身に一体感があって、クリエイティヴな刺激が生まれるという都市的状況は、戦前のパリ、戦後のニューヨークとか以外、なかなかあることではないので、それは非常に重要なファクターです。 塩谷:80年代の終わりにソーホーに行ったときに、日本からきたばっかりの私には、ボロボロのビルの2階や3階にぎっしりギャラリーが埋まっている状態がとてもエキサイティングに感じられました。それがみんなチェルシーに移ったときにもう全然様子が変わっていて、ギャラリーは路面店ではないともう商売にならない。しかも、ものすごい先行投資をしてインテリアを綺麗にしないと、勝負にならない。今、美術の売買をするというメンタリティーが全然違いますね。

06  ニューヨークの美術館のいま

岡部:最近、ニューヨーク・タイムズに、ブルックリン美術館の記事が出ていて、あそこはエジプト美術があったり、さまざまなコレクションを収蔵しているのですが、コレクションべつの専門の学芸課を廃止して、テーマによって一緒に展覧会ができるようにしたという話が書かれていて、それへの批判もあるんですが、だいぶ前に独立行政法人化の流れのなかで、東京国立博物館がやはり専門別学芸課を廃止するという決定をして、物議をかもしたことがあったんですね。アメリカの美術館も、だんだん日本の美術館の在り方に似てきたところがあるのかなと思ったのですが、やはり美術館が増えて、資金繰りが大変になってきて、ますます自助努力で稼かせがなくてはならなくなってきたためでしょうか。

塩谷:ブルックリン美術館の館長は、ボストン美術館にいた人で、物議をかもすような展覧会をもってきて耳目をひく---という運営のやり方で、よくあちこちでたたかれるんですけど。たとえば、サーチのコレクションを紹介した「センセーション」展でも、えらくたたかれましたね。これはたたくほうが悪役でしたが、そのあと、スターウォーズの展覧会でもものすごくたたかれて、なぜ美術館でこんなもの見なきゃいけないのか、などと言われてました。ブルックリンはなかなかクセ者です。グッゲンハイムなんかも、BMWのバイクのショウとか、ルイヴィトンのショーとかでは、うるさくたたかれてましたけど。

岡部:でも最近は大人しくしていて、いろいろいい展覧会を開催していますよね。

塩谷:グッゲンハイム美術館は、大きなグッゲンハイム財団の中の1美術館なのですが、トーマス・クレンズが館長をおりて、今はファンデーションのトップになりました。それに伴って、グッゲンハイム美術館の館長は、20年近くだったかもいた筋金入りのキュレーターが館長になったので、クレンズは企画とは関係なくなってます。クレンズは、90年代に美術史の卒業資格を持たないで館長になった珍しい人です。MASS-MOCAマスモカと呼ばれるマサチューセッツ現代美術館の仕掛け人です。この美術館が完成したときには、クレンズはもういなかったのですけが、あの構造を作ったのは彼で、日本風に言えば「アートを使った地域再開発事業」を提唱したなんですね。

岡部:アメリカの美術関係者には、よく「マスモカマフィア」とかいって、揶揄するというか、悪口をいう人がいますね。彼はスペインのビルバオにグッゲンハイムのサテライトを作って、美術館拡張主義の権化になって成功させたわけですが、ビジネス系のディベロップメントに強いんですね。

塩谷:会うとカリスマ性があります。うさんくさいようなことを沢山聞いていても、会って喋ると、すごく魅力的な人間だと思いますよ。マスモカのときからグッゲンハイムにかけて、クレンズの片腕だったマイケル・コーバンは、その後DIAセンターの館長になってDIA・ビーコンを手がけて大成功させ、その後引き抜かれて、今はロサンゼルス・カウンティ美術館の館長になりましたよね。今は館長も、資金繰りや地域の再開発が上手でないとだめ。美術だけしているんではだめだと言われて久しいですね。

岡部:DIA・ビーコンは、ミニマル・コンセプチュアル系の世界でもっともすばらしい展示場だと思います。土地の買い占めをはじめ地域開発を実力派のコーバンが手掛けたので、キュレーターとして優秀なディアのリン・クックが頑張ってやったという話を聞きましたが。

塩谷:そのあたりはよく知りません。開発にあたってのいろいろな話は、オープンの直後に『地域創造』という雑誌に書きましたが。             

Japan Society
ジャパン・ソサイエティ
©Japan Society

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ジャパン・ソサイエティ
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ジャパン・ソサイエティ
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07  ジャパン・ソサイエティという組織と活動

岡部:最後にジャパン・ソサイエティについてお聞きしたいと思います。

塩谷:この組織は1907年にできたので、今年は100周年記念の年です。様々な事業を行ういろいろな課があって、大きく分けると、文化芸術部門、国際関係部門、教育部門という3つの柱があります。教育部門は、日本語を教えることを含めて、NYの公立学校を対象に日本のことを学んでもらう様々な活動をしています。例えば、日本のことを生徒に教えたいという先生にワークショップをしたり、小学生に課外授業を提供したり。国際関係部門は、簡単に言うと、私はよく「ネクタイをしめてる人用の授業」と言っているんですけど、企業関連プログラム---つまり、企業の方々を対象にセミナーやシンポジウムを開いて、日本の経済や日米関係の政治といったテーマを扱っています。私が属している文化芸術部門は、舞台公演部、ギャラリー部、映画部、そしてデザイン、建築、ファッション、文学あるいは食の文化などをテーマにした講演会等を行うレクチャー部から成り立っています。私は、ジャパン・ソサエティーのArtistic Direcctor(芸術監督)として、舞台公演部と映画部のヘッドを務めており、舞台公演部では、ジャパン・ソサエティー内の劇場で、コンテンポラリーの演劇・ダンス、音楽から古典芸能まで、様々な公演を主催しています。

岡部:アレグザンドラ・モンローさんが長年、ここのギャラリー部の責任者でしたが、グッゲンハイムに移籍されましたね。

塩谷:彼女は6、7年いましたでしょうか。いろんなアイデアを語る相手としては非常にいいパートナーでした。インスピレーションという意味で、お互いに刺激しあえるよい関係でした。なかなか彼女に代わる人はいないですからね。今の時代、美術展にしても舞台公演にしても、NPOの組織の中で部署を率いて行くには、プログラミング(事業の企画)ができるだけではだめですね。お金を集める能力がないと。それができないと、ディレクターというポジションには能力不足です。日本から優秀なキュレーターを連れて来ることはできるかもしれませんが、キュレーションはできでも、日本から来たばかりの人では米国でおいそれとお金を集められるものではないでしょう。自分で言うのもなんですが、私も米国がもう長いですから、私自身で集めることのできる金源がある、だからディレクターを務めていられるんですね。プログラミングの能力がある人材というだけであれば、日本から優秀な人連れてきたら一番簡単なのかもしれませんが、資金調達能力という意味ではなかなか難しい。アレグザンドラはこの面でも優秀でした。

岡部:塩谷さんご自身は、ファンドレージング(資金繰り)をどうなさっているんでしょう。アメリカには数多くの財団があるので、そうしたところにも応募なさるのでしょうね。

塩谷:私の強みは、アメリカ人の個人で私のやっていることに賛同してくれて大金を出してくれる人が何人かいることもありますが、それだけだと絶対にアメリカ人に負けるでしょ?それとは別に、日本の企業からお金をもってこられること。あと国際交流基金や文化庁といった日本の行政機関と密にコミュニケーションができるあたりが強みです。日本人が突然ニューヨークに来て個人から資金を集められないのと一緒に、アメリカ人にはこのあたりの密なコミュニケーションは無理ですから。

岡部:年間どのくらいの資金を集めるのでしょうか。

塩谷:集め方もいろいろです。たとえば、この舞台公演部のシーズン・パンフレットには、文化庁の名前が数々掲載されてますが、文化庁は海外の組織に直接助成金を出すことはしません。ですから、私は招聘する日本の団体に「必ず文化庁に海外公演の申請をしてください」と頼んでいます。彼らが助成金を得られれば、我々ジャパン・ソサエティーが渡航費と宿泊費の負担をせずにすみますから、いわば間接的な資金調達です。ただ、そういう風な仕組みにするには、日本の会計年度のことや文化庁の助成金の締め切りのことなどが頭に入っていないと、プログラミングのタイミングとうまく噛み合わせることができません。私の前任のディレクチャーはみなアメリカ人でしたから、そういう風なことはしていなかったんです。舞台公演部は、私が初の日本人のディレクターで、ですから招聘団体に日本国内で必ず助成金の申請をしてもらうという方法は、以前は行われていませんでした。

岡部:ニューヨークのホテル代高いから、200ドルぐらいで20人が公演で来たら、大きく予算が食いますね。

塩谷:まさにその通りですよ。ジャパン・ソサエティーの資金源は、大きく分けて4つあります。まず、基金からの運用益。今ジャパン・ソサエティーの基金は100億円ほど。この組織は米国のNPOとしては「中型」という規模ですが、中型にしては8千5百万ドルの基金をもっているのはものすごいことです。この基金の運用益が、年間700万ドルほどあります。

岡部:創設のときの基金でしょうか、日本からも出資していたと聞いたように覚えているのですが。

塩谷:ここは100%アメリカの民間非営利団体です。私の部は私とたまたま私のスタッフは日本人が多いですけど、ほとんどアメリカ人です。

岡部:理事会のボードメンバーには、日本人が入っていませんでしたか。

塩谷:例えば三井、三菱、トヨタといった大企業の米国のトップがボードになるので、赴任した人の持ち回りでボードメンバーに加わってらっしゃいますが。普通、米国の理事会は企業単位ではなく個人単位で成りたっているので、こういうシステムは珍しいですね。ただ、組織そのものは完全にアメリカのオーガナイゼーションなので、首を切るやらといったことも含めた運営方法は、すべてアメリカ式です。

岡部:アメリカ式なら、ボードメンバーになる人は、きちんと大口の寄付するという形ですね。

塩谷:どこのオーガナイゼーションも一緒です。ジャパン・ソサエティーが行っているアニュアルディナー(年次晩餐会)という年に1回の催しは、テーブルや座席を高額で買ってもらうパーティで、一晩1億ドルくらい稼ぎます。その他に、個人と法人からの年会費、個人と法人からの寄付金、財団からの助成金などが資金源です。また、In-kind Support、日本語でいう「現物支給」という調達もあります。例えば飛行機代。舞台公演部で利用する日本人の往復はANAからのサポート、展覧会はJALのカーゴと仲良し、コーポレート・プログラムはコンチネンタルと仲良くしていまして、いろいろ使い分けているんですね。私の舞台公演部の予算は、年間約1億円ですね。舞台公演部スタッフのサラリーやベネフィットなどを入れたら合わせて$1.8ミリオンくらいですね。

岡部:ほかの部署に比べて、ここが一番大きい予算をもっているのでしょうか。

塩谷:美術の方が年間の諸要費はもっと大きいと思います。ジャパン・ソサエティー全体の事業費は、12億円くらいじゃなかったかな。また8億5千万ドルの基金の一部には、運用益を舞台公演部とギャラリー部のスタッフの人件費を払うことにしか使ってはいけないという制約のあるものがあります。私の舞台公演部では、昨年、舞台公演部のプログラム専用の基金---1億5千万円ぐらい----がセットアップされました。ここから生まれる運用益が、年間訳7万ドル、880万円くらいですね。この基金のおかげで、毎年の資金調達の善し悪しに関係なく、1つか2つのプログラムを仕込むことができるのは幸運なことです。

(テープ起こし:大石裕子)

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