イントロダクション
美術家・大浦信行によるドキュメンタリー映画『日本心中 針生一郎・日本を丸ごと抱えこんでしまった男。』(2002)をはじめとして、特に近年の切迫した事態は、幾度もこの批評家をさまざまな場所に召喚してきたようだ。アイロニカルに言うのではないが、おそらく、そのような状況で求められていたものは、批評家の言葉であるよりも、その言葉を発する人物から立ちのぼる、歴史の廃虚を想わせる濃密な空気のほうだったのかもしれない。
針生一郎に ドキュメンタリー映画、あるいは若松孝二のように物語映画の被写体になることを欲望すること、端的に言えば針生の「映像」を欲望することもまた、同様の条件に由来するだろう。批評対象を論じる自身の言説によって、批評家がいつしか一個の存在論と化してしまうような事態が歴史的な時間の蓄積とともに現象してしまうことがあるとすれば、針生一郎とは、まさにそのような批評家であるはずだからだ。
その批評スタイルは、批評家の生を強く背負う性質のものでもあった。しばしば「状況論的」、あるいは「ルポルタージュ風」とも形容されるように、針生自身が体験してきた時代状況や複雑に錯綜する事実の体系と、その言説は切り離しがたい。批評家としてのその質が揺るがしがたく一貫していることは、今回のインタビューの内容からも見て取ることができるだろう
かつて針生のスタイルを指して、中原佑介が「しごきの針生」と形容し、東野芳明が「俺は待ってるぜ」批評であると揶揄したことはよく知られている。「待っている」こと、すなわち「待機」することは、シュルレアリスムを否定的媒介としてダダへと遡行するというドキュメンタリー芸術の課題に向けられることになる。変革の契機としての事物が物質と意識の断層に回収されることなく、下部的な機構である民衆的情動へと直接的に流れ込むこと。そのような状態を実現していると見なされたのは、偶然性やナンセンスなど映画固有の錯乱を前近代的な民衆的混乱に接続することができたルイス・ブニュエルただ一人だけであるらしいと、針生の初の単著の評者であった佐々木基一が、中原や東野と同様の指摘を行っていたことも、本インタビューが伝える通りである。
そのような「例外」をブニュエル以外にあえて挙げるとすれば、岡本太郎の名が想起されなければならないだろう。しかし、映画が不可避的に観客を映画館という暗い室内に収容し、なかば強制的に映像の奔流に身体を浸させることで集団的な知覚的ショックを合成するものであるのに対して、アヴァンギャルドとしての岡本は、合理的に処理された抽象と非合理的なダダおよびシュルレアリスムの様式を「対極主義」の名のもとに衝突させ(つまりは映画作家のようにモンタージュさせ)、その意味で映像的な知覚的ショックの産出をねらいながら、どぎつい色彩、マンガ的な衝動、あるいは《太陽の塔》(1970)の巨大建造物に代表されるスペクタクルの、つまりは、より通俗化されたキッチュとしての「芸術=爆発」の定式を導いてしまう。映画が「集団的」芸術であったとすればブラウン管の中で叫ぶ岡本太郎は、その存在もろとも「大衆化」されたのだと言えるのかもしれない。
ドキュメンタリー芸術はついに成就されない。とはいえ、待機し、希求し続け、かつまさにそのことによって批評家としての独自性を実現してきた姿勢のなかに、その批評精神は存在する。それがたんに受動的に待ち続けるような姿勢ではなかったことは、諸外国に赴きヨーゼフ・ボイスやハンス・ハーケをはじめとする作家たちとの連帯を築いたことからもうかがい知ることができるだろう。そのため、いかなる転向も遂げることなく、ひたすら(能動的に)待つことの倫理のなかに針生一郎の批評の核心をみる私たちの関心の所在は、その思想と批評言語の形成の過程へと向かうことになり、インタビューは花田清輝や岡本太郎が活動した「夜の会」にかんする質問から開始された。
(沢山遼)
沢山遼|さわやま・りょう
1982年生まれ。美術批評。主な論文=「分割される自己―ロザリンド・クラウスにおける彫刻とヴィデオの諸問題」『第一回所沢ビエンナーレ美術展 引込線』(所沢ビエンナーレ実行委員会)、「レイバー・ワーク:カール・アンドレにおける制作の概念」『美術手帖』2009年10月号、「非在の表象――ゴードン・マッタ=クラークの初期作品群」『LACワークショップ論文集』第2号(LAC研究会)など。