イントロダクション
藤原えりみ氏にレクチャーをお願いしたのは、彼女ほど、ある独特なスタンスで、村上隆をまっすぐ見続けてきた美術ジャーナリストはいないと思ったからだ。評論家のように、自分の理論構築の礎にするのでもなく、時代精神にのっとった美術傾向(症状)を見定めるための臨床例にするわけでもない。色メガネで否定しようとかかる偏狂な視線とは正反対で、彼女のまなざしはストレートで温かい。だからといって情に流されず、アンヴビヴァレントな価値観をも抱合する寛容な批評精神がすてきだ。美学をおさめてきた歴史的な視野の広さも感じる。
村上隆は、現代美術に興味のある学生にとって、ときには絶対神のようなシンボルとして立ち現れ、ときには批判すべき最強の対象として立ちはだかる。美術をめざす若者にとって、村上の存在は、己自らの立ち位置を明確にすべく要請してくる強固なマトリックスだともいえるだろう。
2001年9月に発行された奈良・村上の『BRUTUS』の特集は、日本と海外の現代美術界の落差をえぐりだすと同時に、美術市場に直結した欧米のアートシーンにおける価値生成の立役者、たとえばコレクター、ギャラリスト、美術館のディレクターたちを生き生きと描き出した。その特集に半年もの時間をかけた藤原氏は、レクチャーで、村上隆との初期のエピソードを交えた楽しい裏話や興味深い取材の苦労話を盛りだくさん話してくださった。(感謝!)
その特集の編集の過程で、「奈良・村上は世界言語だ」とアートディレクターが断言するようになった経過、その逆に、2001年東京都現代美術館で開催された村上隆の大個展の後、彼が日本の美術界で理解されないことに絶望して、「日本では個展をしない」とまで断言した結果の対比が、鮮明で示唆に富んでいる。
そして心に留めておかねばならない藤原氏の警告は、億単位に急騰した奈良や村上の作品を購入できる日本の美術館が今日ほぼ存在しないに等しいという現状だけではなく、彼らの重要な作品のほとんどが海外に流出してしまった現在、真っ当な批評さえも不可能に近いという現実の重さだ。
さて、芸術とは何かが問われている今、「奈良・村上は世界言語か?」という問いに、あなただったら、一体どう答えるのだろう。
(岡部あおみ)