遊工房(村田達彦・村田弘子)×岡部あおみ
日時:2007年7月6日
場所:遊工房 br>
参加学生:大学院1,2年生4人
01 診療所からアートスペースへ
岡部あおみ:遊工房を立ち上げるにいたった契機と、いつ頃からこういう活動にご興味をもたれたかなどの経緯や背景について、まずお話を伺えればと思います。
遊工房(村田達彦):はい、お手元の資料に歴史が書いてありますけども、私がずっとガキの頃から住んでいるところで、親父が医者だったものですから、ちょうどこの(スタジオB)スペースが診療所で上に行くと結核療養所だったんです。
岡部:主に結核専門のお医者さまだったのですね。
達彦:そうですね。結核の患者さんが上に入院していました。30年ほど前にもう親父は他界しましたが、妻(村田弘子)はアーティストで、一緒になってから、彼女はそのスペースで絵の教室をやっていたり、杉並にはアニメの工房が多くありますが、ここもアニメスタジオとして使われていました。そんな時期が20年くらい続いたのかな。で、ちょうど2002年に遊工房アートスペースと名を改め、アーティスト・イン・レジデンスとギャラリーをスタートしました。今のスタジオAが妻の彫刻スタジオでした。木彫のスペックに一応入ってるんですけどね(笑)。
岡部:弘子さんがそのスタジオで彫刻をされていたときは、まだ診療所としても使われていたんですね。いつごろまでですか?
弘子:その頃はまだ診療所でした。
達彦:親父は70年代までは診療所をやっていました。80年代からは患者さんを診なくなってこのスペースは、絵の教室に使っていました。
岡部:ご自分の彫刻スペースをキープしながら、前医院として使っていたスペースでワークショップとか絵の教室などをなさっていたのが、しばらく10年近く続いたということですね。
達彦:現実的にアーティスト・イン・レジデンスに興味が始まったのは96年かな。
岡部:弘子さんが外国にレジデンスに行かれたとか、何かそういう機会があったのでしょうか。
弘子:レジデンスだけの経験はないんですけれども、彫刻シンポジウムでトルコとフィンランドに、トルコは1ヶ月強、フィンランドは2週間ほど参加する機会がありました。レジデンスプログラムのような体験でしたので、お返しをしたいと思ったのがきっかけですね。大変良い経験だったものですから。
岡部:海外でアーティストが集まって一緒に同じところで制作をするという環境づくりに心を打たれたわけですね。
弘子:打たれました(笑)。
達彦:私自身はエンジニアだったんです。アートと隣同士かもしれないですけれど、自分も学生のときに工学部の工場実習という科目がありました。自分でどこかの工場へ行って実習をしたら単位になるという(笑)。1966年ですが、海外の工場で研修するというシステムもできあがっていました。私は2期目か3期目くらいで、初期の頃ですが、IAESTEという当時は、UNESCOの下にあった機関、「the international Association for the Exchange of Students for Technical Experience」という国際機関で、日本の大学、日本の企業、それから海外の大学と企業が協働して学生を受け入れ、学生を送り出すプログラムです。今でもあります。当時私は先進国に行くことには興味がなく、イスタンブールで半年研修体験をしました。
岡部:学生で半年も海外にインターンに行かれるというのは当時でも今でもとても珍しいのではないかしら。
達彦:その頃はそうだったかもしれませんね(笑)。そういう原体験は妻とも共通していて、若いアーティストを受け入れたい、日本のアーティストはもっと外へ行って欲しいという、自分たちの体験をこのような活動に繋げたいというのが遊工房の活動の背景になっていると思います。
岡部:活動を始めたときはまだ村田さんはお仕事を続けられていたのですね。
弘子:そうです。もう今は退職しましたが、東芝という会社に30年以上いました。いわゆる当たり前の勤め人でした。
岡部:でその頃は弘子さんの方がアーティストとして活動はしていて、まだ受け入れるレジデンスはしてなかったということですね。
達彦:そうですね。ただ、上のスペースに私の関係で東京にエンジニアの実習に来た学生をホームステイとして受け入れていました。
弘子:ホームステイの受け入れをしていて、その中に建築方面の方がいたり、その方がまたアートの方に転向され縁が続いたりという経緯はありました。トルコのシンポジウムに参加してお返ししたいと思っていたときには、日本には受け入れ場所があまりありませんでした。
岡部:文化庁が予算を出して、各地にアーティスト・イン・レジデンスを振興しようと3−5年間の事業として動き出すのは、1997年ですから、2002年に遊工房が開始したのは、ちょうど公的なAIR事業が終了する頃で、都内にレジデンス施設はなかったけれど、神奈川県などにはすでにありましたね。
達彦:中央線の高尾の二つ先にある藤野町という所で「フィールド・ワーク・イン藤野」という活動があり、藤野在住の中瀬康志さんがグループをつくり、アーティスト自らが、実験的に作品をサイトに設置し管理していくというプロジェクトがありました。もともと10年前から地元のアーティストや国内のアーティストを呼んでフィールドワークという名の元に活動していたわけですが、文化庁のアーティスト・イン・レジデンス支援を受けてもう少しインターナショナルに活動しようとしていました。インターナショナルな活動になってからずっと妻は手伝っていました。
岡部:1989年位から2002年まで「フィールド・ワーク・イン藤野」での活動をなさっていて、その後ギャラリー活動をご自分で始められたのですね。
弘子:そうです。ギャラリーは、2002年からです。1989年位から、申し込みがあればホームステイを受け入れて、1ヶ月いたいという人もいれば、1年いたいという人もいました。
達彦:エンジニアの人で3年位滞在した人がいました。マケドニアから来て都立科学技術大学で博士号を取って、今は京都でパナソニックの研究所に務めています。そういう日本人になっちゃったみたいな人もいますよ。(笑)。
弘子:私自身がレジデンスをきちんとした形にしたいと思ったのは、オーストリーゲストハウスを知ったことも一要因です。 オーストラリア政府が自国のアーティストに海外経験をさせる為の施設を世界各地に持っていて、その一つが日本の藤野にあったわけです。2007年3月で藤野町の施設は閉鎖され、現在は江東区へ移ったと聞いています。以前は、藤野のゲストハウスに滞在していたアーティシストが都心に出て夜帰れなくなると良く遊工房に泊まっていました。 2002年には「フィールド・ワーク・イン藤野」が休止となり、東京で自分たちでレジデンスをやろうと考えました。
達彦:2002年には今のレジデンス(AIR1)のスペースとスタジオAのスペースを一組としてスタートしました。ギャラリーはもとは上にありましたが、階段を上がるギャラリーは入りづらいので2007年の1月に改修をしました。現在は、AIR1と2の2世帯の滞在スペース、AとBの2つのスタジオスペースと1階のギャラリーがあります。ここはオフィススペースであり、一部ラウンジと称してアーティスト・イン・レジデンスのいろんな国の情報を常時えることができるようにして、是非若い人に来てもらい、活動の場は、こんなに世界中にいっぱいあるから、どっか行って来いというそういうアドバイスができるような場にしたいわけです。(笑)。
岡部:2002年から年間どのくらいの作家が来て滞在しているのでしょうか。
弘子:現在15ヶ国80人程になります。長い方で6ヶ月ですが、数週間の方も数えていますし、カップルでいらっしゃる方もいらっしゃいます。
岡部:これまでの5年間で15ヶ国80人ですか。多いですね。年間20名弱から10数名ですね。
達彦:そうですね、こんな小さな施設ですから、年間10人?20人以上は無理です。毎週のように替わるんでしたら別ですが、我々は極力長く滞在し東京での滞在を楽しめる状態が一番大事だと思っているので。
岡部:そういう方たちが応募する方法は、友達を介してとかさまざまな方法があるのでしょうか。
達彦:一応6月を締め切りに設定し、主にウェブサイトで発信しています。ですのでウエッブで応募してくる場合と、あとは大使館とか国際機関が推薦してくる場合がありますね。
岡部:大使館とか国際機関からの応募は2002年位からあるのですか?
達彦:2002年位から入ってきています。ACCやメルボルンの機関、JUSFC(日米友好基金)、大使館とか国際機関が奨学金のような形で支援を受けている作家たちで、その作家の滞在場所としてここを使用しているわけです。ACCはアメリカから日本にくるアーティストか、アジアからアメリカに行くアーティストの交流支援機関です。だから国籍が日本の人もいます。あとはメルボルン大学に拠点を置いているASIALINK。ASIALINKはオーストラリア人のアーティストを海外に、特にアジアに出すという支援をしています。JUSFC(日米友好基金)でくる人もいますね。 (笑)。
岡部:そういう公的な機関で来てた人は、主にアメリカ人とオーストラリア人でしょうが、ヨーロッパからの人もいたのでしょうか。
達彦:ヨーロッパの機関からは独立した形で来ています。作家たちが自分で基金を取ってきます。例えば、ドイツから来る場合だとDAADがサポーターになっていたり、フィンランドの場合にはFLAIMEが後援していたりします。あとは個人的に友人から聞いたという申請もあります。
岡部:締め切りが6月で、毎年どの位の数の申請があるのですか。
達彦:それがね、締め切りを設けたのは今回が初めてなんです(笑)。締め切りがないというのは結構大変なことで、常時受け付けていると、空いていればどうぞということになるので、長くいたい人が入れないという現象が起こってきます。我々としては、埋まることが大切なのではなくて、その人が何をしたいのか、この施設がその人にとって役に立つのかどうかが一番大事だと考えていますから、プロポーザルのやりとりをします。また、地域でいろいろなアート活動をやっていますので、その活動に接続でき、交流も深まればいいですね。そのためにも、やはり長期滞在の方が良いです。ここでやりたいことをじっくりできると思いますので。
岡部:来られる方はみなさんアーティストでしょうか。
達彦:デザイナーも建築家も作曲家も、あらゆるジャンルの広い意味でのアーツの方が来られています。
![]() 遊工房アートスペース外観 ©youkobo |
![]() スタジオA(レオ・ファンダクレイ) ©youkobo |
02 何故、ここでやるのか
岡部:レジデンスの方々の活動内容で、お二人がもっとも重視したいと思われる項目はどのようなものでしょう。
弘子:この地域がその作家さんに取り、クリエイティブであるかどうかということと、ここで活動するのを望んでいるかどうかということです。ここは東京の六本木のような賑やかな場所ではなくて、古くからの地主や、中途から移って来た人、また、まったく新しく入って来た人々で形成されている住宅地域で、普通の生活の場です。それが遊工房がこの地域のこの場所にある意味のひとつでもあります。 実際に、滞在アーティストは地域とのコミュニケーションを大切にしている方も多いです。
岡部:ここのギャラリーの活動とレジデンスの活動は、どう関わり、どう仕分けされているのでしょうか。
弘子:ギャラリーは基本的には日本人の若い方を対象に考えている活動です。もちろんご希望があって調整が出来れば今回のように海外のレジデンシーの方の展示を受け入れることもしますけれども。レジデンスで来られている作家さんが長期滞在をしてこの地域を見て欲しいとともに、若い日本の作家さんとお互いに刺激を受け合うことも目指しています。ですからなるべく日本の若い作家に海外作家との接触の機会をもてるようにしたいのですが、なかなかうまく会えないんですよ。
岡部:日本の若い作家でここのギャラリーを使って発表したいという人には、ここに海外からのアーティストが来るレジデンスがあるからという理由が比較的多いのでしょうか。
弘子:そうですね。たぶんそういうことを意識していらっしゃる方も多いと思います。
岡部:常時外国のアーティストがいるギャラリーというのが特徴ですね。日本にはなかなかそうした場所はないし、言葉の問題もあってコミュニケーションは難しいけれど、それが一つの魅力になっているわけですね。
達彦:そうですね。特徴的ということで2007年に少し変えたことがあります。というのはレンタルギャラリーではありませんので、最低限の実費は頂戴するけども、我々もアートマネージメント的な切り口で、ここが持つデータは共有しながら、どう広報するか、DMはどうやって作るかとかどう配ろうか、自らをどう見せたいのか、どのようにお客さんに来てもらいたいのか、また期間中どうしたら良いのか、を考えてもらいます。全て自分で考えて行う人には光熱費的なものだけで大変安く展覧会が開けます。その代わり、作品を飾っただけでもう私来ませんという人は、ちゃんと1日監視を置くからその分の費用を頂きます。というスライディングスケール方式という方法にしました。私の個人的な意見は、若いアーティストも中堅のアーティストでも、どうも自分で自分の作品をどう思っているかを伝えていない。 ただ飾るだけというギャラリースペースを眺めていて大変疑問だった。自分とそれを見に来る人との対話が必要なんじゃないか。だから飾りっぱなしで作家が来ないって何なんだろうと、単純なそうした想いは今でもありますよ。
弘子:作家さん自身に力があっても若い人たちは生活する為にアルバイトをしなければならず、高いギャラリーを借りますよね。発表したいので、分割で払ったり、貯金したりして。 それを否定するつもりはありませんが、若い作家さんの状態をみていると、生活をそれにすり減らし、発表した結果、何があるのか?と考えた時に、日本の場合は作品、特に現代美術はなかなか売れません。助けてあげたいと思いますが、でも私たちも運営するために資金が必要です。そのバランスをどうにか調整できないかと考えた時に、作家さんに場所を提供できて、ギャラリーのシステムはこうなのだということを学べ、その際私たちが関わらなければいけない部分にはお金を頂く。それでご自分でおやりになって分からないことがあればいつでも聞いてください。というシステムを考えました。5年間の活動の中でこの方法をみつけたわけです。なにか気付いたら即実行が遊工房なので。(笑)今年からこの方法を取り入れています。
岡部:ここのレジデンスとスタジオは、1ヶ月だといくらでお貸しになっているんでしょうか。
達彦:レジデンスはそれぞれ独立してて10万円で貸してます。スタジオAの場合だと4万円なので両方だと14万ですね。スタジオBの場合は、スタジオスペースだけなので8万円です。
![]() スタジオB(吉賀あさみ、川上和歌子) ©youkobo |
![]() スタジオB(吉賀あさみ、川上和歌子) ©youkobo |
岡部:そうすると3組が同時に滞在することもあるわけですね。
達彦:そうですね。ちょうど先月そういう状態のときがありました。ただ、レジデンスは2組を基本に考えています。ちっぽけな施設ですから。アーティストのメンバーの一人一期間として、いろいろ交流はしていますけれど、我々のような施設は日本では少数派でが、海外に行くといくらでもあります。国際的な機関としてのRes Artisの会員としての繋がりで、どういうリアリティがあるのかはまだこれからですが、国際的なメンバーとしての活動は大事だと思うので、交換プログラムなどは、やっていきたいと思っています。
岡部:Res Artisの会員になっている場所は日本だと他にどこがありますか。
達彦:今は日本のメンバーは山口県の秋吉台国際村レジデンスと京都府の京都芸術センターと茨城県のアーカス(ARCUS)、あとは青森県の国際芸術センター、東京ワンダーサイトも入りましたね。
岡部:まだ少ないけれど、そういうネットワークを広げた方がいいですね。いろいろ情報交換も出来ますし。
達彦:J air network会議という団体があります。年に1、2回ゆるやかな繋がりでやっています。10日くらいの調査旅行ですが、オランダに行きました。オランダのような小さな国に、40ヶ所以上のレジデンスがあるんです。国立の大きい施設もありますが、小さいレジデンスが沢山あって驚きました。
岡部:私もオランダにレジデンスの視察に行ったことがあるのですが、アーティスト自身が財団から資金や支援を受けて、自分のもっている家の一部を貸してレジデンスをやっていたところもありました。
達彦:ええ。いろんな大きさでいろんな背景のもとに運営されていますね。日本の場合は自治体が代わりにやってみたりしているけれど、ちょっと、通り一辺倒ですよね。
岡部:遊工房にレジデンスで来られているアーティストは、例えば作品を作ったとしたら、ここのギャラリーでそれを展示することができるときもあるのですね。
達彦:タイミングがうまく合えばできますね。別の活動なので必ずしもギャラリーを使えるというわけではありません。今年からは、ご自分のスタジオをつかって最後の1・2週間オープンにして展示をするように提案していこうと思っています。
弘子:ここは公の施設とは違って私的な施設ですから、で変えましょうって思えばガラッと変えられるので(笑)。頭と体を使って工夫しつつやっているという感じですね。
岡部:アーティスト・イン・レジデンスやギャラリーのレンタル支援をなさってきて、一番よかったと思うことは何でしょう。
達彦:一番面白いと思うのは、ここでのレジデンスを経て、国に帰ってからレジデンスを自分で始めた人がいることですね。初めの頃にフィンランドの田舎の彫刻家が国際交流基金のグラントをもらって来て、ここで日本の桜とか竹とか、向こうにはないような材料を使って制作し、地域の公園や施設で展示もし、実験的な活動をしましたが、帰って、フィンランドの北のオウルという割と大きな町のすぐ北隣の自分の出入りしていた田舎町の大きな空納屋を使ってレジデンスしたいと考えたようです。フィンランドはEUですから、EUに遊工房も推薦状を書いたりして、見事強力な助成も勝ちとり、2006年10月にオープンしました。向こうに帰って4、5年経ってできあがったというわけです。
岡部:彼自身は彫刻家だけど、レジデンスのディレクターもやっているわけですね。
達彦:ええ。去年の10月のオープニングには行けませんでしたが、ともあれ遊工房が絡んだのだから、そこのレジデンスで日本の作家を必ず受け入れて欲しいと。(笑)。第1号は北海道のアーティストに行ってもらいました。彼女はもともとは十勝でスタジオを持っていて、東京にもいたことがあるので、声をかけたら実現しました。もともとグルジアやリトアニアなど世界中のレジデンスの経験をしています。今年の3月ヨーロッパに行く機会があり、フィンランドのレジデンスを見学できました。
弘子:立派でした。うらやましい(笑)。
達彦:ただ、せっかく古びた納屋が綺麗になっちゃって、手を入れすぎているんじゃないかとも感じましたが・・・(笑)。常時、海外の受け入れは2組、だから小さな規模なんです。でも地域のアーティストは納屋とつながっているスペースに5組ほどスタジオを構えていますので、お互いに刺激になっていいところです。
岡部:遊工房を中心に、地域の人たちとの関係が増えていくのも楽しいですね。来る人が増えたために、だれもが入りやすいように、ギャラリースペースの入り口の部分を改造したというお話ですが、杉並は地域としてもコミュニティー活動が活発だというイメージがあります。
達彦:そうかもしれないですね。ここは杉並の一番西端で杉並のチベット(?)なんですよ(笑)。だから杉並区にはあんまり期待してないですけど、なんて言っちゃいけないか(笑)。
岡部:(笑)。ここで、お二人がやった活動によってだんだん地域の人たちもアーティストの存在を認めるようになったのでしょうか。
弘子:そういってしまうと、自信過剰なんじゃないかな(笑)。
03 多種多様、アートイベント
岡部:ここのギャラリーの観客としては、どのような方が来られているんですか。
弘子:美術関係者はもとより、主婦の方とか、お年寄りとか、小学生も来ます。まだ、なかなかサラリーマンの方は来られませんね。 今は地域にいらっしゃる音楽関係の方とかデザインとか建築関係の方が少しずつ増え始めています。
岡部:イベントの機会に来てみようかといった感じですか。
達彦:そうですね。イベントは例えば5年間毎年やっている近所の都立善福寺公園で野外アート展をやる、「トロールの森」というアートイベントがあります。これは杉並区の地域活動で、西荻まちメディアというNPOを設立して、その活動の一環として2002年から区の後援もいただいて活動しています。
岡部:レジデンスと同時に地域活動もやっていこうという意気込みですね。
達彦:はい。その他の活動には、春の「西荻薪能」というイベントがあります。このイベントは井草八幡宮という大きな神社があるんですが、仲間と共になんとか6年続けたら地域の一大イベントになったという感じです。
岡部:こういうイベントは、住んでいる人たちにとって自分たちの地域で何か興味深い文化行事が行われているという誇りに繋がりますね。
達彦:そうですね。ただ、神社のような場所は特殊な世界で、大きい神社だと氏子総代さんが15人もいて、そういう方に合意をいただかない限り開催できない。そういう方にとってみればNPOなんてのは何のことだかわかりませんからね。でも1回目のときは神楽殿の前にブルーシートを敷いて500人くらいの人が座り込んで見てくれました。このイベントをなかなか良いと言ってくれて神社の方達が、3年目のときには逆にパイプ椅子をイベント会社からぞろっと持ってこさせたりしてくれました。 年に1回しかやりませんけど、今は1000人くらいの来場者があります。あと、駅の近くの桃三(桃井第三小学校)、隣の桃四(桃井第四小学校)という小学校でアートキッズという活動をやっています。ちょうど2002年くらいから公立の小中学校が土曜日が休みになり、土曜日に子供たちとアートで何かやろうというのがこのアートキッズです。
![]() 地域活動(小学校でのワークショップ) ©youkobo |
![]() アートNPO活動・都立善福寺公園・トロールの森・野外アート展(2004高島亮三) |
岡部:子供たちと一緒にどんなことをされているのでしょう。
達彦:アーティストと子どもが一緒に何かをつくりだすというもので、遊工房にいるアーティストも時々参加します。日本のアーティストや海外のアーティストと月に1回、土曜日に2、3時間のワークショップをやっています。始めの頃は地域文化探索隊という名前で子ども達を連れて公園に行って、「公園までの通ってきた道にブロック塀いっぱいあったね。ブロック塀はどんな穴空いてた?」とアーティストが面白いテーマを子ども達に与えます。帰ってきてから発砲スチロールで自分なりの造形を作ってみたり、陶板に描いてみたりだとかするというものでした。また、近所に江戸時代から伝わっているお地蔵さんがあって、その中のあるお地蔵さんはのっぺらぼうになっている。だから「これどんな顔してたかねぇ」なんて言って、子どもと一緒に顔を描いてみたりします。そういう風に、子供たちに自然に地域に視点をむけさせるような活動も含めた、アートキッズです。
岡部:そこの学校の先生も協力してくれるんですか。
達彦:土曜日ですから先生は基本的にはいないです。学校の図工室を使わせてもらい、道具の使用を許可してもらっています。
弘子:若いNPOの方もいます。アートキッズに関しての主力メンバーは今は3人です。
岡部:西荻まちメディアのスタッフ、会員は何人くらいいるのでしょうか。
達彦:会員は幽霊を含めて100人以上いることになってはいます(笑)。実際は20?30人くらいですか。実際にイベントなどで動いている人はそれぞれで数人ずつですから、積極的に動いているのは10数人というのが実態です。西荻文化祭は、ある時期を決めて駅の周りの商店をアートで彩ろうというイベントです。それ以上のことは参加者には与えない。協力してくれるお店をマッピングして彩るという何となくの文化祭なんですけどね。この名の元に協力してくれたお店もありました。割と自主的でゆるやかな活動です。この活動は一昨年から東京女子大学が11月にちょうど文化祭をやってるので、時期をそこに当てるようにして東京女子大学で文化祭をやっているけれど、そこまでの道筋の商店も文化祭ですよという状態です。
弘子:そのことによって地域の意識が少しずつ繋がっていくといいと思っています。
達彦:西荻地域に吉祥女子高校という美術が盛んな高校があるんです。ここの美術の先生と我々に繋がりがありまして、せっかく美術コースのデザインの科目があるのなら、ここの商店街に出て行こうよという感じで、商店の特性を高校生が提案し、お店のおじさん、との議論を通して実践にもって行くというプログラムです。 議論というのは例えばタバコ屋さんだと、「おじいさんこんな看板だからお客さんこないのよ」、「高校生でデザインを志す彼女のアイディアで看板を変えたら人が注目しますよ」とか、文房具屋さんで並べ方が気になるとか。だったら高校生が若干、教室で学んだ知恵で「この並べ方じゃたぶんお客さん、来にくいです」という風に、高校生に提案させる。だけど伝統的なお店を今までやってきたおじさん、おばさんですからそんなに簡単に納得しない、で良い意味で議論していただくということです。
岡部:それで実際に看板などが変わったところもあるのでしょうか。
達彦:ええ、何軒か。というか、もともとこのプログラムに賛同していただくお店を決めて、高校生にそこへ行ってもらって、何ヶ月か後にはこういうことを提案しようと決めてもらうんです。一番簡単な例だと、そば屋さんで薬味を包む紙がありますよね。あの紙をある高校生が気にして「こんなデザインにしたらもっと暖かく感じるんじゃないか」という提案をする。箸袋を変えてみたりとか、お風呂屋さんの看板をスプレーで少しいじったりとか、何軒か実績はできてるんです。これも毎年続いています。
岡部:アートフェスティバルもなさっていますね。
達彦:これは、南区の方にある科学館が少し寂れちゃっているので我々の力で活性化したいという想いから始まりました。科学とアートは表裏一体なので、科学とアートでの遊びの感覚でフェスティバルをやったらどうだろうかというプログラムです。一応2年間いろんなことをやっています。あと、他にもワークショップをするプログラムがあるんです。
岡部:それはどんな活動でしょうか。
達彦:薪能を見るだけじゃなくてプロの先生のもとで、能の舞を勉強しようというワークショップです。敬老会館という65歳くらいのお年寄り達が集まり利用できる場所がありまして、杉並区だと34カ所もあるんです。その敬老会館が去年の4月にゆうゆう館という名前に変わり、同時に65歳以上の方しか使えないという規則を外して、その運営管理をNPOに出すと役所が言い出した。 そこで、我々がこういうワークショップをここでやって見せますので管理を任して下さいと提案し、行政の委託事業を受け、空いてる時間帯に場所を使って地域の人に楽しんでいただく形で始めています。今までは場所がないからといって区民センターを借りていたんですが、我々が自分たちで場所を使えるようになったのでそこをワークショップのミニスタジオにしたりしていますね。そこでは我々の仲間と一緒に、地域の方を対象にした大人の図工教室もやっています。細々とした活動ですけど続けています。
04 6年目のNPOの危機
岡部:だんだんスタッフが育ってきていますか。
達彦:なかなか難しくて、今はそこが一番問題です。 弘子:情熱を持って活動していますが、ボランティア的な形で活動しているので、他になかなか広がっていかない。NPOは一応いろんなステージの方を集めたワークショップをやるとお金をとることはできますけれど、経費くらいしかもらえないのでスタッフのお給料までは出ないんです。
達彦:熱い想いで、手弁当で始めちゃっているので続かないんですね。ですからもっとこの活動に若い方が入ってもらえるような手立てを考えないといけません。
岡部:基本的に自分自身である程度余裕がない人は自前の手弁当はできないので、そうすると若い人にとっては難しくなり、やりたくても結局関われないことになってしまいますね。
達彦:そうなんですよ。今、ちょうど6年目になったこのNPOの危機がこの問題です。優秀な若い人に来てもらいたいけど、その人たちが生活していくところを保障できないので、確かにお金も年間1000万円超えるくらいの規模で動いてはいるんですけど、ただそれをお給料に出しちゃうと運営資金がなくなる。助成金だけで暮らしていますので、助成金が当たらないと今年はもう万歳で何も出来なくなっちゃうという状態です。
岡部:主にどういうところから助成を受けてられますか。芸術振興基金からもありますか。
達彦:今までは郵便貯金とかオリンピック財団です。ニッセイ財団、トヨタ財団からも頂ましたが、続けては頂けません。1回目はOKでも2年目は難しい。そういう意味でなかなか厳しいです。
岡部:コンスタントに続けていくには、継続的支援が必要ですけど、それを得るのはなかなか難しいようですね。
達彦:ボランティアで生まれたNPOはどこでも資金調達が問題になっていると思います。介護系のように事業系で始まっているNPOは、初めから体制を固めて動き始めてるので違うと思います。熱い想いで始めた好き者がやってるNPOは難しいですね。
05 繋がりとインターン
岡部:特に芸術文化系だからなかなか難しいところですね。先程お会いしたアムステルダムから来られていた方は、ここにインターンで来られているキュレーターの卵ですか。
達彦:そうです。遊工房がインターナショナルな施設になるにはどうしたらいいだろうかをRes Artis事務局長のマリアさんとディスカッションしていて、インターン制度を始めようじゃないかということになりました。それで是非ともアムステルダムで探して欲しいと言ったら、偶然に彼女が第1号で入ってきたんです。偶然にもオランダ育ちの日本人です。
岡部:彼女の場合はオランダの政府から奨学金とかグラントをもらって来ているのでしょうか。
達彦:いえ。もらおうとしていたんですけどうまくいきませんでした。ですから我々がこことは別のところに、寝る場所を提供して生活を保障しています。日本でいろいろと自分なりの調査もしたいでしょうし、その1つの拠点にもしながらここの仕事の手伝いもしてもらっていました。期間的にはちょうど8ヶ月でした。彼女はオランダのアートマネージメントの大学を去年の9月に卒業したばかりなので、正に遊工房での実習です。ご両親が小さなホテルをアムステルダムで経営しているんです。そこをアーティスト・イン・レジデンスにできたらという夢もあるようです。自身で、オランダのレジデンスを何カ所か調査していたようです。マリアさんはトランスアーティストというアーティストのウェブサイトのリーダーでもあるので、そこで、彼女は手伝っていたという繋がりもあってここに来ました。ですから我々がこの8ヶ月の間にいろいろアドバイスしてあげたり、企画やイベントも一緒にやりました。今年の3月にヨーロッパの方へ行ったときに彼女も同行し、実習のような形で計画を手伝ってもらいました。遊工房で12月に北アイルランドの10人のアーティストの展覧会を開催しました。これの交流展覧会を3月にベルファストでやりました。日本の10人の参加アーティストの中から5人を連れて行きました。我々が常時やっている企画に、そのような形で手伝ってもらったという形です。あとは、2007年2月にZAIMで嘉藤笑子(Rice+/ANN)さんがショーケースを企画しましたよね。遊工房も参加しましたが、その企画の一部もやってもらいました。今、展示しているクリントンとジュリーがショーケースで展示しましたが、その中で一番綺麗なブースだったと思います。汚いんですよねZAIMのは(笑)。クリントンが神経質なくらいピチッと綺麗にして、たぶんZAIMのスペースの中で一番完璧に真っ白にしていたと思います。喜ばれたかどうかはわかりませんけど(笑)。
岡部:(笑)。2代目のインターンとして、ジェイミーさんはここでは何を主にやりたいと思っているのでしょう。アーティストですね。 ジェイミー:アーティストのジェイミー・ハンプリースです。日本に来てから5年目なんですけど、あんまりまだ地域と接してないので、そういう環境を作ることを考えています。
達彦:来る前は沖縄に4年いました。もともとは英語の先生として沖縄に来て、それで何故か2006年に東京に引っ越してきたんだよね。
ジェイミー:はい。中学校で3年間働いて、その後は半年しかいなかったんだけど、琉球大学でちょっと日本語を勉強してからインターンとして東京に来ました。東京ではこういう仕事ができるので少なくとも1年間はいて、その後どうなるのかはわからないです。
岡部:小寺さんが今度帰られるから、その替わりに彼女の今住んでいるところを拠点として活動し、ここでインターンするわけですね。
ジェイミー:そうですね。もっとアートマネージメントを知っていきたいなと思ってます。あと、こっちでも英語を教えているのでそれを資金源にいろいろ見て回ったりしたいと思っています。
岡部: 5年間いろいろな活動をなさって楽しいとは思うんですけど、先程はお金の面で資金集めが大変というお話が出ましたが、例えば野外彫刻展「トロールの森」はどれくらいの資金で動いているのでしょうか。
達彦:それぞれの作家からまず3万円の参加費を出してもらいます。その資金で必要なチラシ等を作って、それと並行してグラントが通ればカタログが作れるわけです。
弘子:参加費と言いますか、運営を一緒にやりましょうという形ですので、チラシなどを作るためのお金は最低限必要なんですが、あとはもう一緒に運営しましょうという感じです。 最初参加者は3人でしたけれど、毎年平均10人くらいが参加します。ただなるべく参加するだけではない人、一緒に運営に参加できる人というのを条件に選んでいます。あとは、希望があれば、遊工房に滞在している海外の人のスケジュールを、なるべくその時期に組んで工夫をしながら参加していただいています。その時期はなるべく野外で出来る人を遊工房でも受け入れるようにしていますね。
06 韓国のオルタナティブスペース事情
達彦:韓国からもキム・ヒョンスクさんという多摩美の中村錦平先生のところを卒業した陶芸家の方が遊工房で制作して展示したりしました。
岡部:アジアの人もレジデンスへの参加はそんなに多くはないですね。アジアには奨学金などで海外に行けるシステムがまだそれほど整備されていないから、日本のほうでお金を準備してあげないとなかなか来れないという事情があるようですね。
弘子:だから遊工房のような施設に来ることができるのはアジアからは韓国の方くらいです。あとはインドネシアからもいましたけど、後はあまりありません。
達彦:でもアジアだけのアーティスト・イン・レジデンスのネットワークも4年前に生まれているんです。メルボルンで生まれ、3年前に台北でミーティングをやり、去年はクァンジュ(光州市)とソウルでミーティングをやりました。アーティスト・イン・レジデンスも何カ所かありますけれど、韓国の中はこれからどんどん生まれるという感じです。
大学院生(韓国出身):そうですね。今は10カ所くらい活動を始めてるんですけど、4、5年くらいなのでまだ最近です。韓国ではお金を援助してくれる省庁がお金を出し始めたのがちょうど90年代の終わり頃からです。例えばそこから年間1、2億が出るとしたら、その10カ所でお金を分けるというような感じで運営しています。それでどこかのオルタナティブスペースが新しく加わりたいと申請をしたら、既存団体から寄付を受けて、その団体からの寄付を加えて、またそこからお金を分けるという形です。だから省庁からの援助が切れた場合はもうどうしようもないという状態なのですが。
達彦:そうですね。結構プサン(釜山市)はいろんなことやっていますよ。ちょっと聞き間違いかもしれないんですけど、プサンの人が2年間の滞在期間でレジデンシーを始めるって宣言してました。
大学院生(韓国出身2年イ ウンミ):遅れているとは思うんですけど、プサンも最近になって政治や政策提供にすごく力入れてます。第二の首都でありながらも釜山市立美術館ができたのもごく最近のことです。それで市からお金が出るようになり、プサンの端のプサン市内という海に近いところに安い場所を提供してもらって、アーティストたちが集まって滞在して活動しながら、よそからもアーティストを受け入れてギャラリーをやっている場所があるんです。でも地域住民との関わりという面でそれほど上手くいっていなくて、今遊工房を見て本当にすごいなって思いました。私はここのように発展させていけたらいいと考えているので、できればこういう勉強をして、国で何かできないかなと思っています。自分は生まれたところはプサンよりももっと田舎の島なんですけど、そこにちょっとしたスペースがあるので、将来的にああいうところをレジデンスなどに使えたらどうかと考えているんです。
弘子:いいですね。そうやって若い人が夢を持って、楽しみです。
![]() スタジオA(サンドラ・ギブスン) ©youkobo |
07 地域と関わることから始まる
岡部:そうですね。オルタナティブスペースは70年代のアメリカから発祥したわけですが、今そういう歴史的なオルタナティブスペースの役割が変わりつつあると思います。もちろんそれぞれの国や都市で美術館の歴史、ギャラリーやアートスペースにおいてどういう時期を経てきたかで違いはありますし、その都市がギャラリーなどの商業的なアートスペースや美術館をどのくらいもっているのか、大都市なのか、小さい町なのかなどの規模でも全然違います。それらの違いを考えた上で日本の今の状況においてのオルタナティブスペースを考えたときに、どういう要素、方向性、内容が今そしてこれから有効なのか、日本で必要なことはどういうことなのかに関して、現場の立場からどうでしょうか。
弘子:私は地域と関わっていくことがすごく大事だと思います。地域のことをよく知り、地域の人と関わり合い、教えてもらいながらやらないとうまくいかないと思いますね。だから、やりますといって、外から来ただけではうまくいかないでしょう。根を据えてジワジワっと定着していくということでしょうか。
岡部:だけどそれはここにお二人が長く住んでいて、ここでやっているから可能だけど、例えばたまたまどこかに空いているスペースを見つけて、そこをオルタナティブスペースにしようかと考える場合は、みんなよそ者ですね。そういう場合は無理でしょうか。
弘子:いや、そんなことはないと思います。例えばこの「薪能」をやるにしても「トロールの森」をやるにしてもその場所がどう成り立ってきてどのような歴史があって、今どういう人が管理していて、どういう人が地域に関わっているかは実際にやりながら知ってきたわけです。それを抜きにしてはその場所を使えないわけですし、何か活動するのを見ていただいたり関わっていただいたりするためにも地域のことを知らなかったらできないわけです。ですから、やりたいことをやるんじゃなくて、やりたいことをやるためにその理解を得る、その理解を得るために自分たちもその場所のことを理解していかないとうまくいかないと思います。つまり、その場所のことが大切なら、よそ者だって構わないと思います。私たちもそういうことは本当に地域の方に教えていただいて、少しずつ改善していっていますから。
岡部:では、やりたいことをやればいいのでしょうか。
達彦:相手も一緒にやりたいなという気持ちにならないとよくないですよね。実現できた例でいうと、駅の近くの空き店舗の持ち主と我々が阿佐ヶ谷美術専門学校の先生と学生さんと一緒になって相談したんですよ。でもやっぱり持ち主が何をしたいか、こちら側からこんなことができるよではなくてね。例えば阿佐ヶ谷美術専門学校のパイロットショップをやりたいと内に秘めては行くけど、いきなりそんなことは言わないで(笑)。正直言って5年経って今は全然阿佐ヶ谷美術専門学校とは関係なくなっていますけれど。それらしいスペースとして動いてはいるんです。今空き店舗というのはたくさんあります。そういうのを若い人が占拠して何かやっていけるだろうって思います。その空き店舗をアートで何かできるはずだというのが西荻まちメディアの大きなテーマでもあります。どっちにしても今の話と同じで、その持ち主だとか地域の了解があって成り立つものですからね。
大学院生(韓国出身2年イ ウンミ):もともとオルタナティブスペースの目的は現代アートや若い作家たちの支援だったり、スペースを提供するためだったりというのが今変わってきて、遊工房のような形で成り立ってると思うのですが、私の地元のスペースはもともとそこに住んでいたアーティストではないこともあってか、地域との関わりがあんまりないんですね。田舎の人たちはアートに対してそんなに関心がないと思うので、「アレは何だ」という感じでそのスペースが浮いちゃっている状態です。そこで、韓国の場合は目的がはっきりと見えてこないという状態なのですが、地域との関わりが今のオルタナティブスペースの目的であるのか、そうじゃなければ継続のための一つの手段であるのかについてはどうお考えですか。
達彦:地域の活性化が目的になっていいと思うんですね。それでここに住みたい人が増える。住む人は誰でもいいと思うけれど、アーティストが住んだら面白いじゃないかという意図を少しずつ見せる、アーティストが居候する、アーティストが住む、何か面白いものを生んでいるというような対話が出来上がっていく。もちろんそれは何かの工芸工房ができてクラフトタウンができてもいいのかもしれないが、誰かが来てどう変わっていったって構わないわけですよね。
弘子:私が思うのは何代も続いてここにいる人たち、それから戦後を過ごしてきた人たち、それからもっと新しく入ってきた人たち、いろんな人が生活しているわけですけれども、その地域の人たちが現在お互いに交流していない状況で、世の中が物騒になって驚くような事件が起きている。でも隣に住んでいる人のことを知らないから防御しようがないという状態のときに、例えばアーティストがよそ者で入って来て、疎外される部分もあるかもしれないけれど無邪気に何かをやることで、その人たちを繋げる役割をするようなことが、ひょっとしたらあるかもしれない。そういうところに可能性があるし意味があると思ってます。
08 アーティスト側から見る地域とは
岡部:アーティストにとってはどうでしょう。例えばアーティストにとっては家賃が安い、借りられる場所があるから、友達がいるからということで集まる場所ができ、そこで一緒にオープンスペースをやろうという感じでスペースをたまには地域の人々に開いたりもできると思うんですね。アーティスト自身は自分の制作がまず大事で、発表する場があればいい。だけどそこに見に来る人を考えると、そこの地域の人との関わりもとても大事で、関係を発展させていかなくちゃいけない。なので、初めから地域との活動をやるためにアーティストが住み始めるとは限らないとは思うのですが。
弘子:アーティストから見るとそうですよね。でもそこに住んでそこで何かするは当然その地域との関わりを持っていないと成り立っていかないことだと思います。それはアーティストに限ったことではなくて、普通のビジネスマンでも子供が学校に行くようになれば学校のPTAに関わらなくてはいけないといったことは社会人としては当然起こってくることで、それは知らないでは成り立たないことですから、それはアーティストもそうだと思います。
岡部:アーティストは意識して地域とのことにも関わる必要があると。
弘子:無理にはしなくてもいいと思いますが、自然にそうなっていかざるを得ないだろうと私は思います。
大学院生(沖縄出身 1年岸本美々子):私の地元の沖縄の商店街は空き店舗が増えてしまって、シャッター街で昼間でも真っ暗なんです。そこに造形大学の方が来て空き店舗をオルタナティブスペースとかアーティスト・イン・レジデンスのように改造してます。それをやっぱり街の人は「何なんだろう、何で来てるんだろう」と変な人みたいに見るんです。そこから街の商工会議所とかでは活性化イコールアートみたいな感じで結び付けられてしまって、アートに瞬間的にお金などの経済的なものが求められてしまう。地域密着であるならば地域の人たちから助成を本当はもらえるべきなんだけど、あまりに地域の人たちから支援をもらうと活性化イコールお金に結び付けられてしまうので、結局企業などの自由に活動できるところから助成を求めてしまう。地域密着でいろんな人と接しなきゃいけないはずなのに、そういう部分で地域と離れてしまう部分もでてきてしまうと思うんです。活性化イコールアートだという街の人たちの発想はやっぱりあると思いますし、私はそれは問題だと思うんですけど、それについてはどう思われますか。
弘子:そうですね。それはもう自然淘汰というか、うまくいく場合もあるでしょうし、うまくいかない場合もあるでしょうね。またはそういうことでアートが活性化の道具に使われるみたいなことは、好きでなければやらなきゃいいわけですよね。また違う方法で自分の作品にじっくり取り組む方法もあるでしょう。私はいろんなものがあっていいと思っていて、その中で消えていくものは結局消えてくし、残るものは残る。残りたかったら工夫をする。それしかないと思います。だからもちろん役所の政策とか国の政策、それから地域の政策にはもちろん影響されるでしょうけれど、それは最終的にはどれだけそれをやりたいか、情熱があるかどうかだと思います。しょうがないんじゃないでしょうか(笑)、その時その時で考えるしか。結論はたぶん難しいと思います。
達彦:僕はね、アートで活性化みたいなテーマを行政がそこまでやるのかというのが基本的なスタンスなんです。だから税金はそんなことに使う必要はないんじゃないのとも思うんです。むしろ役所に頼る僕らもおかしいし、役所も町が元気になるらしいからお金を出すというのもおかしい。その両方がつまらないお金を動かし始めていると思いますね。アートはもっとそうではなくて、個がベースだと思うんですよ。だからこそ地域でアーティストがアートが生かせるいろんな手だてや仕組みというのを作れると思うんです。
09 地についた活動と外の空気を吸う活動、その接点
大学院生(1年生 田口有希):1点お聞きしたいことがあるんですけど、さきほど日本人の若手アーティストと、レジデンスに滞在するなりある程度の間日本で活動している海外からきたアーティストの方とのコミュニケーションの場みたいなものにもなればいいというお話だったのですが、そこがすごく難しいとおっしゃっていたんですけれども、そういったコミュニケーションの中で生まれるものはすごく大きいと思いますし、このグローバル化の時代で絶対に必要なものだと私も思うんです。ここではインターナショナルな活動と地域の活動という2つの活動が並行してるんですけど、その2つ活動の接点についてはどのように考えていらっしゃるのでしょうか。
弘子:地についたジワジワという地域の活動と、外からの風が入ってくるようなインターナショナルな活動というのは両方とも大事だと思っています。それは遊工房が小さくてもなんとか頑張ってやっていきたいと思っている理由のひとつでもあります。さっき難しいと言ったのは、若いアーティストが海外の方と接触して、それがきっかけで、もうちょっと意志をもって外へ出て、外の空気を吸って刺激を受け、少し成長していくって言うようなイメージを描いてるんですが、そうしたときに、言葉の壁と、日本人の遠慮深さがネックになっていると思うのです。ですので、私はヘタクソな英語でどんどん喋って、若い方が「あんな程度のレベルでとにかく頑張ってやっていけば意思の疎通はできるんだ」と思って、自信を持ってもらうようにしています。とはいっても言葉の壁は厚いですが・・・。しかし、少しずつですが、積極的に対話する雰囲気が出てきています。
大学院生(1年 田口有希):地域にいながら、外からの刺激を受けられるという状況はすごく理想的で必要なことというか、日本の若手のアーティストに限定した場合、外に出て行かなくてもまた違った形で外の人と関われるわけですから。その可能性がここにはあると思いました。
弘子:じゃあ出入りしてください(笑)。
大学院生:(笑)。ありがとうございます。
岡部:どうもありがとうございました。いろいろ勉強させていただきました。
村田ご夫妻:こちらこそ、ありがとうございました。 (文字起こし:赤羽佑樹)
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