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cultural institution abroad クイーンズ美術館/The Queens Museum of Art(岩崎仁美/Iwasaki Hitomi)
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Copyright © Aomi Okabe and all the Participants
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©岡部あおみ & インタヴュー参加者
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インタヴュー

岩崎仁美(キュレーター)×岡部あおみ

日時:2007年2月9日
場所:ニューヨーク クイーンズ美術館

01 アメリカに魅せられて HIT THE ROAD JACK

  

岡部あおみ:岩崎さんがクイーンズ美術館に入られたきっかけと何年前に渡米したのかなど、当時の経緯をお聞きできればと思います。

岩崎仁美:きっかけはですね…私はまだ学生だったんですよ。アメリカに来たのが1988年の夏で、そのときは英語の勉強。ロサンゼルスにいたんですけど、ニューヨークに行きたいのは頭から解っていて、当時はナイーブだったんで、正統に学問的に美術史というパターンに懐疑的で、美術館学(ミュージアム・スタディーズ、 あるいはミュゼオロジ―&ミュゼオグラフィー)というものを学びたかったのです。美術館学の授業がある大学は限られていて、カリフォルニアか、ニューヨークにしかない。ニューヨークには旅行者として大学時代に来ていたんですけど、どうもLAよりはニューヨークの方が風土があってるというのもあって、最初NYU(ニューヨーク大学)に入って、美術館学をやりながら、美術史を学んでいました。

岡部:卒業なさったのはニューヨーク大学(NYU)の大学院ですよね。現在、私もNYUのミュージアム・スタディーズの大学院で特別研究員として、ときどきセミナーの聴講などもさせていただいていますが、そのころの美術館学は、今とは少し違うのでしょうね。

岩崎:今もそうなんでしょうが、動物園や植物園までも含んだいわゆる博物館学で、現代美術はおろか美術館そのものにあまりフォーカスしてなかったんです。私にとっては退屈でした。

岡部:現在は、学科の中心となっているブルース・アルチュラーという教授が以前はイサム・ノグチ美術館の館長をなさっていて、近現代が専門なので、現代や美術館は非常に重視されています。NYUには何年ぐらい在籍されていて、修士論文は何を書かれたのでしょう。

岩崎:3年いて、卒業しました。私の美術館学の論文は、3部作のショートでした。ひとつは、ギュンター・グラス、もう一つはジャクソン・ポロックと、それからもうひとつはVTC(ヴィジュアル・シンキング・カリキュラム)という美術館教育をテーマにした論文でした。その段階でもう日本に帰りたくないと思って、さらに美術史の勉強のために、93年にシティ・カレッジの大学院に入りなおしたんです。ビザの事もあって。

02  そのころ日本では I'm Ready

岡部:日本の大学はどちらでしたか。

岩崎:京都の精華大学で、グラフィックデザインのビジュアル・コミュニケーションを専攻していました。でも私は実技よりも理論しかやってなくて、文明論とか、メディア論とか。

岡部:もともと実技は興味がなかったわけですね。

岩崎:いや、もともとはあったんですよ!でも、最後はなくなっちゃいました。周囲がみんな当時はやりのコマーシャル界に出て行こうとする中で、全〜然興味がなくなっちゃって・・・で、結局その後、関西の西武西友に入って文化事業を手がけ始めたんです。

岡部:学部をでてすぐに仕事を始められたけれど、また勉強をしなおしたいと、ニューヨークへ行かれたんですね。仕事の期間はどれくらいでした?

岩崎:一年半、短いですね。そのあと、個人の作家のところでスタジオマネージャーやアルバイトをして、英語を勉強しながら、アメリカに行くまでぶらぶらしてました。

岡部:NYUにはすぐ入学できたのですか?

岩崎:入れましたね。

岡部:さすが。学生のころから英語が得意だったからでしょうね。

岩崎:英語が跳びぬけてできた覚えもないし・・・どうなんでしょう。

03  経験は重ねてこそ Where I'm Coming From

岡部:NYUに入学してから、さらに英語が鍛えられたでしょう。

岩崎:NYU時代に一番身に付いたのは、インターシップを通しての現地実習。私はインターシップに明け暮れていて、ニュー・ミュージアム・オブ・コンテンポラリー・アート、MoMA、ICI(インディペンデント・キュレーターズ・インターナショナル)に行きましたし、デニス・オッペンハイムのスタジオのアシスタントもやったりしていました。

岡部:ずいぶん沢山なさったんですね。NYUの今の院生たちも単位になっているので、みんなインターンシップをいろいろやっていますが、普通みんな1箇所だけが多いように思いました。

岩崎:私はすごくやりたかったんです。ひとつだけオフィシャルで、単位とお給料も出て、あとはみんな個人的に。ICIもお給料貰ってたかな?・・・インターンシップを積極的にやって、実践力がつきました。

岡部:それはどういう内容のインターンシップですか?

岩崎:まず最初にやったのが、ニュー・ミュージアム、自分の思い入れで勝手に応募して始めたのですが、私にとって、ある意味で現代美術の美術館のあるべき姿を理解するきっかけになりました。

岡部:創設者のマーシャ・タッカーさんがいたころですね。彼女はホイットニー美術館を飛び出して、現代アートを志向するより自由なご自分のアートスペースを創始したパイオニアですが、2006年の10月にまだ60歳ぐらいだったのに、ご病気でお亡くなりになりましたね。

岩崎:そう、つい最近亡くなったのですが、私の中である意味、ヒーローだったディレクターのタッカー女史はヨーロッパのクンスト・ハーレのモデルをアメリカの現代美術館運営に導入した最初の人でした。

岡部:当時は、アメリカにはそうしたタイプのアートスペースはなかったのでしょうか。

岩崎:なかったですね。ニュー・ミュージアムの創設の時期は、ちょうど他にもオルタナティブ・スペースの草分けの時期に当たっていますが、オルタナティブ・スペースではなくて、美術館だとうたった機関はほかにはありません。PS1がミュージアムという名称を使い出したのはずっとあとのことです。「美術館は必ずしもモノを集めるところじゃなくてもいい」。私はそういう思想的な部分にいろいろと影響を受け啓蒙されました。ニュー・ミュージアムではライブラリーのインターンで、70〜80年代ニューヨークのアートシーンと当時の現代美術をカヴァーするのにはそこのライブラリーしかない、という感じでした。ライブラリアンについて、本や資料の整理をする作業が、私にとって格好のイントロダクションになったんです。当時私のスーパー・ヴァイザーのラッセル・ファーガソンというライブラリアンは、現在LAのUCLAハマー美術館のチーフキュレーターです。MOMAには、毎年夏にヘレナ・ルービンスタイン・ファンデーションがスポンサーをする3000ドルなり、4000ドルなりが出る10週間のインターナショナル・プログラムがあり、それにも参加しました。すごく競争率が激しく、世界中から500人応募があり、20数人が選ばれます。

岡部:で、見事、運よく選ばれたんですね。

岩崎:ええ、でも、その時はたぶん日本人とかアジア人が少ないという恩恵があったと思うんです。ヴィデオ部門のバーバラ・ロンドンのところで仕事をしたんです。当時は特にヴィデオに関心があったわけではありませんが、バーバラのほうで日本人がほしかったのでしょう。でも、おかげでヴィデオの勉強にはなりました。いかに先駆的な日本人女性作家がこの分野で重要な役目を果たしたかということ、おそらく日本より外側でのみそうした歴史的事実が認識されていたのであろうという事情も含めて、知る機会になったんですね。

岡部:現在もバーバラのところでインターンをやっている日本人女性がいて、すごく楽しいそうです。ただバーバラはものすごくエネルギッシュで、夜までいろいろなイベントに顔を出して、出かけているのを見て、「私はそこまではついていけない」とは言ってましたけどね。

岩崎:彼女がちょうど日本語の勉強をしていたので、私、日本語の宿題を手伝わされましたよ。その後、ICI(インディペンデント・キューレーターズ・インターナショナル)ってご存知ですか? あそこでもとても勉強になりました。10人そこそこの小さいオーガニゼイションですので、展覧会コーディネイターのもとで仕事をしたり、他のキュレーターのプロジェクトのリサーチ・アシスタントもしました。

岡部:友人から紹介されてICIのキュレーターやディレクターともお会いしてお話を聞きしましたが、自分たちで資金調達をしながら、現代アートだけの企画をあそこまで手広くやっいる企画組織は日本にはないです。日本だとまず非営利ではなく、株式会社とか有限会社なので営利で、企画会社自体の経営があるため、どうしても動員を見込める近代美術の展覧会などもやらねばならない状況になります。

岩崎:アメリカの非営利企画組織には、ほかにはアメリカン・アート・フェデレイションという組織があり、いろんなチームでさまざまなジャンルの展覧会をやっています。ここは、現代美術だけに絞って、しかも個展形式の展示会は基本的にはしていませんが。 また、ロサンゼルスにあるキュレートリアル・アシスタント、ワシントンD.C.のサイトが、現代美術にフォーカスしている非営利の展覧会サービス組織です。所謂、大学付属ギャラリーや中小規模の美術館で、トレンディーなキュレーターがトレンディーなトピックを立て、ホットなアーティストを盛り込む。

04  宝くじは、買わなきゃ当たらない I Need You

岡部: 大学院を卒業した後は、すぐにどこかの現代美術館に入ろうと、アプライ(応募)を始められたんですか。

岩崎:始めたんですよ。その時は、ロスのMoCA(現代美術館)のNEA(National Endowsments for the Arts)という助成金つきの1年契約のキュレーターのポジションがあって、最終選考に残り、LAまで行ってインタヴューしてみたものの、最後に「グリーンカードはあるのね?」って言われて。「いえ」って言ったら、すごく嫌がられましたね。

岡部:岩崎さんの方では雇ってもらえたら、グリーンカードも当然取れると思ったんでしょ?

岩崎:まぁね。同じことはそのあとすぐブロンクス美術館でもあって、「あ、これはだめだな」と思いました。それとは別に、美術史の勉強が足りないと思って、とりあえず大学に戻ろうと、シティ・カレッジに簡単に入れたんで、あらためてクラスに座ってみると、「きゃぁ〜、私なんて英語解ってなかったんだろう」と思いました。

岡部:美術史のテクニカル用語を知らなかっただけじゃないかしら。

岩崎:いえいえ、ほんとに解ってなかったんです。「NYでなにしてたんだろう?」ってあきれるぐらいでした。

岡部:今でもNYUの大学院のカリキュラムは、理論的なディスカッションが中心で、教授の講義をずうっと聴くような授業はあまりないですね。みんなが参加して話しをするセミナーのような感じです。

岩崎:それでもシティ・カレッジでは、学部課程終了後ストレートで大学院に来た生徒から見たら、私はすごくおマセな生徒だったんですね。年齢的にもそうだし、実務経験もあるし。教授も私を知ってるから、「仁美、誰々の展覧会どこでやってるんだっけ?」とか、「何年にどこの美術館だっけ?」とか訊かれたら、私が「えーと、それは〜」とか、後ろの方に坐って胡散臭そうに答える感じ。インターンシップなどを通して美術館にコネクションもあったので、教授が「どこどこの美術館のツアーに行きたいんだけど、ちょっと連絡してくれる?」っていうことを頼まれもしました。そんな状態でいる時に、ニューヨークタイムスでクイーンズ美術館のキュレートリアル・アシスタントの応募を見つけたんです。「どーせ、ダメだろう」と頭から高をくくってたんですけど、とりあえずダメもとで応募書類を送ってみたら…入っちゃった。勿論、最後の最後になって「採用したいんだけど」って話になった時に、「ビザがないと最初に言っとけば良かった」って罪悪感を感じたくらいでした。 ところが「ビザがないんです」って言ったら「どうしたら取れるの?」って言われ、トントン拍子に話が進みました。私をそこまでして雇いたいと思った美術館の理由は、やっぱりストレートなアメリカ人でないという事らしかったです。

05  人種も芸術もサラダボウルへ 

岡部:クイーンズ美術館は1964年の世界博のときに建てられた建物を転用していますが、ここに入いられて何年目でしたっけ?

岩崎:10年目です。世界博が終わった後、「この建物どうしよう」ってことになって簡単な改装をしたんです。

岡部:大阪万博の後に開館した国立国際美術館みたいですね。2004年に市の中心にある中之島に移転して新設されたので、当時の建物はもう取り壊されていますが。クイーンズ美術館の特徴は、マンハッタンの周辺部に位置するクイーンズという場所で、ここにスタジオを持っているアーティストが沢山いるというのがひとつあり、世界博との関わりで、その歴史と地域をパノラマとして、観客にアピールしている点でしょうか。

岩崎:美術館としては、世界博のメモラヴィリアみたいなもの、もちろんパノラマが最たるものですけども、それを保護・保管するということがもともとの使命であるほかは、美術館としての機能はあまりきっちりと定義されていなかったようです。 現在のクイーンズ美術館のイメージが確立されたのは80年代後半、いわゆる世間的に「多文化主義」が一般的なヴォキャブラリーになってきたころですが、クイーンズはアメリカ国内で最も多様な文化をもつ民族が同居している地域なのです。おそらく地球上で一番人種の坩堝の地域でしょうね。

岡部:ニューヨークで活動するアーティストが多く住んでいるマンハッタンのもうひとつの周辺地域、ブルックリンよりもさらに種々さまざまな人種が入り交じり合う地域ですか?

岩崎:ええ、ここでは日常的に168ヶ国語が喋られているので、まったく比べ物になりません。チャイナタウンあり、リトル・フィリピンあり、ポーランドやインド、ラテン系は、ニカラグア、エクアドルやペルーからも来ていますね。

岡部: 1度、インド祭のような催しがあって、踊りもあるインド音楽を聞きに来たことがあります。それで、ここのキュレーターにもインドの方などが入っているんですね。

岩崎:彼女は教育普及担当です。私が知る限り、白人でないキュレーターは、80年代にいたラテン系の男性と私、私と少しオーヴァーラップした中国系アメリカ人です。3人以外は、みんな白人です。多文化主義がクイーンズにプログラムとして反映されるようになったのは、80年代後半に当時学芸部長だったジェーン・ファーバー(現在はマサチューセッツ工科大学、略称MITにあるリスト・アートセンターのディレクター)の展覧会を通してで、彼女の仕事はアメリカの美術館の展覧会の傾向に影響を与えた草分け的存在だったと思います。

岡部:ジェーン・ファーバー氏は随分日本贔屓ですね。

岩崎:そうですね、贔屓にしてますね。ジェーンは日本に行ったときに、PS3で中国出身の蔡國強さんの作品を始めて見て、蔡さんとプロジェクトをあたためだしたのが91年ごろで、蔡さんはクイーンズで1997年にアメリカ美術館における最初の個展をやったんです。

06  信頼×尊敬×発展途上 IDEN & TITY

岡部:蔡さんは今ニューヨークを拠点にしていて、中国出身の超有名な作家として活躍していますが、9年間ほど日本にいたので、ジェーンが会ったのはその頃ですね。岩崎さんはジェーンとはここではどれくらいの期間、一緒に仕事をなさっていたのでしょう。

岩崎:4年間。今も近所に住んでるんですよ。ジェーンとはずうっとお付き合いをさせてもらっています。彼女は草分け的な影響力を持った人で、例えば、かつてホイットニー・ビエンナーレはアメリカ人作家しか参加できなかったのですが、1998年にジェーンがゲスト・キュレーターとして参加した折に、アメリカン・アーティストの定義をアメリカで活動する作家と改めて、その枠を大幅に広くしました。

岡部:それまではやはり白人中心という感じだったわけですね。

岩崎:ええ。アメリカで活動するさまざまな外国人によるアメリカン・アートに対する貢献を、ホイットニーで発表する事が何で悪いのかという論理です。彼女の立場はプログレッシブにグローバルで、マルチカルチャー、そのことはクイーンズ美術館にとっても良い定義になったと思います。クイーンズならではの特徴を、ジェーンが確立したわけで、そういう意味で勉強になりましたし、辻褄の合う展覧会を作るとはどういうことなのか、美術館アイデンティティを確立するとはどういうことなのか、ということを勉強させてもらいましたね。その後、美術館内部で人事が変わるにつれて政治的にもいろいろなことが変わってゆき、あの頃の一貫性はなくなってきています。 個人的には上司や同僚との信頼関係をもとに一緒に突っ走るということが良い仕事をする上で必要なので、そういった意味では当時は本当に良い環境だった、と振り返ってみて思います。

岡部:2006年、春にボストンに行って、MITのリストセンターで展覧会を見て、ジェーン・ファーバー氏とも昼食をご一緒させていただきました。リスト・センターには菊池さんという教育普及の専門スタッフがいて、彼女は現在、ボストン美術館に移って仕事をしていますが、彼女が紹介してくれたのです。そのとき見たのは、巡回展で、ジョン・ケージやラウシェンバーグなどが登場する「EAT」をテーマとしたとてもいい展覧会でした。2006年秋には長谷川祐子さんが加わった共同キュレーションの展覧会もなさっていますね。知的で落ち着いた感じの方ですが、基本的にはアグレッシブな人なのでしょう。

岩崎:ええ、仕事に関しては。でも、私が心の底から尊敬するのは、仕事をするアーティストを信用し、尊重することです。他のキュレーターを見ていると、「それはキュレートリアル・バイオレンスでしょ?」と感じること、つまりキュレーターとアーティストのパワー・ストラグルみたいなことがたいていあるのですが、そうしたことはよくありがちだと思いませんか?

岡部:そうですね。でもジェーンは常にアーティストを立てていて、そういうことを絶対しない人なんですね?

岩崎:リスペクト。私もそれが絶対基本だと思うんです。ジェーンからいろんなことを学びました。

岡部:先ほど岩崎さんがおっしゃっていたクイーンズ美術館が変わってきて、美術館アイデンティティが曖昧になったという点ですが、展覧会などの方針にボード・オブ・トラスティー(理事会)の意見が強くなったということもあるのでしょうか。

岩崎:いいえ、当館ではすべてディレクター次第ですね。私はキュレーターとして、これは良くないと思うことをはっきり言いますが。例えば、「誰々のこういう個展をしたいんだけど、これだったら何とかこうした財団がこれだけ資金を出してくれるだろうし、もうパッケージになっているんですけど」って企画をもっていくとやっぱり強いです。

岡部:そんな風に資金調達の可能性も含めて企画を出した方が通りやすいのでしょうね。企画実現には、基本的に、チーフキュレーター、ディレクター、そして理事会に納得してもらわないといけないわけでしょ。

岩崎:でも、私正直言ってそこまでの規模の展覧会をまだやったことないんですよ。いつもそこまでファイナンシャルな面で努力しなくても、内容さえよければ、その辺に余ってるお金をかき集めれば何とか実現できる程度の小規模のプロジェクト・ベースのものを手がけてますね。

岡部:この10年間、これは自分でやった展覧会でも自分としても満足しているのという企画はまだないのでしょうか。クイーンズ美術館が主催しているビエンナーレも拝見したことがありますが、岩崎さんもかかわられてますよね。あれはどうなのでしょう。クイーンズに住んでるアーティスト達のことをつねにリサーチなさるなかから出てくるチョイスなのだと思ったのですが。

岩崎:それはお勤め人としてやらされた展覧会だと思っています。過去に企画実行した展覧会一覧を見直してみて、今でも納得できる選択をしてきたとは思っています。現在のところずっと何年も暖めている展覧会があるんですけど、あまりにも長く暖めすぎて一体この際どうしようかなという事態になっていますね。美術館の拡張計画がいよいよ来年に始まるのですが、2年ほどのあいだはおそらく展覧会を出来ないことになるので、余分に考える時間をもらって嬉しいような嬉しくないような。ひとつはパノラマというメカニズムを出発点とする展覧会で、人間が視覚を通じて得られる世界観なり現実把握に託す野望・情熱をベースにしたような作品を集めたものです。今まであえて一度も日本を取り上げたことのない私ですが、日本人作家を集めた展覧会を注意深く密かに練ってもいます。村上隆ではない日本美術の一面みたいなものを、移民としては存在しない日本人ではあるけれど、国外に散らばるジャパニーズ・ディアスポラの作家を5〜6人集めたしっかりした展覧会を開いてみたいともくろんでいます。
         

クイーンズ美術館
クイーンズ美術館
©The Queens Museum of Art

クイーンズ美術館オープニング、クリフとともに.
クイーンズ美術館オープニング、クリフとともに
©The Queens Museum of Art

(テープ起こし:青田 眞由子)

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