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art apace & alternative space 佐賀町エキジビットスペース/Name









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イントロダクション

「エモーショナルサイト」とは、じつにすばらしいタイトルだ。2002年11月に食糧ビル解体前の最後を飾った展覧会。小雨降る中、大勢の人たちがこの有料の現代美術展に入場するため、ビルをぐるりと取り巻いて長時間待った。それはかつてない光景。なかなか進まない列のただなかで、心が躍った。

1927年に建てられた古い食糧ビル全体を使用し、このビルを拠点とした4ギャラリーのアーティスト36名による展覧会である。4ギャラリーとは1986年にオープンした佐賀町エキジビット・スペースを2000年に引き継いだギャラリー小柳とSHUGOARTSのライスギャラリー、佐谷周吾美術室(1992−96年)の後にオープンした小山登美夫ギャラリー(1996年)、TARO NASU GALLERY(1998年)である。

死に向かう場所を見送る森村泰昌の手の音、息子と母親の断絶を示すジリアン・ウェアリングのヴィデオ、稲の穂の漆喰装飾で飾られたプロセニアム・アーチの奥に掲げられた宮本隆司の食糧ビルの写真、シスレ・ジャファのチェーンのハンモックなど、場所とのかかわりで強度がより際立ってくる作品が見られた。

食糧ビルという昭和初期の米商人が建てた建物に、アートの場として先鞭をつけたのが、小池一子氏が主宰した佐賀町エキジビット・スペースだった。日本におけるオルタナティヴスペースの草分けでもある。1986年から2000年までにここのスペースで開催された展覧会の軌跡は、幸いにも「エモーショナルサイト」展の図録に掲載されている。

国や都などの公的援助もなく、佐賀町エキジビット・スペースというオルタナティヴスペースが、小池一子氏の情熱と、民間企業や財団や大学などの支援、スタッフの努力のみで、17年間という長い活動期間を持続しえたということだけでも稀有な出来事である。世界的な視野においてもとりわけ賞賛に値する。森村泰昌(「美術史の娘」展)、内藤礼(「地上にひとつの場所を」展)といった作家のデビューに、どのぐらい重要な役割を果たしたかは、作家たちが一番良く知っている。

それは赤ん坊がおとなになるほどの時間の長さ。インタヴューでも語られているように、かつて80年代半ばの日本には、オルタナティヴスペースといえるような場所はほとんどなかった。いわゆるギャラリーの商業活動とは一線を画しながら、アーティストの支援をするといった活動の場の必要性を、真摯に考えていた人も少なかっただろう。ところがそうした理想は、運営という現実の前では多くの矛盾をはらまざるをえない。とりわけバブルがはじけた90年代後半は、言葉にしがたい厳しい状況をくぐり抜けてこられたに違いない。

だが今では、古い小学校を使った展覧会や小ぶりなNPOの画期的な活動が各地で活発に行われるようになったし、アーティストを国際的な舞台に送り出す強力な企画画廊も増えた。たとえ、佐賀町エキジビット・スペースがなくなっても、懐かしい食糧ビルが消えても、あの場所に宿った時空間が培ってきたアートとスペースへの熱い思いの集積は、時代を超えて継承される。芸術や文化の歴史というものは、こんなふうに創られてゆく。

(岡部あおみ)