インタヴュー
イントロダクション
シンポジウム「芸術の公共性について考える」
本シンポジウムは、武蔵野美術大学にて、2010年7月1日に開催された。この企画の主題である「芸術と公共性」は、故人である文芸・美術批評家、針生一郎氏が提案されたものであるが、残念なことに、針生氏がこの企画の準備段階でお亡くなりになったため、ご出席いただくことは叶わなかった。またその結果、当初は針生氏を交えた三者の鼎談として記録を残すことを予定していたが、針生氏の知己でもある北川フラム氏、山本和弘氏のお二人の対談形式での進行となった。この企画の趣旨に賛同し、快くご参加いただいたうえ、シンポジウム録の校正などでもお手を煩わせた北川フラム氏、山本和弘氏には深く感謝したい。(沢山遼)
シンポジウム
パネリスト
北川フラム(越後妻有アートトリエンナーレ総合ディレクター、瀬戸内国際芸術祭アートディレクター、女子美術大学教授)
山本和弘(美術評論家、栃木県立美術館シニア・キュレーター)
モデレーター
沢山遼(美術批評)
日時:2010年7月1日
場所:武蔵野美術大学
運営:岡部ゼミ
岡部あおみ:ではそろそろ始めさせていただきたいと思います。芸術文化学科の岡部と申します。私は10年ほど前からカルチャーパワーというwebサイトを運営しており、色々な方にインタビューをさせていただいたものを、そのwebに掲載しております。これを研究室の助手や学生達とともに手掛けてきました。北川さんが最初に越後妻有アートトリエンナーレのディレクションをされたときに一度、福岡アジア美術館でトリエンナーレを担当された方などと一緒に国際展のシンポジウムを2000年にこの場所で開いたことがあり、そのシンポジウムの内容もカルチャーパワーにアップロードしています。ですので北川さんは今回10年ぶりに2度目のパネル参加となります。
針生一郎さんはみなさんご存知だと思いますが、いわゆる日本の美術批評家の御三家と言われる方の一人で、最近85歳で亡くなられたばかりです。これまでカルチャーパワーでは自ら執筆する仕事をしているプロの評論家はあまりインタビューの対象にはしていず、参加していただいたのは主に現代アートの様々な実践に関わっている、例えばアートスペースを持っているディレクターやギャラリスト、キュレーター、制作に携わるアーティストたちが中心でした。ただやはり美術評論も現代アートを支えている重要なインフラであり、主導的な役割も果たしてきたわけですから少しづつ取り上げてゆく方針にしました。針生さんは長年美術評論家連盟の会長をされていましたので常任委員会でお会いする機会もあり、一度インタビューをさせていただきたいということは、だいぶ前からお話していました。そしてやっと実現することになった日に、たまたま私が重要な会議と重なってしまい針生さんのご自宅でのインタビューに行かれなくなってしまったのですが、私のゼミ生と卒業生で針生さんとのコンタクトをとってくれていた沢山遼さんがインタビューにいってくれました。
その針生さんのインタビューはカルチャーパワーにすでにアップされていますので、ぜひ興味のある方は読んでいただければと思います。その中で針生一郎さんが話していらっしゃることで重要なことの一つが、今日の「公共性」のテーマに関わるのですが、針生さんは若い頃に戦争を体験された方なので、いわゆる日本の"滅私奉公"、つまり自分を殺して公、当時の公というのは国家であるとか天皇に尽くすことで、それが当時日本の中心的論理、あるいは倫理でしたが、現在の日本は逆になっているとおっしゃっています。つまり"滅私奉公"ではなく"滅公奉私"、つまり私利私欲にみんな走ってしまっているのではないか。こういう状況のなかでは、芸術はありえないのではないかという問題提起をされています。
インタビューをアップロードするときには毎回かならず協力者の方々に一度読んでいただいてから公開しているので、針生さんにも最終的に編集したものを読んでいただきたいと、沢山さんを中心に色々やりとりさせてもらっていたんですが、その中で針生さんの方から、このカルチャーパワーでやりたいシンポジウムがあるとおっしゃられたのがこの企画でした。今日おいでいただいたパネルのメンバーの指名も針生さんの方からありました。今回のシンポジウムは先述したように、針生さんがご自身のインタビューで語っている今の日本の状況を憂いるという、彼の発案から企画されています。パネラーのお二人とも針生さんととても近い関係にいらっしゃる方々で、皆さんもご存知だと思いますが、ハンス・アビングの分厚い本(『金と芸術 なぜアーティストは貧乏なのか』、2007年、grambooks)を山本さんは翻訳・出版されたばかりで、著者のハンス・アビングを日本にお呼びになり東京芸大などでシンポジウムも企画されています。北川さんは越後妻有をはじめ、もうじき始まる瀬戸内国際芸術祭の準備の真っただ中で、超ご多忙な日々を過ごされています。簡単な略歴は今日の配布資料に書かせていただいています。
公共性と聞いて、ちょっと難しいタイトルだと思われた方もいるかもしれませんが、言い換えれば芸術は可能か?という意味も含んだ問いでもあります。特に日本においてそうした側面について議論していただくには最適のお二人ですので、刺激的な意見や議論になるのではと期待しております。今回の企画実現に向けて貢献してくださった美術評論を手掛ける沢山さんに司会、進行をやっていただくことになっています。お二人の言葉の中から、針生さんが提示されたさまざまな課題について会場のみなさんと一緒にゆっくり考えさせていただける機会になるのではと、とても楽しみにしております。よろしくお願いします。では沢山さん進行よろしくお願いします。
沢山遼:沢山と申します。よろしくお願いします。今日はお暑い中ご参加くださりありがとうございます。まず本日のシンポジウムの構成についてですが、まず僕が簡単な前口上というかコンセプトを説明させていただいてから、山本さんに20分ほどのプレゼンテーションをご用意していただきましたので、その後お二人の討議に入っていくという形にしていきたいと思います。
「芸術と公共性について考える」というタイトルがあったんですけども、岡部先生からのご説明にありましたように「芸術と公共性」について三者で話し合いたいと針生一郎先生から生前にお話をいただいたのがきっかけです。そういった企画を立ち上げて進行させようかなという時にお亡くなりになってしまったので、今回は針生先生はもちろんいらっしゃいません。
僕は最初司会だけして、三者で話し合ってもらおうと思っていたんですけど、針生先生がいないので僕が自分の考えを含めて最初にお話しさせていただきたいと思います。みなさんのお手元にチラシがあると思うんですけど、このチラシの文章は僕が前にちょっと書いたものなのですが、針生先生のお考えを引き継いだものでもあったわけなんですね。というのは針生先生が最後に関わっていたお仕事が、スイスのマジョーレ湖の傍のモンテ・ベリテというところでできた芸術家のコロニーについて、著作としてまとめようとしていた。でもそれは実現しなかった。針生先生は芸術家がいわゆる政府だとか経済の基盤を離れて、芸術を共同体として組織し、かつそこで芸術的な営為をなすにはどうしたらいいかということを考えていました。針生先生はそれを対抗文化、カウンターカルチャーの起源であると見なしていたんですね。
カウンターカルチャーっていうのは、60年代のベトナム反戦運動とともに出てきたものなんですけど、針生先生は19世紀末に起こったその芸術家の生活共同体というのは実はカウンターカルチャーの起源であり、かつダダ、アヴァンギャルドの起源でもあると。そしてその起源を探っているところでお亡くなりになってしまわれたんです。
今回僕が書いたチラシの文章のなかでダダやシュールレアリスムも含めたアヴァンギャルドの基本的な前提として考えていたことのひとつは、それらの運動としての自律的な側面のことでした。それは単に芸術的な形式において自律しているというより、むしろその外部にある、社会的、経済的インフラからその運動が離脱しているということを作品形式においても強調する。実際の生活レベルにおいても、破天荒な生活・行為を実践していたわけです。それから例えばクルト・シュヴィッタースの作品を見てもらえれば一目瞭然だと思うんですけど、基本的にコラージュ、つまり、紙片や映像の断片によって作品が構成されている。統一的な時空間が破綻し、亀裂が生じている。亀裂による時間や空間の断層みたいなものが作品形式において極めて先鋭的に表現されていた。それがダダのコラージュの特徴だと思うんです。
もちろん遡ると印象主義だとか象徴主義だとか外側にある手がかりというものを遮断あるいは内在化して、そこからある種の対象を構築していくっていう展開がありました。たとえば今、国立新美術館でオルセー美術館展をやっています。そこでオディロン・ルドンの作品《目を閉じて》が出品されているんですが、人物が目をつぶっているところを描いているわけですけど、あれは基本的にはモネから続くような印象主義のプログラムにのっとっていると言えなくもない。外界をとりあえず消去して感覚や情緒の自律系の組織化を目指したというところは、象徴主義とか、抽象主義とか、あるいはロマン主義とかに言われているもののプログラムが、アヴァンギャルドまで継続していると見ることもできる。という意味で、その19世紀後半から20世紀初頭の美術に見られるのは、〈芸術のための芸術〉と言われるような自律性ではなく、つまり作品形式の自律性というよりは、むしろその外側にある生活様式からバラバラに解体したあげくに現れる特殊な領域——空間や時間の確保だったのではないかと思います。
僕はチラシではそういうことを書いたつもりだったんですが、アメリカの戦後美術を汲んでこういうアヴァンギャルドとか、あるいは象徴主義のプログラムというのを考えたときに、むしろアメリカ美術に代表されるような戦後美術というのは、そのことへのアンチテーゼだったと思うんです。たとえば、ゴッホでもセザンヌでもロートレックでも誰でもいいんですけど、特殊な絵画様式を個人の天才性に還元することにおいて永遠的なものが実現されていると見なされることがあります。それが割と一般化して通俗化した芸術の一つの価値観になっていたところがあると思います。例えばハンナ・アーレントという哲学者も芸術は不滅である、消費できない、つまり芸術というものは永遠であると50年代の末に言っているんですけど、それはむしろ一般的な、今現在でも共有されているような芸術に対する考えと言えるかもしれません。
では60年代後半からアーティストたちがどういったことをやろうとしたかというと、芸術の永遠性に対する疑問を示した。わかりやすい例でいうとプロセスアートだとか、あるいはアンチフォームと呼ばれるものに代表されるような不定形なもの。アリストテレス的に形相と質量の対立として語るなら、形相ではなくてむしろ質量、物質の方を強調する。あるいは生産物の結果として完成されたオブジェクトではなく、それが成立するまでのプロセスを強調する。つまり芸術が永遠でも不滅なものでもなくて、極めて可塑的で、流動的で、あるいは可逆的なものであるということを示している。言い換えれば美術作品が成立するまでの生産過程を可視化するということですね。
他方でコンセプチュアルアートというのもありました。コンセプチュアルアートは、極めて概念的なものというふうに受け取られるんですけど、実はプロセスアートとか、アンチフォームといわれる動向と並行性があったと思うんです。というのはコンセプチュアルアートはもともと——ちょっと立ち入った話になりますけども——セス・ジーゲローブというギャラリストがいて、その人がギャラリー空間以外の場所で作品を流通させるという実践をやった。例えば誌上展覧会をやるんですね。ゼロックス・コピーという最新のテクノロジーを使ってアーティストに印刷物をつくってもらい、冊子のようなものに纏めて、それを顧客に売るといったことをしていた。だからコンセプチュアルアートがどういったふうに出てきたかっていうと、概念の提起っていうよりむしろ新しいインフラをつくることを重視していた。つまり別の言葉で言うと、政治とか経済に介入するということです。一見それとはわからない形式で戦後の芸術の政治とか経済に近づこうとしていた。ある意味で言えばポップアートに代表されるようなものの流れとしても見ることができるっていうことですね。ポップっていうのは公共性、公共的なものを作品素材とするってことですから。だから、アンチフォームもコンセプチュアルアートも同じように、スタティックで永遠的な芸術への対抗として、作品の生産過程ならびに流通過程を見えるものにするという意図のもとに遂行されていたと思うんです。
では、20世紀前半のアヴァンギャルドの反公共性みたいなものと、戦後美術の公共的みたいなものの蓄積の上にある現代において、どのような「公共性」の概念が可能なのかということで、今日の企画を立ち上げたというわけです。
長くなりすみません。山本さんのプレゼンテーションからお願いします。
山本和弘:山本と申します。よろしくお願いします。私が今日お話したいのは美術界、アートワールドの内側と外側、インサイダーとアウトサイダーについてです。アウトサイダーというのはいわゆる「部外者」という意味です。実際そういうお話はこのあとディスカッションという形で議論が進むと思いますが、とりあえず沢山さんから芸術の公共性というようなお題を頂いて、私は"Why are Artist Poor ? The exceptional Economics of the Art"という本を訳しましたのでそれと絡めてお話していきたいと思います。20分という枠の中で削りに削っても、結構たくさんあるのですごく早口で話をさせていただきます。まず『なぜアーティストは貧乏なのか?』という本についてですが、この本は芸術経済学者のハンス・アビングが書いたもので、この本の概要について皆さんに簡単にお話して、それをもとに芸術の公共性という話にもっていければと考えています。
公共性というのは壮大なテーマですが、最後にそこまで辿りつきたいと思います。ツカミで二つの本のスライドを出してみました。まず「なぜアーティストは貧乏なのか?」という芸術経済学の本を翻訳して出版したのか。翻訳して出版するというのは労多く実り少ない仕事です。英語で書かれた本なので研究者向けには翻訳の必要はありません。しかし、日本語に訳して出版する必要があると思った理由が3つあります。1つ目は、芸術は神話になっているということ。神話とは言い換えると芸術は共同幻想になってしまっているということです。これは批判的に言うと19世紀末から20世紀にかけて芸術はバブル化しているということ。バブル化しているというのは、経済的にバブルになっているだけではなくて、芸術という概念そのものが人類の叡智として持ち上げられすぎてしまったということです。この辺でアートにちょっと差し水というか、かなり冷たい水をザブッと浴びせる必要がある時期にきてると考えたわけです。2つ目は大学では芸術と経済の密接な関係について何も教えないし、実際教えられない。これは本のあとがきで書こうかなと思ったのですが、岡部先生のような研究者としての先生ではなくてアーティストとしての先生の知り合いがたくさんいるので、遠慮してそのフレーズは削ってしまいました。今日は芸術学科主催なのではっきりお話しておこうと思ってきました。つまりアーティストが生きていくためのサバイバルの方法は誰も教えてくれないのです。アーティストのサバイバル術を教えらえる人は残念ながら芸術系大学の先生たちの中にはいないために、学生は何も知らないまま芸術系の大学に入って、なにも知らないまま放り出されてしまわれる状況をなんとかしなければならない、と常に思っています。優秀だが、生きていけないアーティストに出会うことが多いために彼ら、あるいはあなた方のためにわざわざ翻訳を出しました。3つ目にアーティストは搾取されている、ということを強調しなければなりません。搾取などという言葉をきかないぐらいに、世界はよりよい方向に向いてきているように見えるかもしれませんが、その中の例外的な事例としてアーティストの搾取があるのです。この場合の搾取とは、マルクス主義的に言うところの資本家が労働者を搾取するというふうな悪意に満ち満ちた状況ではなくて、それぞれの人が芸術のためによかれと思ってやっていることそのことが、アーティストを搾取してしまうというふうな無意識的搾取という状況になってしまっているのです。この点についてこの本は少ししか言及していませんが、これはアーティストを志す人にとっては非常に重要なポイントです。もちろんここでいうアーティストというのは制作するアーティストのみならず、アートに関わる仕事をしているすべての人と言っていいかもしれません。先ほど沢山さんの言葉を芸術内言説というふうに言いましたが、私たちはマーケットの人間や芸術とは関わりのない世界の大多数の人々と常に対話しながらやっていかなければならないという基本的なことが芸術系の学校のなかではわかっていないのです。つまり芸術は自律的ではなく、他律的であることをしっかりと自覚する時期にきていることを知らしめる必要が生じています、この3つのポイントからこの本を翻訳したわけです。
次に本の概要をお話します。アーティストまたはアーティストを志す人に向けてのつもりだったのですが、実のところ朝日、読売、毎日、日経に書評を書いてもらったり大いに反響はあったのですが、アーティスト以外のインテリゲンチャいわゆる知識人は読んでくれたものの、私が一番読んでほしいと思った芸術系大学にいる学生の人たちはほとんど読んでくれてないという状況がわかってきました。アーティストはいわゆる本というものになじみがない、文章を読むことに慣れていない、読んでもわからないという悲しむべき実態がわかってきました。しかし、この本の内容はおそらくアーティストたちが展覧会場や飲み屋で常日頃必ず話題にしていることがトピックになっています。その身近な話題を経済学というメスでスパスパと切っていく内容なのです。この本を読んでいただくと、アーティストを志す人たちがムダな投資、あるいは浪費をしないで済むような非常に明確なアドバイスが得られると思います。この本はアートとマーケット、アートとパワー、ここでいうパワーとはカルチャーパワーのパワーとは違って権力と訳されます。それと社会学的なアプローチ、あとマーケットについての経済学的なアプローチについて語っています。このハンス・アビングの本の評価が高い理由の1つは、アビング自身が芸術経済学の学者であって、尚かつアーティストでもあるという本来であればありえない二面性を備えているからです。ここにいるのは大体芸術系の学生なので、アーティストの苦悩とか、貧困だとかそういったことは話せばわかるのですが、それを芸術界外部の人たちに話したときにはそのリアリティーが伝わりません。本来経済学的なアプローチの本は、芸術界の外側いわばうわべを見ただけのものにすぎないのに対して、この本は芸術界内部の悩みや苦しみをアーティストとして、そして学者として両面から理解したうえで書かれているために評価が高いわけです。(スライドを示しながら)右の方は村上隆の『芸術起業論』ですが、芸術経済学者が研究した成果を彼は直感的にわかっていると思います。つまりアートの外側にいる人間がどういうふうにアートを見ているか、特に日本人アーティストという存在がどのようにみられているか、への深い洞察を村上君は備えているので、今回のテーマと絡んでいると思い、ここで紹介しました。そしてついでに言うと今『もしドラ』というのがあります。『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーのマネジメント読んだら』という本が売れていますが、アーティストという職業にとってはアビング本の方が直接効果のある内容といえるでしょう。アーティストの場合、見えない障壁というものが行く手に立ち塞がっている。それは普段は見えない、気付かない、気付いたときには遅すぎるもので、それを乗り越えること自体がアーティストの仕事でもあるのです。このことは歳をとって振り返ったときにようやくみえる。その無駄な時間とコストを浪費しないための本といってもよいでしょう。
最初に沢山さんがおっしゃったアート内のきちっとした言説とはかなり違う部分がこの本にはあります。我々がアート内の言説だけに浸っていて気付かないことをこの本は結構明らかにしてくれるといます。アーティストの仕事の1つである作品を制作することについては、現在の大学で教えてくれます。しかし、これが大学で教えることのすべてだといっていいでしょう。いかに生きていくか、ということを普通の人間は考えるのですが、アーティストの場合は生きること、すなわちサバイバルを考えない不思議な人間になってしまったのです。ところがそれを大学では教えてくれない、というよりも教えられないので、この本はそのことについてしっかりと教えてくれるのです。かなり大きな絶望と、ほんの僅かな希望を与えてくれると著者は書いてます。これを知らないと人生のかなり大きな部分を無駄にしてしまうだろうと思ったのも、この本を翻訳した理由の1つでもあります。いつかこの話をある大学で話したら、担当のアーティストでもある先生が、「先生はどうしてくれるんだ!」と学生に詰問される場面があって、ちゃんと話したかいはあったな、と思いました。とにかくアーティストとして生きていくのは難しい。もちろんアートに関わる人間として生きていくのも非常に難しいというふうに思います。少なくともヒントはこの本にギッシリ詰まっています。
さて、芸術の経済学とは、ギフト(贈与)とマーケット(市場)の二つから大きく形成されています。これは基本中の基本ですね。また経済的価値と美的価値の二つの価値が芸術にはあります。美的価値あるいは芸術的価値を我々は常に話題にしますが、経済的価値は関係ない、と言ってしまいがちです。しかし、1990年代以降から今日にかけて、アート界が劇的に変わってきている状況があります。この本を読んで頂ければわかるのですが、アーティストにはSelfless(無私の)アーティストと、Commercial(商業的)アーティストの二つに分かれます。更にコマーシャルなアーティストは利己的なアーティストと呼ばれることもあります。でも実際には、それぞれ内的報酬あるいは心理的な報酬、外的あるいは物質的な報酬を得ながらアーティストをやっています。この本で私が伝えたかったのは、果たして本当にアーティスト自律的なものなのかという根本的問いかけです。先程沢山さんの話の中にも、自律性という言葉があったと思います。アートは自律的なものであるべき、と常日頃私たちは思ってしまいがちなのですが、果たしてそうなのだろうかという疑義を提起したかったのです。アーティストは他律的であり、誰かに支えてもらわないと生きていけないものでないか、という疑義です。そこで重要なのは、「アーティストは誤った情報を与えられている」というアビングの分析です。彼らの多くは美術大学で学んでいますが、そこで得られる情報はアーティストにとって必要なもののうち極々僅かなものでしかない、という事実にアーティストは気付かなければならないのです。著者がサッカー王国のひとつオランダの人なのでこんな例をあげています。サッカー選手を目指す18歳の若者とアーティストを目指す18歳の若者がいる。スポーツの場合は4年間トレーニングを積むと、自分の今後の可能性が大きいか小さいかを自分自身で判断できる。ところがアーティストの持っている自分自身についての情報は、4年間経ってもほとんど変わらない。だいぶ時間が過ぎてしまいましたので、詳しい内容は本で読んでください。2000円以上する本なのですが、ぜひ大学に10冊ぐらい置いてください(笑い)。ぜひカバーも付けて。針生さんがぼろぼろになったこの本を持ち出してきたと沢山さんが言ってくれましたが、この本はぼろぼろになるようなデザインですね。ちょっと触っただけでぼろぼろになるので、本屋に置いてたらぼろぼろになって売り物にならなかったと言われましたので、ぜひカバー付けて読んでください。この本には実に厳しいことも書いてあって、何歳になってもアーティストとして頑張って続けている人を、アート作る生産者ではなく消費者に過ぎないと言っています。耳が痛いですね。それから、アートにはたくさんの障壁がある。障壁とはたくさんの関門があるということで、それを乗り越えないとアーティストにはなれない。ここで言うアーティストとは、エスタブリッシュ・アーティストとかサクセスフル・アーティストと言うふうに後に周りから言われる人のことです。
アーティストがよく比較されるのが、医者と弁護士。なぜ医者と弁護士かと言うと彼らは難しい国家試験を受けてやっとライセンスが取れるわけです。ところがアーティストの場合はライセンスというものがない。昔はあったんですが、規制緩和で撤廃されたので誰でもアーティストと名乗れるようになってしまった。私が調べたところ、ユニセフが定義したアーティストというのは、自分がアーティストと名乗る人すべてがアーティスト、らしいですね。ということで、何度も言いますがこの本を読むと非常に厳しいことが書いてある。芸術を経済面からみると、芸術はとても例外的である。針生さんと沢山さんとのメールのやりとりにも出てきましたが、例外的経済というのは、この本の方法論であるマクロ経済学でいうところの需要と供給のバランスに当てはまらない経済のことです。実はこの世の中にはそういう例外的なものがたくさんあって、アートはそのひとつにすぎない。もちろん、その中でもアートは特別ですが。アートの経済は例外的であるだけでなく、残酷でもある。その事実を知ったときから、じゃあアーティストはどうするか、次はどういう手を打っていこうかというのを考えなくちゃならないのです。逆に言うと、このことを知らないで作品だけを作ったとしても、その人は死ぬまで悩み続けてしまうことになる。ごくわずかの例外的アーティストを除いて。
また、芸術とはあくまで個人的で主観的な表現手段です。それにもかかわらず、その主観的な表現をどんどん洗練させていくと、個人的なものを超越して共通項が生まれ、誰にも当てはまる表現になっていく。これは現象学的な言葉で、共同主観性、間主観性を獲得するといいます。個人的な表現が最終的に作品として評価されるということは、社会的な価値を持つものになってくることを意味します。単なる個人のものに留まっている表現は、作品として評価されることはまずあり得ないものです。
(スライドを指して)これはメモ程度に書いたものですが、今回のテーマに合うハンス・アビングのいくつかのフレーズをピックアップしてみました。「公共の利益」という言葉が何度か出てきます。沢山さんとの以前のやりとりでは、芸術ははたして公共的かどうかという疑念をお互いにもっていることがわかってきました。実はそうではないのではないのではないか、という思いを私たちはかなり強くもっています。経済学の視点から疑わしいことをバサバサ切り捨てていってもなぜか助成金と呼ばれるギフトの領域がたくさんアートにはあることがこの本では指摘されています。
このスライドは針生さんと沢山さんとの対談を基に出てきたフレーズを、私なりに図式化して書いてみたものです。19世紀末、20世紀の初めに文化が商品化される社会でいいのか、という疑問をもった人々が集まったモンテ・ベリテというスイスのカウンターカルチャーのコミュニティーがありましたが、それを社会に広げようとしたのがアヴァンギャルドの1つの方向性でした。しかし、カウンターカルチャーは社会全体と対等に勝負できると思っていたのですが、実際にはこの巨大な金融資本主義社会に対して、アートのカウンターカルチャーは非常に小さな力しかもてなかった。巨大な金融モンスターが支配する社会で、カウンターカルチャーのように経済から距離をとるような斜に構えたスタンスではなく、今の経済のど真ん中に飛び込んでその障壁を自ら乗り越えていくカウンターパート的な方法をとらないと、ユートピア的カウンターカルチャーとしてはあまり有効的ではないかというのが、というのが私の問題提起です。
もう一つ、北川さんの非常に大きなプロジェクトというのは、私の今研究していることを絡めて言うと、ピエール=ミシェル・マンゲルというフランスの芸術経済学者がいて、アーティストの雇用について研究しています。アーティストがのびのびと活動出来る環境、雇用状況を作りたいというのが私の研究テーマなのですが。北川さんがやってらっしゃる大きなテンポラリーなプロジェクトは非常勤雇用を創出しています。そこで私の研究テーマはというと、今日の社会においてアーティストの常勤雇用は可能かということです。常勤というのは別な言葉で言うと、需要を創出するということです。作品を買うかと買わないかとはまた別の次元の話になりますが、「アーティストを社会化する」必要があるんじゃないかなと考えています。1984年に来日したヨーゼフ・ボイスが東京芸大の学生に言った言葉なのですが、「金融資本主義から逃げないで、そこに取り込まれるのではなく飛び込んでいけ」と。そこで取り込まれていくようでは、これからの時代のアーティストと言えないのではないかということです。社会に飛び込んでいってサバイバルできるアーティストの可能性に期待しています。
沢山:どうもありがとうございました。カルチャーパワーの取材で針生先生のお宅にお伺いしたとき、さっきのお話にもあったアビングの『金と芸術』という本を針生先生が表紙がボロボロになるまで読まれていた(笑)。その時に公共性をめぐる話と芸術家コロニーの話をしていただきました。針生先生にとっての芸術家コロニーというのは、単に芸術的に成立しているだけじゃなく、まさに山本さんからお話があったように生活の核から芸術を立ち上げることをやったわけですね。だから、その場合のカウンターカルチャーを単に芸術的な実践と捉えるのは不十分で、何を食べるか、何を着るかとか、そんな生活の細部から見直す。さきほど山本さんから北川さんに対するコメントがありましたけれど、例えばアーティストの雇用拡大ということを、北川さんがどういうふうにやろうとしたのか僕なりに解釈すると、芸術のインフラを構築するにあたって、芸術形式を拡張するということをやったんじゃないかと思います。例えばアートフロントギャラリーの立ち上げを行ってから版画を売るということをやっていらっしゃいましたね。版画という安価で、複製できるものを美術作品として位置づけようとした。あるいは越後妻有などでやっているように、作品を売買することをやめて、むしろ販売不可能な大きな作品を作ってそれを見に来る来場者から入場料を取るということに、いままでの芸術形式に対する批判が組み込まれていたように思うんです。その点に関してはいかがでしょうか?
北川フラム:なかなかめんどうな話ですね。新潟県の豪雪地で"大地の芸術祭"をやっています。芸術祭自体は3年に1回ですが、恒常的に色々な活動をしています。雇用という面で言いますと、越後妻有にいるスタッフが15人です。この15人は3年に1度ではなく常時勤務しています。去年の大地の芸術祭から調べましたところ、芸術祭の年は400人。平年で100人の地元の人が大地の芸術祭に関わる事業で食べていることになります。そして今からちょうど2週間前に、2012年度方針を発表したのですが、十日町市という芸術祭の主な会場である市が、芸術祭を政策の中心に置くと発表しました。画期的なことです。
山本:すごいですね
北川:つまり、十日町は今後おそらく観光、農業、および色々な物産を含めて横並びで、大地の芸術祭を中心に据えてやるということになります。実は僕が今日ここへ来る時に思っていたことは、全然違いまして。先程の山本さんが話されたことに少し関わるのですが、要するに僕はアーティストになりたいと思って学校に行って、半年か1年でその道を辞めて、裏方になった理由というのは、日本にはなにしろ市民社会が成立していないので美術は成立しないと感じたのです。その簡単な例で僕が今でも好きなアーティスト、靉光、小出楢重、村上華岳なり誰でもいいのですが、晩年に全員だめになった。つまり自分が属している世界というのが、日常的でも市民的でもない画商、画壇、あるいは美術評論家という内輪で成立する世界でしか生きていけない中で、全部駄目になったのです。それは美術の問題というよりか、日本の市民社会が成立したことがない。それで大錯覚をもたらしたのは、地政学的な優性によって60年間、世界の富を集めてなんの努力もしないで日本はお金をばらまいてしまった。僕らの世代がだめなのですが。とにかく戦後の1960年くらいから、みんなの懐にお金だけが入ってきた。それなのに、今日本国民一人当たり1000万円の借金をしているわけですね。これは通貨を切り下げなければいけないのは、はっきりしているけれども、みんな1000万円の借金を持ってこれだけのうのうと生きてこれたのです。それとちょっと違うところにありますが、美術という世界はその中の頂点みたいな中で、生きてきたと思っています。なので市民社会がないという意味での公共性を考えてきたところがあります。もう一つ僕の関心から言えば、それも山本さんがおっしゃるように美術が予想以上に高められたと同じようなことだと思いますが、高められたとなんとなく思ってきた私たちの括弧つきの美術ということが、学校で美術を教えることが出来る程の美術、あるいは美術館の中で展示できる程の美術という意味で、国が司ってきた美術は非常に狭かった。明治になって私たちが普通に関心を持っていたお祭りとか、食べ物とか、衣装とか全部捨てて美術というのが始まってしまったつけが大きいと思うのです。人々から美術に関心がなくなっていき、美術的な言葉というのも一般の人にはほとんどわからないし、何言ってんだという話をしますね。ですが、これだけ美術学校があって、これだけの学生がいて、まあ日本の美術ってどうなってんいるんだと、すごい恵まれているわけですね。まあ、社会性のないということに対して、僕はいらいらしてやってきたということだけですね。
山本:非常にリアリティーのあるお話で興味深いですね。越後妻有が始まったとき、私は「北川さんすごいことやってくれたな」と思い、すぐに飛んでいったうちの1人です。でも、地元の人に道を尋ねると、1回目に行った時はちょっと冷たかったな、という印象がありました。けれども、2度目に行くとその人たちの様子がものすごく変わっていて、よくぞ聞いてくれたというふうに変わった感じを受けました。その背景には、アーティストが作品を作ることに加えて、プラス巨大な建物が出来たとう事実があったと思います。建築物が出来るということが地元の人にとって、アートがリアリティーのあるものとして伝わったんじゃないかなと思います。大地の芸術祭の作品と地元の人々が結びついたな、という実感がありました。実は1つお尋ねしたかったのは、あのプロジェクトにいたるまでに参考になったアートディレクターなり、プロジェクトなどはありましたか?それともまったくオリジナルの方法で生まれたものだったのでしょうか?
北川:色々知ってるわけではないですが、まず僕がパブリックなところで仕事をやらして頂いたのは1994年に出来た「ファーレ立川」というプロジェクトで、これは1992年から準備しました。僕が街の中の美術とか、美術が持つ色々な働きなどを真面目に考え始めたのも、この年です。この年はどういう年かと言いますと、1989年にベルリンの壁が壊れて、1991年にソ連邦が崩壊して、インターネットが軍事的なものから民に活かされた頃です。みなさんはまったく関係ないですが、僕にとって衝撃だったのは日本の総理大臣が1、2ヶ月でぼんぼん変わっていった時期で、これがいつも夜中の2時に発表されるんですね。
山本:そのパターンは変わってないですね。
北川:夜中の発表というのは、ワシントンに対して許可を取っているという意味があるんですね。つまり世界が今の仕組みになっていくそういう時代でした。美術的に考えると、僕は20世紀に美術は元気なくしたと思っているんですね。
山本:最初からですか?
北川:真ん中あたりですね。それは大衆社会化のなかで美術はなんぼのものかと見事にやったのがウォーホルだと思っていて、それのネガポジみたいな関係でボイスがいると思っています。まあわかりやすく言うとその二人が、20世紀の大量消費時代とか、マスメディアの時代とか、20世紀の都市の時代とかの非常に典型的なアーティストだと思っていて、それに対してもうちょっと違う明るい展望を持ちたいというのがクリストだと思っておりますが、僕はどちらかと言うと気分はクリストに近い。それで1950、60年頃から美術はまったく力を失ったと思います。カウンターというと聞こえがいいけれど、どうしようもない衝動的な反抗を個々に努力をしてきたと。1989年、91年に世界全体で言えば、グローバリゼーションが始まった。アメリカのという括弧が着くけれど、冷戦が終われば世界は安定したはず、世界は平和になりえるというふうに思っていた。その時に、これが美術の栄光だと思いますが、その段階でみんなのぼせていたのに対して、生理的に反抗していたのは、よくみると隠花植物だか暗い水の中の倒木の影にいる魚のようにちょこちょこやっていたアーティストしかいなかったと思うのです。それは非常にマイナーではありますが、世界がインターネット、グローバリゼーション、冷戦の終結という時に、アーティストたちしか、今危険だな、生理的に不安だぞ、これでいいのかということを感じ、他がやらないのならアーティストだけでもやるぞと言ったと思うんですよね。力んで話すと、僕はともかくアートしかないと思っているのは、アーティストだけが成績が悪いからです。簡単に言うと算数が出来ない、一人一人違う、しかし、それがすごいと思っているのです。つまり、我々の価値観というのはとにかく正しい、早く、モデルに近い事がいいといわれている社会ではないですか。それに合わないというのがきわめて重要で、生理的に合わないのは当然だと思う。そういう人たちが基本的にアートをやっているわけです。
山本:おっしゃるとおりです。私も先程のスライドで言わなかったのですが、素直に違和感を表明できることがアートの力ということですよね。
北川:スポーツも危なくて、イチローも一年半レギュラーになれなかったわけですね。つまり正しいバッティングフォームといのうがスポーツの世界にはある。だけど、アートは人と違って褒められる唯一のジャンルだと思うのです。アートの持っている基本的な哲学、思想は一人一人全員が違うということを目指している。その一人一人全員の違いというのは、生理が違うということなんです。そういうふうにみんなが一丸となってグローバリゼーションに向かおうという時に、淀みのところにアーティストがいて、その人たちだけがこの世の中がそういう方向に行くのに対して生理的に嫌だと言ってたわけですね。それが1980年代後半のドクメンタとか、1987年のミュンスター彫刻プロジェクトあたりから見えてきたと思っています。これがものすごく大きな流れであって、それから後はみんな最新の情報が、最大に最短でアクセスするグローバリゼーションにいかれて、携帯電話やインターネットの奴隷になっていると感じているわけです。そこの知識は大切ではないけれども、そこに追われている。こんな世の中相当ひどいわけですから、生理的に違和感を持つ人たちが、色々頑張ってもらいたいということだけですね。
山本:我々が生きている社会がいいのか悪いのか、人間として違和感を素直に表明できるのがアーティストであって、そのアーティストと北川さんは建物の中ではなくて、大地に植えつけることで展開なさっていますね。たまたま沢山さんとのメールのやりとりでハラルド・ゼーマンの仕事があって、そこのやりとりを基に今回のシンポジウムが実現したのですが、ドクメンタなどはヨーロッパが地続きなので運送費がかからないで実現できるけれど、日本では絶対出来ないよなって仲間内で話していました。しかし、北川さんはそれをやってしまった。実際の具体的な方法論、例えば色んな人を引き込むというか引きずり込み方というのは、具体的にどういうふうに行っているのかお聞かせください。
北川:先程、山本さんが妻有の変化について述べられたことでいうと、6市町村が一緒にやる中で、ちょうど100人の地方議員の先生がおられて全員反対と言っておられたので、1回目としては全体としてよくわからなかったとういうこともあったのですが、やらせてもらえた場所は道路とか公園などのいわゆるパブリックな場所がほとんどでした。アーティストも都市の美術大学を出てきた人たちですから、多少啓蒙的であるいは検証的なことを少しやったところがあった。1回目は200集落の内の15ぐらいでやったんですよね。まあ渋々ですが、積極的にやってもいいかなという集落は2つから3つで。だけど、やってみて面白かったと思っている人が多くて。人がいっぱい来たぞとか、結構楽しいぞとか。それで2回目は、200集落の内の50ぐらいがやりました。去年調べてみると96の集落が関わりました。去年でいえばもうアートというよりかは、車座でおにぎりを出して、お客さんがそのおにぎりを作った人たちと一緒に食べるだけで結構それでいいよねというところがお互いに出てきた。それで新しい作品もありますが、7割がリピーターです。同じものがあっても、「またあったぞ」というので結構喜んでるという感じになっている人たちが多い。
あと要するに狙いとしては、この地域は過疎なわけです。日本の田舎は労働や教育の機会を求めて、ここ(ムサビ)の学校のように都会に来たりしているから、人口が減っていっています。それだけではなくて、日本は、主に自動車や半導体などの工業の代わりに、基本的に農業を切り捨てています。これも相当きつかったのですが、なんとか死にものぐるいでやっていた。私たちもそれの恩恵を被っています。その中で必死になって米を作ってきたのに対して、500万あげるから街に出てこいよと言う話ですね。つまりそれは、除雪も大変だし道を直すのもお金がかかるから、効率化で言ったら(そこに住むのは)だめだと。過疎になると土地が荒れますね、コミュニティーも崩壊する。先祖代々住みついて、必死の想いで豪雪地で田んぼをやって集落を営んできた。最終的にその誇りまで捨てろと言われたのです。これが日本中で起きてる状態でしょう。もっとはっきり言えば自民党が、(選挙に)負けるのが分かった時に再分配を行いまして、民主党は自分たちが勝ったら人気を獲るためにお金を出してという、また凄まじい借金をしているわけですが。そういうふうな形でお金をもらった瞬間は、我々笑うのですが、誇りも失ってしまいます。
大地の芸術祭で何をやろうとしたかというと、アートを通して住み込んで頑張ってきた人たちや資源に光りを当てることをしたわけですね。こういう意味でアートというのは、地域の時間あるいは資源を明らかにすることが出来るとずっと思っています。時代、時代に美術の働きはそれなりにあると思うのですが、変わらずに、アルタミラ、ラスコーなどの洞窟壁画の時代から、人間は、自然や土地を、やがて文明とか社会の人間の関係をなんらかの形で現してきました。それを現す方法が、美術だと僕は思っていますから。地球37億年の生命の中で地球そのものが危ないという時に、人間の一部の人たちは生理的に危ないと思っています。ですから今の社会の中で偉くなりたくない。社会が要求する勉強をやりたくない。社会が求める組織から外れたりというのは、かなり当然だと思います。そういった人たちは食べれないし、勤めないし、大学に長くいる、美術関係者に多いわけですね。ですが、僕はそれをとてもいいと思っています。その人たちがなんらかの形で、今の社会の中心で進んでいることに対してある距離感を示すということ、それを欲しているわけで、今求められている美術だと思っています。それまでにあったコンセプチュアルな一世紀にあった変化よりも、ずっとすごい変化を地球が要求しているのではないかと僕は思っております。
山本:なるほど、すばらしいですね。先程の関わる人の規模という話のところで、トリエンナーレの年は400人ペース、トリエンナーレがない平年で100人と言われている。今回瀬戸内ではそれが飛び火するのでしょうか。妻有より大きくなるのでしょうか。
北川:大きくなってますね。行政を跨いでいたりしますが、こえび隊と言うサポーター組織で、かなり大人が多く、優秀な人たちが入っていてもう2000人近いんじゃないですかね。毎週土日になると、100人ぐらいの人たちが高松港に集まって色んな島に手伝いに行っていて、我々のスタッフよりもずっと能力が高い感じです。
山本:そういう人たちは、普段は自分の仕事を持っている人たちですね。
北川:そういう人も多いです。また非常勤ですが、今実際に、瀬戸内国際芸術祭に携わっている人が福武財団で20人、香川県庁、香川市でおそらく50人くらい増やしています。先ほどちらっと申し上げましたが、例えばG8やG15みたいなサミットがあるでしょ。その時に世界中から2万人位の人が開催される都市に反対に行きます。おそらく今度瀬戸内は50万人ぐらいの人がいらっしゃって、10万人以上が外国人だと言われています。手伝っている人で100人位は外国人。ということは、それだけの人が動いていることが、いかに今あるグローバリゼーションの中での情報、記号的情報でないところで人間は、face to faceで繋がりたいと思って動いているかということです。やはり美術でないと、こんなに人は動かないと思います。昔の宣教師とか、軍隊とか、悪徳奴隷商人に代わって、アートで動いている人がいる。それってほんとは不思議でしょ。お金の話はあるかもしれないけれど、これだけの人が動いてるということは、やっぱりちょっとおかしい。
山本:すごく良いという意味でおかしいですね。
北川:それは本当におかしいと思います。どれだけ色んな人たちがお金かけて長期的に、美術のアートフェアだとか、トリエンナーレ、ビエンナーレで動いているのか誰か本当に調べて欲しい。すさまじいと思う。世界を繋いでいる動きかもしれないと思っていますね。
山本:この辺は岡部先生がまたお詳しいので、あとで伺いたい問題です。カウンターパートというか世の中のどっかで当たっても痛くもないような石を投げるような皮肉れたアーティストとかではなく、社会の中に飛び込んでそこからこじ開けてくという、そういうふうな方法を取って仕事をやっている北川フラムという人は、私にとってずっとすごいことやる人だなと思っていたので、今日ここにご一緒させていただくことをうれしく思います。ここに針生さんがいらしたら、どんな話になっていると思いますか。
北川:針生さんとの関係で言いますと、僕は針生さんとご一緒しているときは敬意は持ちながらも、針生さんみたいなのはだめだと割と申し上げてきました。針生さんはどちらかというと、なんとなく座学的な立場と思われていましたから。実は色んな人が、色々なところで北川フラム批判はめちゃめちゃやっていますね。例えば北海道の場合は非常に分かりやすくて、北海道のアーティストと、北海道の美術評論家と、北海道大学の先生方含めて北川フラムはグレーあるいはブラックだと。公共事業を食い物にしていると言うわけですね。それで僕がいつでも行きますよと言うと、いつのまにか消えるんですが、署名運動はするし、意見交換はするしでそういうことが色々な場所で起きます。そうするとですね、不思議にみんな針生先生のところに行くんですね。資本主義でだめな国の走狗になっているというふうに言って、北川をこてんぱんにやっつけようと。それで針生さんが面白いのは、そこで常に踏ん張っていらっしゃったのです。私は、北川フラムの批判する側に立たないということを言っておられて、それはありがたいというか、そういう関係でずっと続いていたという不思議なことがありまして。それは面白かったな、ありがたいなと思っていました。いつもどさっとした感じで越後妻有の坂道を歩いてられましたね。そういうのは拝見していました。
沢山:針生先生がこのシンポジウムの登壇者に北川さんをリクエストしたというのはいくつか理由があると思うんです。お二人はもともと親交が厚かったわけですが、針生さんは北川さんがやってきたことを評価していたし、実際に書いてもいらっしゃった。ファーレ立川のプロジェクトは極めてニュートラルな、いわゆる僕たちが思っている都市型パブリックアートの日本における先駆的な例であって、越後妻有や水と土の芸術祭などとは別種であると思われている。しかし、針生先生は、ファーレの時点で極めて土着的、民族的色彩の強い作品が選ばれていると指摘していました。その段階ではまだ越後妻有のプロジェクトは始まっていなかった。でも針生さんはその時点で新潟とかあるいは瀬戸内などで北川さんがやることを、ほぼ予告していたんじゃないかと思うんです。
山本:さすがすごいですね。針生さんは美術評論家の中で高く評価し、尊敬している人なのですが、つい最近みたメールの中にさっきもありましたが意外にも村上隆を評価していたとありました。針生一郎さんは意外なところに目配りが行き届いているなという印象が結構あって、自分のスタンス中からきちんと見ていたところがすごいなと思います。今もどこかでぎょろっと見ているんじゃないかなという気がしています。
沢山:そうですね。
山本:ちょっと狙いみたいなものを伺いたい。
沢山:スイスの芸術家コロニーに関してアヴァンギャルドの起源、カウンターカルチャーの起源を探るという部分と、芸術にとっての公共性について考えるということが針生さんのなかで半ば矛盾していなかったという部分が僕は一番興味深かったんです。ちょっとトリビアルな話になっちゃうんですが、針生さんからいただいた葉書に、ハンス・アビングの『金と芸術』の翻訳者である山本和弘と、最近新潟市美術館を「クビ」になった北川フラムと一緒に話したいと書いてあった(笑)。だから、針生先生は北川さんの仕事に共感し、個人的に親交があったという部分もあると思うんですけど、針生先生の中で新潟市美術館の件のことも頭にあったんじゃないかなとなんとなく思ったりもするんですね。
もともと新潟市美術館で問題になったのは、美術館の中で黴が発生したことでしたね。とはいえ先ほどファーレの例を出しましたけれど、それは今に始まったことではなくてかなり一貫性があって、つまり水とか土とか大地とか、そもそも黴を培養するようなことをアートフロントはずっとやってきたわけだから(笑)。つまり黴を問題にするにしてもなんで現実的な部分からしか批判が起こらないのか。北川フラムを批判するのであれば、もっと根底的な批判があるだろうと。それを無視して黴の件が取り上げられるのは、どこかフェアではないと思ったんです。針生先生がいたら、そういう部分についてどう思うかお聞きしたかったですね。
山本:黒黴が来ようが、蟻がこようがそれも客の1種だと私は思いたいですね(笑い)。私自身は一応美術館から給料もらってるのですが、内部から壊すことをやりたいなといつも思っています。でも壊すものはないんですけども。美術館というシステム、器自体は18世紀から19世紀に出来た近代の遺物であって、それ自体がもともと苔むしたものじゃないかというふうな矛盾を抱えながら、細々と仕事はしています。
沢山:美術館という存在自体が極めて近代的なもので、市民社会の成熟とともに出現してきたものです。山本さんのプレゼンでも指摘されましたが、半ば芸術がほとんど信仰の対象化しているという状況が成立したのは近代以降のことですよね。ダダのように生活様式の自律系を組織することとは異なり、美術を美学的に閉じた、自律的な場として、美術を外部の環境から遮断されたものとして扱うことと、美術館の発生は関係しているわけですね。『芸術崇拝の思想—政教分離とヨーロッパの新しい神』(2008年、白水社)という本を書かれた松宮秀治さんが面白いことを言っているんですけど、松宮さんによれば、フランス革命以後の近代思想によって「展示」と「公衆」という概念が醸成されてきた。それから政教分離の完成によって以前の「臣民」が「市民」「国民」となり、それらを束ねる新しい「神」として芸術が信仰の対象になってきたと言っているんですね。大文字の芸術という概念は国家主義的なコミュニケーションの手段であって、極めて過大評価されていると。かなり厳しい芸術批判を展開しています。
山本:私も松宮秀治さんの著書の書評を書いたことがあるのですが、美術館も美術を台座に乗せてしまうことに対する辛口な物の見方は重要だと思っています。もっとも美術館とは非常に多義的なものです。それはもちろん、おば様たちからたむろするスペースでもかまわないのです。例えば、日本でやったゴッホ展が東京、京都、大阪、名古屋で200万人ぐらい入ったと言われています。ゴッホの本場のオランダのアルステルダムとパリのオルセー美術館でやったときも、こちらも200万人くらい入りました。実はゴッホでさえ200万人ぐらいしか入らない、というふうな見方の方が重要なのです。どんなに頑張ってもアートはその程度の人しか見向かれない。そうではなくて、もっとぐわーと地震のように揺らすアートを我々はもっともっとやっていかなくちゃいけないのです。いくら公共的といってもせいぜいピエール・ブリュデューが言うように、やっぱり社会的階層が限られている。それをこじ開けてもっともっと広げようとしたのが北川さんの仕事じゃないかと思っています。やっぱりまだまだアートの力は全然足りないなと思います。北川さんは「公共事業のお金を使いやがって」というやっかみもありますが、別の公共事業で使われていた分をぶんどってきて、そこからアートでこじ開けてく方法は重要だと思います。おかしいものはおかしいと気づくように見せる方法そのものを見せることが重要なのです。ウォーホルとボイスとクリストを北川さんが上げられていますが、彼らの仕事も常にそういうふうにぐりぐりと挑発してくるような仕事をやっていますが、我々日本人は、まだまだ全然足りないなというか、もっとやるべきことがたくさんあるような気がしつつ、北川さんに見習ってやりたいなと思うところもあります。
北川:クモ、カビでクビになった人間なんですが、もう解禁で、仏像展終わるまで一切黙ってようと思っていて、謹慎していました。まあそれはいいのですが、とにかくすごい経験をしましたよ。電車に乗って画面を見ていると、新潟市美術館館長北川フラム解任って、テロップで流れたんですよ。
山本:新幹線でですか?
北川:要するに仏像展を守るためには、僕の首を切るしかないという提案はしていたわけです。そうしないと文化庁は収まらないというのがあってね。解任なんてニュースで出てくるのってすごいでしょ。帰ってきたらうちの事務所の周りにね、テレビ車があったのですが、まさか僕だとは思わなかったです。そうするとわーと人が来るんですよ。なんかしゃべれと。これは色んなとこで見ているから、ああいう時に顔を手で隠したりするとみっともないし、悪そうに見える。事務所に来てもらってちゃんと答えました。新潟市の職員、新潟市のサポーターたちとちゃんとそういった意味までの議論ができていなかったというすごい大きな反省を持っています。相当色んなこと考えましたね。謹慎しているけれども、居直ってはいけないけれども、どうだっていう......。
山本:謹慎していたんですか?
北川:謹慎と言うか、私は反省していた。それに関して反省しておりますと言ったけれど、カビが生えていないところに人は住んでいけない。美術館というのは、カビがくるのが当たり前なの。空気があるんだから。もっと大きなことを言えば、これから壁職人、土職人が総反撃すると思いますよ。土壁が衛生上悪いって誰が言ったのかという話ですよ。法隆寺とか色々なとこがなぜ守れたかというと、まさに土壁が守ったし、ここまでいうと怒られるけど蜘蛛がいたから守られたわけでしょ。私たちは異常な清潔好きというか......。ただ、相当ダメージを受けましたね。公共の仕事のほとんどは相当厳しかった。議会で、悪いことして解職された北川を、うちらの県は仕事を出していいのか。これでだいたいだめになりますよ。
山本:すごいですね。謹慎なさった方が何事もなかったかのようにというか、それ以上にきちんとでかいプロジェクトが進めていくことが。
北川:そういう面白いことで一つ提案ですが、今まで仏像展が終わるまで、講演会とかでこの話は黙っていたわけですね。文化庁から言わせると、新潟市美術館ごときの美術館が、ステップを踏まないで国宝を充分に持ってきて許せないというのがあったりとかで、この話、結構面白い問題がいっぱいあるので、この話題を武蔵美でやるといいんですね。10人ぐらい、いや10人もいないから5人ぐらいでいいか、とにかく北川フラムを頭にきているやつに、僕を被告席に上げてがんがんやらせたら、人来ますよ。ですが、これらの話には色んな問題を含んでいる。学芸員のローテーションの問題とか。
山本:とにかく、日本の美術館は何か起きてると、蓋をして閉じてしまいますね。実際に初めて新潟市美術館に行って、いい意味での破壊力のある仕事を見られたのは幸せだなと私は思っています。また日本の美術館っていうのは、昨日はさしみを食べて、今日はカレー食べて、明日パスタ食べてみたいな日本の食卓のような感じで、私は嫌いなんですが。もっとカウンターパート的な文化システムを作っていって、中からそれをディスカッションしていかないとだめなんですが、そのディスカッションが今回新潟で起きたというのは非常によかったなと私は思います。
北川:色んな問題がありますよね。多摩美はそういう企画は組みにくいって言っていました。僕を弾劾している本江邦夫さんがいて、それに対して椹木野衣さんが「断固粉砕」という論文を書き始めたんですって。僕は見ないで聞いているだけなので、それではちょっとやりにくいと。そうするとあんまり関係ない武蔵美が場所だけ提供して、そういう問題をやったらめちゃめちゃ面白いと思います。だから、とりあえず悪玉は僕1人で、北川批判をみんなにやらせて、それに対して僕が一つ一つ言っていきたいですね。例えば単純に一番最初に記事が出てきたときに、水分の含んだ土を持ち込むなんて信じられないと本江さんが言ってるのですが、色んなアーティストがみんなプール作ってますよと僕は思うわけですよ。これ本当にやるといいとお思いますけどね。みんなわーわーとしゃべったら元気になると思いますしね。美術界は本当の意味で論争をすべきです。
今なんでこんな話をしたかと言いますと、沢山さんが"水土"のことについて言ってほしいと以前に電話でおっしゃっていましたが、沢山さんから言いにくいでしょうから、僕から言いました。
沢山:今日そのことについてコメントしてもらえたのでよかったです。黴の存在も肯定してもらえたので(笑)。ではそろそろ質疑応答に移りたいと思います。どなたか質問したい方はいらっしゃいますか?
学生:ゼーマンなどのユートピア思想を掲げた人たちが、結局社会に影響があったかについてはどう思いますか。
山本:どうなんでしょうか。よくわかりませんというのが私の答えです。それを継承していった人たちがたくさんいたはずだと思いますが、私が最初に言ったことからすれば、そのようなカウンターパワー、カウンターカルチャーは成立したけども、その後は意味を成せなくなってきたんじゃないか。そこでのユートピアという形の後継作家はあまりいないような気がします。つい最近スイスのアスコーナについて書いた本に出会いましたけれど、実際にはどうなんでしょう。私はよくわからないというのが答えです。沢山さんとかどうですか。
沢山:こないだたまたまゼーマン関連の本をアマゾンで検索してたんですよ。彼自身が書いている本とか、あるいは参加している本とか、業績を検証している本がすでに結構出版されているんですね。アマゾンでそんなに多くの書籍が出てくるとは思わなかったんで驚いたんです。もともと現代美術界でのゼーマンの影響力は強かったけど、ゼーマン自身の歴史化も進んでいるようにも見えるんです。つまりゼーマンがやったことは、いまや歴史的な検証の対象になっている。つまり過去の出来事になっているわけだから、アクチュアルな事象としての影響力は弱まっているのかもしれない。
山本:私はハラルド・ゼーマンになりたくてキュレーターになったというところがあって、ゼーマンが亡くなったら、キュレーターの時代も終わったな、と感じています。実際にキュレーターの時代は確実に終わったと思います。さっきも話に出ましたけども、ドクメンタ、ミュンスター、ベニス・ビエンナーレとアート・バーゼルというノンプロフィットのアートイベントとプロフィッタブルなアートイベントがタッグを組んでやったのが、リーマンショックの前の年にありました。ドクメンタの時のアーティスティックディレクターの名前が思い出せないのですが、直前までアーティストの名前を出さないという戦略をとったにもかかわらず、結局マーケットに取り込まれていったところがありました。逃げる、あるいはどこか別のポジションを持つというのは、私は有効性がないと思います。ゼーマンのキュレーションという仕事はまさに超人的でした。私はキュレーターの時代は終わったと思いつつ、ゼーマンの仕事を歴史化というか検証することをもう少しやりたいなとは思います。ゼーマンというキュレーターが出てきた時代というのが、また一つ面白い現象です。ハラルド・ゼーマン自体が特異な知的存在でした。歴史化がどのようにすすめられていくのか、具体的な彼の継承者がいるのかいないのかどうかも含めた歴史化を見守りたい気がします。キュレーターというのは西ヨーロッパの特異な現象であって、アメリカにもキュレーターという名前の付く人がいますが、大きな組織の従業員の一人にすぎないとみています。一人で世界に立ち向かうアーティストのようなゼーマン的存在は、出にくいような時代になってきたなという気もしないでもないです。別の形で生まれる可能性を期待したい。具体的な継承者というのはあまりないかもしれないですね。
学生:個人的にはそういう経験をした世代を歴史で見た人たちには、結構あきらめというか、冷ややかな感覚があるのではないでしょうか。昔はそういう時代もあったよねというような感じで。だから北川さんがおっしゃられた美術はこんなに多くの人を集めるんだよという活動は、美術をやってない人は全然知らなかったりして、投げられたのは小石なのかなと思うのですが。
北川:それに対して言っておくと、かなり違います。越後妻有の来ている人の8割は普通の人です。美術にほとんど関係ない人で、子供連れも多いですね。
学生:その人たちはイベントとして来ているのですか?
北川:一度行ったら面白いんですよ。3、4日(越後妻有を)歩いてみたら全然違う世界が見えてくるような気がします。やっぱり我々は都市という部分に対して慣れています。けれども、田舎を都市のように感ずることはないわけですから。我々が生きてる場所をどう感ずるかという問題があって、それが悪い意味で言うと僕にとっては一般的な美術批判なんですね。今ほとんど都市というのは、建築以外の美術はないだろうと言いたい。例外的にあるけれども。だから時代の芸術って言っちゃっても、都市の建築しかないですよ。ほとんどこの100年間世界中に。だから、そうじゃない場を美術で見つけたかったのです。越後妻有でもどこでも。今までの美術的なボキャブラリーで美術は、ホワイトキューブの中でささやかにやるしかなかったわけです。批判的に言ってるのではなく、時代の芸術って圧倒的に全部建築じゃない。どう考えたって。そうしたら美術はなんか息が出来ない、完全にやられてるというのがあります。それで日本の戦後のことだけで言えば、時代の芸術というのは別になんの善し悪し言ってるのではなく、戦後すぐはやはり文学で、ですから大江健三郎とか開高健とか色々出てきた。その後は芝居で、菅孝行、唐十郎、鈴木忠志、寺山修司とか色々出てくる。時代の芸術という中で、美術的なものというのはどこでやったら息が出来るのかという問題を考えると、まだあまり成果は出てきていませんが、田舎でないと出来てこないと思うのです。例えば、ボルタンスキーが変わってきた。アウシュビッツのホロコーストのボルタンスキーから、今やっている仕事の方が明るくなってきました。それは妻有での4回のボルタンスキーの経験で、そういうことが色々起きてると思いますね。
沢山:ボルタンスキーの瀬戸内国際芸術祭の出品作品について新聞で読みましたけど、心臓音のアーカイヴをつくったとか。一個の建築を作ってその中でやるらしいですね。
北川:普通の小部屋で、豊島でやっています。ボルタンスキーと少しお話ししたのですが、一人一人が大切なんだということを今こそちゃんと言いたいということで、それはホロコーストの子供たちとか、死んだ人たちの衣服ということと違うところに出てきて、農村地帯に来て、
美術の持っている明るさと言うか、健康さみたいな部分を彼は持ち出したとは言えると思いますね。
沢山:それではもう一名質問を受け付けます。
学生:本日はお話しありがとうございました。初めの方にも話題が出ていたんですが、学校ではアーティストが生き残ってく方法は教えられないみたいなお話が出てきたと思うんですけど、これからの美術財団、美術館の役割というのはどのような形がありえるかということをお聞きしたいです。
山本:私の考えからすると、たとえばお医者さん、お相撲さんは経営がうまい。お相撲さんはおいときまして、お医者さんというのは開業医になって、みんなばりばりお医者さんのとして仕事をするんですね。アーティストの生きる方法、私はサバイバル術と言っていますが、大学で最低でも一つ芸術経済学の講座を開いて、そこからの具体的な方法を自分で見つけ出すことを大学にいる間に訓練しないといけません。またアートマネジメントが世界的に流行っていますが、私からみるとアートマネジメント従事者は搾取する側にいます。よかれと思って一緒に仕事やりましょう、といって結局アーティストの持ち出しになるケースがたくさんあります。アーティストも声かけてもらって喜んでるということでは、結局自滅してしまう。そうならないように、きちんと大学は教えるべきなのです。芸術経済学というのがヨーロッパでは既に芸術系大学の講座として定着しています。残念ながらアート界の内側をわかってる人でそれができる人はとても少ない。ほとんどいないのが現状です。
さきほど美術館はなくしたほうがいいと変なこといいましたが、たとえば美術館に映像作品は適合しないことを証明する展覧会をやったことがあります。美術館はモノを収蔵する資料館的なものにならざるをえないのです。いま作られている優れた作品は美術館には適合しないですね。美術館のシステム自体にも合わない。そういう作品は建物が必要なのか、場が必要なのか、あるいはそういうものが要らないのかは別個の問題です。美術館という名前の器は時代に合わなくなってきたことを気づくべきときがきています。オルタナティブというかカウンターパート的なアートを発信する建物じゃなくて、それとは違う場が必要じゃないかなと思います。
沢山:最後に岡部先生からの質問をどうぞ。
岡部:おそらく針生さんがこの場を設けたいとおっしゃった1つの理由は、たぶん針生さんご自身が北川さんを被告にして、色々質問をしながら北川さんが言明できる機会をもたせたいと考えておられたのではないかと思いました。あるいはこの問題に関する針生さん御自身の意見を、みんなの前で公開できる場にしたいと思ったのかもしれません。その針生さんご本人がいらっしゃらないので、なかなか難しい部分もあったかもしれませんが、今回色々なお話を伺え、みんな考える機会になったことでしょう。ドイツの小都市で国際的な彫刻を街に設置する国際展を30年ほど前から開始しているミュンスターの話を北川さんがされていましたけど、妻有を手がけるという気持ちになったときはミュンスターの実践を肯定的にとらえて、日本でも何が出来るのではないかと考えられたのでしょうか。以前からお聞きしたいと思っていたことなのですが。
北川:今思えばそうだと思います。自分自身、1992年に初めて美術を観に外国に行ったようなもので、ミュンスター、カッセル、ヴェニス、バーゼルなどに行きました。その時に心に残ったのが、ミュンスターだったんですね。なにげなく色々残っていて、例えばオペラ座の怪人のポスターがぺたぺたと貼ってあるビュレンのゲートの写真は撮ってきましたけれど、そういうことも含めて非常にいい感じでした。あとはミュンスターという街が、ヒューマンスケールだったというのが非常に感じが良かったと思います。
岡部:ただ基本的にミュンスターは割と小さめだけれども都市で、自転車で回れる位のスケールですから、ひとつの展覧会をするのにちょうどよい規模であり、非常に条件が揃っている場所なんですね。北川さんが手がけた越後妻有はアートの展示という面ではほとんどが悪条件と言うか、一日で見て回るにはあまりにも広大な地域で、ある意味まったく逆のコンディションの中でされている。しかも豪雪地帯ですから、常設作品も創るとなれば、海外のキュレーターは作品の保存を非常に重要視しますのでこうした作品保存が困難な場所での設置には躊躇します。作家や作品に対する敬意から始まる西洋的な考え方と、それ以上に社会や受容をする地域の人々を中心に考えて作家や作品を選んでゆく北川さんの方法には、ある種逆転するような思考やアプローチがあると思うんですね。実現にはもちろん難しい部分が数多くあったとしても、全体として美術館や現代アートなどは西洋から日本に招来された外来品だとみなしがちな従来の歴史観を揺るがせるきっかけになったのではないか。再来週から始まる瀬戸内国際芸術祭も同じように、海風という作品にはもっとも害のある環境の中での展示ですので、やはり難しい場所であり、しかも小さな過疎の島々ですから交通の便もひどく悪い。普通だったらアクセスがいい美術館には行く、アクセスが悪いからあの美術館には行かないと、まるでアクセスのせいであるかのように美術館に行かない理由があげれるわけですが、そうした状況にもチャレンジしてみる。どのくらいの人が訪れるのでしょうね。それは一人一人、自分自身が試されることでもあります。そうした経験を積むことで、みんな自分自身を考える大きなきっかけをつかんでいくのではないでしょうか。越後妻有も4回すべて見させていただいていますが、毎回行くたびにさまざまなことを考えます。
北川:ありがとうございます。
岡部:瀬戸内国際芸術祭も頑張って頂きたいと思っております。山本さんも貴重なご意見、どうもありがとうございました。あと、沢山さんのことについて最初にご紹介せず、申し訳ありません。沢山さんは先頃『美術手帖』が開催している芸術評論で第一席を受賞した今非常に注目されている新人の美術批評家です。BTの最新号で、日本の今の現代アートを考えるテーマの座談会にも参加していて、そこで沢山君が発言していた意見にも非常に共感いたしました。みなさん今後ぜひ注目して上げてください。芸術文化学科の卒業生なので、紹介せずにすらっと流してしまいました。ごめんなさい。
沢山:本日は文字通り大変忙しい中お二人に来て頂きました。北川さんに関しては最初借金をしてでも必ず最後は利益を出すということを、すべての展覧会で実践されてきたと聞いています。その活動には色々誤解も多くあるとは思いますが、今回は今後の記録・資料としても残るような踏み込んだことも多くおっしゃって頂いたので、その意味でも重要な機会になったと思います。どうもありがとうございました。
(文字起こし:栄龍太郎・清水直樹・鈴木廉・原田裕規、コーディネート:清水直樹)